館の犬

ムラサキハルカ

第1話 家族

 石井太には二人の娘がいる。姉の美里と妹の美優。行方をくらました妻によく似たその姉妹を、太は一人、懸命に育ててきた。親の欲目もあるが、機会があればできた娘であると自慢したくなる。太にとって娘二人こそが自らにとっての全てだった。


 *


 日曜の朝方、仕事疲れで寝床に転がっていた太の鼻先をコーヒーの香りが撫でた。その匂いに誘われてもそもそと布団から這いでてから居間まで歩くと、美里がカップに口を付けながら微笑んでいる。


「あら、父さんおはよう。まだ、寝ていてもいいのよ」

 

 薄いレモン色のシャツに青のスカートを合わせた上の娘は、自らの長い髪を撫でつけてから、手前の木製テーブルにカップを下ろした。太もまた、おはようと挨拶を口にしてから、今日はなんか目が冴えてな、と答えたあと、コーヒーをもらえるか、と控え目に尋ねた。娘は目を細めて、もちろんよ、と嬉しそうに告げてから台所の方へと引きあげていく。その後ろ姿を見守ったあと、太はすぐ傍にあった椅子を引き寄せて腰かける。それから、既についていたテレビに映るニュースを一瞥したあと、いつものように美里が置いてくれた新聞紙を広げて、見出しの総理大臣の発言を特集した記事に目を落とす。その間も、アナウンサーが話す声音に耳をそばだて続けていた。


「お待たせ。今日は和食と洋食のどちらがいいかしら」


 程なくして、美里が太の前のテーブルにコーヒーカップを置き、そう尋ねてきた。どちらでも好きな方でいい、と応じると、上の娘は呆れたような苦笑いをする。そういう答えが一番困るのよ、などと言われてしまったのもあり、太は一旦新聞紙を下ろしてから迷ったあと、それじゃあ洋食、と告げた。途端に娘は唇をほころばせて、ちょうど私もそんな気分だったの、と言ってから、再び台所へと引きあげていく。その後ろ姿を見送ったあと、現役大学生である娘の意外に子供っぽい一面を微笑ましく思った。


 卵と焼けたパンの匂いが室内に充満しはじめたところで、襖を開けて眠たげな目をした妹の美優が出てくる。水玉模様のパジャマを着た下の娘はぼさぼさになった髪をそのままにして、よろよろとしながら、太のすぐ隣の席に辿りついた。


「ごは~ん」


 それだけ口にすると、机に顔を沈ませ動かなくなる。下の娘の相変わらずな様子に、太はおそらくテーブルにご飯がやってきたら戻るだろうと思い、新聞に載った野球の試合経過と結果などに目を落としはじめた。耳元ではニュースが終わり、いつの間にか政治討論がはじまっている。


 数分後、できたわ、という上の娘の声音を耳にするのと同時に、太は皿を受け取りに行く。台所で赤いエプロンをかけた姉が笑顔で渡してくるチーズトーストが乗った皿とスクランブルエッグとレタスとトマトのサラダが乗った皿の二つを受けとって、机の方へと踵を返した。見れば、ようやく下の娘が半身を起こしつつある。


「そんなにだらしなくしないで、自分でご飯を取りにきなさいよ」


 太に続いてやってきた美里が、妹に対して呆れ声で言う。それに対して美優は、ねむ、と答えながら緩慢な瞬きを繰り返してみせた。上の娘は溜め息を吐きつつ、今回だけよ、と仕方なさそうに言って、二つの皿を妹の前に置いて台所へと引き返していく。年下の娘は、ありがとう、とちゃっかりと口にしてから、トーストを両手で掴んだ。


「せめて、いただきますくらい言いなさい」

「いただきます」


 嗜める姉の言葉にすぐに反応したあと、妹はチーズトーストに齧りつく。その途端にほころぶ娘の顔を見た太は、胸が温かくなっていくのを感じながら、自らもまたパンに口をつけた。思いのほかぱりっとした感触とともに広がる蕩けるようなチーズの味は、それこそ何度も食べ慣れたものではあったが、そのお馴染みさ自体に安心感がある。


 おいしい。太の口から自然とその一言が出てくるのに合わせて、レタスにフォークを刺している美里が、そう良かった、と短く応じる。このやりとりもまた、何十何百何千と繰りかえされてきたはずだが、そこにこそ心地良さがある。太の隣では、同じように、美味い、と言い続けた美優が、早くもトーストを胃におさめてしまい、スクランブルエッグに取りかかりはじめていた。


「お姉ちゃん、ケチャップとって」

「届くんだから、自分でとりなさい」

「いいじゃん、面倒臭いんだし」


 嗜める姉の台詞に、いまだに眠たげな目をしたままの妹は僅かな労力すら働かせたくないようだった。太が、美里にばっかり頼ってちゃだめだぞ、と注意してみせると美優は、はーい、と気の抜けた返事をしてから体を伸ばしてケチャップをつかむ。上の娘は小さな溜め息を吐いてから、再びサラダを食みはじめた。


 そんなやりとりを微笑ましげに見守っている内に、太は手元からトーストがなくなっていることに気付いた。ゆっくりと味わえなかったのを少しだけ残念に思いつつ、スクランブルエッグにフォークを伸ばし口に含む。途端に黄身と白身にほんのりとした胡椒が混ざりあった味が口内に広がった。


「父さん、トーストのお代わりはいるかしら」


 目ざとさゆえか、上の娘がそう尋ねてくる。気が利く娘に育ったものだと、太はしみじみ思いつつ、お願いできるかな、と控え目に応じた。美里は小さく微笑んだあと、またチーズトーストでいい、と聞いてくる。太は少しばかり、前回の人間ドッグの結果が頭にちらついたものの、食べ過ぎなければ大丈夫だろうと自らに言い聞かせて、よろしくお願いします、と少し畏まってみせた。


「お姉ちゃん、あたしもお代わりお願いね。ついでにイチゴジャム持ってきて」

「はいはい。そんなにがっつかなくてもパンはなくならないから安心しなさい」


 ちゃっかりと自分の意見を挟んでくる妹に対して姉は苦笑いで応えつつも、その眼差しには、どことなく優しげな感情が入り混じっていた。二つか三つの年齢差ゆえか、あるいは真面目な姉と甘えん坊の妹という世間一般でありきたりな構図のなせる業なのか。とにもかくにも太は姉妹の仲の良さを見て、今日も世界は平和だな、と思う。


「美優は今日、部活はないのか」

「たぶん、大丈夫かな。週に一回集まって絵を描くだけだし」


 太の問いかけに、既に机に広げられている自分の食事を一通り平らげた下の娘は、曖昧に応じた。どことなく歯切れの悪い物言いは、不定期の呼び出しを食らうことがあるからだろうか。


「だったら、今日はみんなでどこか行きましょうか」


 会話の途中に言葉を挟みこみながら美里が、お盆で三つのカップを運んでやってくる。台所の方からは、焼けるパンの匂いと機械の音がしていた。その最中に、太の前に替えのコーヒーが、美優の前にミルクティーが置かれる。


「砂糖は」

「もちろん、持ってきてるわ」


 そう言って妹にシュガースティックを手渡してから、自分のカップを目の前に置いて、座りこむ。


「どこか、行きたいところはあるか」


 太は、車にどれだけガソリンが残っていただろうか、と考えながらそう尋ねると、美里は、特に希望はないんだけれど今日は天気もいいみたいだから、と答える。そのすぐあとに、美優は近場のショッピングモールに行きたい、と姉の発言を引き取らずに主張した。その態度に上の娘は、特に気分を害する様子を見せず、いいわね、と賛同してみせたあと、


「それじゃあ、モールまでは歩いていきましょう。三十分くらい歩くけど、それなりにいい眺めを見られるんじゃないかしら」


 しっかりと自分の意見を組みこんでみせる。これに美優はげんなりとしたように、だるい、といってミルクティーをがぶがぶ飲みはじめた。その点に関しては、太もまた同感だったので、車で行かないかと控え目に提案してみせるが、美里はにっこりと微笑んでみせ、


「でもお父さん、会社の人間ドッグ気にしてるって言ってたのに晩酌もやめてないでしょ。それだったら少しくらい歩いても罰は当たらないと思うけど」


 そう提案してみせる。閉じられた瞼の下の目が据わっているように見えたのもあり、太は、それもそうだな、とあっさりと認めた。一方の美優はといえばまだまだ不満、というよりも面倒臭いようで、バスか車でいいじゃん、どうせモールの中で嫌というほど歩くんだし、と文句を垂れたが、美里は同じ表情のまま、スイーツ食べるんでしょ、とぼそりと呟く。途端に下の娘は顔を強張らせた。


「それに何の関係があるわけ」


 やや上擦った声で尋ねてくる妹を姉は静かな目で見つめながら、手元にあったチーズトーストを幸せそうに噛みしめてから、ご馳走様でした、と手を合わせる。そうやってたっぷりと時間をかけたあと、席を立ってから美優の傍まで歩き、耳元に顔を寄せてなにかを囁いた。程なくして、下の娘は力なく崩れ落ち、わかったよ、と弱々しく応じる。


「理解してくれてとっても嬉しいわ」


 美里は満足げに告げてから、自分の席に戻ろうと美優に背を向けた。直後に、謀ったようにオーブントースターがパンが焼きあがったことを知らせる。とってくるわね、と言ってから台所に引きあげていく上の娘の背中を見送ったあと、太は机に顔を伏せる下の娘へと視線を向けた。


「最近、年のせいか、長く歩くと膝や股関節や足の裏が痛むんだよな」

「あたしもあたしも。虚弱体質だから、少し日の光を浴びただけでも灰になりそうなんだよね」


 力なく軽口を叩きつつ、お互いにこれから訪れるであろう運命を慰めあう。太としては下の娘と小声で囁きあっているだけのつもりだったが、台所にもしっかりと聞こえていたらしく、上の娘は、なに馬鹿なことを言ってるのよ、と呆れた声をだしながら、パンの乗っかった皿を父と妹の前に置いた。途端に鼻先を掠めたチーズとパンの匂いに気をとられ、散歩道を想像した際の疲労が振り払われる。美優もその気持ちは一緒なのか、気を取り直したようにイチゴジャムを持ってきてくれたかと美里に尋ね、はいはいちゃんとあるわよ、と仕方なさげな答えをもらっていた。


 二人のどうでもいいやりとりをいつまでも聞いていたい心地になりながら、再びチーズトーストにかぶりつく。今度こそ、味わって食べよう、と思うのだが、なんだかんだ、目は美里と美優の表情の変化の方に集中してしまっていた。程なくして、バターナイフで塗りたくられる甘ったるいイチゴの匂いも混じり、穏やかな朝方の気分はより高まっている。いつの間にかチャンネルが替えられたのか、耳から入ってくるワイドショーの情報を聞き流しつつ、娘たちのじゃれあいを目に映して口を動かす。舌には幸せの味が広がっていた。

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