第3話 砂と水
砂漠にだって砂以外のものもある。
ほんの少しの植物とか、あとは岩とか岩とか岩とか。
要するにだいたい乾いている。これが私たちの生きる世界だ。
「……山だ」
トオルがぽつりと口にする。
「まあ、山みたいな岩というか、そんな感じだな」
と私は返した。
本物の山っていうものは、もっと緑に溢れている。私たちの視界に映る岩山にも、多少の緑はあるものの、岩山全体の一パーセントにも満たないであろう。
日は沈みつつあった。岩山は夕日の色に染められている。
「……さて、どこらへんで今日は寝泊まりするかね」
そう独りごちて、周囲を見回す。今のところの第一候補はあの岩山か。
「でもなあ、ちょっと寝心地悪いんだよな」
砂とは違い、岩ばかりでごつごつしているのだ。故に寝苦しい。
「はてさて、どうしたものか……トオル」
「あ、はいなんでしょう」
「砂と岩、どっちがいい?」
「どっちでもいいですね」
「……まあそうなるよな」
私は笑みを浮かべながら小さく息を吐く。
「……ん?」
彼方に沈みゆく夕日、その光が、ほんの少しであるが隠れたような気がした。
マントが風にそよいでいる。私は砂をつまみ、それを宙に放す。砂粒は、まるで夕日から逃げるように飛んでいった。
「……ああ、これは……トオル、今日は岩山で寝るぞ」
「……え? どうして急に」
「雨が降る」
私はそう言って、岩山へと歩みを進める。
○
日が沈んだ頃に、岩山に到着する。小高い場所にそこまで深くはない洞窟を発見したので、そこを今日の寝床とする。
ぽつり、と水の粒が岩山を潤す。その一粒を端緒として、まるで堰を切ったかのように、雨が降り始めた。
「とりあえず早く洞窟の中に入るとするか」
トオルは珍しい雨に感動しているのか、それとも面食らっているのか、私の言葉が耳に入っていない様子だった。
「トオル」
「……あ、はいわかりました」
私たちは洞窟の中に入る。私は太陽電池式のランタン(これも旧文明の遺物だ)で明かりを灯したあと、テンガロンハットとマント、ロングブーツを脱いで壁付近に放置する。
「……どうした?」
そうしたあと、トオルの視線に気づき、問う。
「……ああいや、えっとその」
トオルはもじもじして、私から目を逸らす。
「その?」
「いや、ブーツとか脱いで、もし何かに襲われたときとか……」
「ああ、それは大丈夫だ」
「大丈夫?」
私の言葉にトオルが疑問を呈する。
「……このぶんだと、私たち以外のやつらも、何かを襲うとか食うとかそれどころじゃなくなるだろうよ」
そう言って、私は洞窟の外に視線を向ける。
ランタンの光がかろうじて届く入り口付近には、水滴がランタンの光を反射しておぼろに煌めいている。風雨は、かなり強そうだった。
「……そんなものなんですか?」
「ああ、そんなもんだ。だから、今日は営業終了」
「お疲れ様でした」
「どうも。まあ、今日は襲撃がなくて安全な旅だったけど」
この前の襲撃以来、数度オオカミを見かけたが、私たちを一瞥してどこかに歩き去って行った。
私たちは東に向かい、オオカミたちは西へ向かう。
オオカミたちは、まるで何かから逃げているかのように思えた。
少し、いや濃厚に、嫌な予感がする。
「でもまあ、契約だからな」
トオルに顔を向け、そう独りごちる。
「……何がですか?」
「こっちの話だ」
私がそう言ってはぐらかすと、トオルは追及してくることなく、「なるほど、そっちの話ですか」と返してきた。
雨が降り注ぐ音が聞こえる。砂漠にだって雨は降るのだ。本当に珍しいけれど。
もっとも、この降り注ぎ方はあまりよろしくないのだが。
「……そういえば」
洞窟の外を眺めているトオルに、声をかける。
「そういえば?」
「……どうして東に?」
この旅の目的は、東に向かうこと。どうして東に向かうのかといえば、それはトオルがそう望んだからだ。
しかし、私はその理由を知らない。
私の問いを聞いたトオルは、目を細める。それはまるで、過去を懐かしむような、そんな表情だ。
「……そこに、居場所があるので」
トオルはぽつりと言った。
「……そうか」
居場所、か。根無し草の私には、少しまぶしい言葉だ。
そして、少し哀しい言葉でもあった。
「……いいですね、姐さんはどこにも行けて」
トオルが私から顔を逸らし、ぽつりと言う。
どこにも行けることが羨ましいのか。なるほど、トオルからはそう見えるのだろう。
トオルの境遇を、彼らの境遇を考えれば、そう思うのは確かにそうかもしれない。
けれど、私の場合はどこにも行けるというよりは、どこかに行くしかないと言った方が、適切かもしれなかった。
「……お前は、何かやりたいこととかないのか?」
「……やりたいこと、ですか」
私の問いに、トオルは目を丸くする。
「ああ、やりたいことだ。目的、ここに私たちは居る。居るだけじゃ、たぶん駄目だ」
たとえば、この世界を水が張られた器として――実際のところは水、ほとんどないけどそれはさておき――私たちはそこにぽつりと浮かぶ、船のような形をしたものだとする。
私たちは、居るということ、浮かぶことはできる。けれど、それだけじゃ進むことはできない。
進むためには、意思の力が要る。何かをしたい、果たしたい、と望む力が。
「……やりたいこと、考えたことなかったですね」
「……そうか。……夜はまだ長い」
「……そうですね、ちょっと考えることにしますか」
トオルはにっこりと笑って、思考し始める。その笑みは、まるで無理して浮かべたかのようで、私は少しの罪悪感を抱くのだった。
雨の音を聞く。降り注ぐ水の粒たち、彼らが行き着く果ては、土の中。
そのずっと下に、かつての人々の営みが沈んでいる。
きっと、私のルーツも、そこに。
遠く、遠くの話になって、記憶は風化してしまい、記憶が定かでないけれど。
現実なのか、あるいは私の脳が作り出した幻なのか、判然としないけれど。
戻りたいのだろうか、と思った。
居場所なのだろうか、と思った。
「……どうかな」
壁の方を見る。テンガロンハットにマントにブーツ。この砂の星を共に歩いてきた
記憶の中にうっすらと残るルーツ、あるいは故郷より、こいつらの方が遙かに愛着が湧いていた。
「……なるほど、そういうことか」
私は私について一つ再認し、その充足は胸を満たす。
そして、トオルを見る。
「何か、あったか?」
「えと、その……、あることはありましたけど」
トオルは恥ずかしげな表情を浮かべる。あれ? と疑問に思った。
「あのーですね」
トオルはもじもじとしている。
「どうした?」
「いやえっとその、やりたいこと、あることはあったんですけど……」
「けど、どうした」
「ちょっと言うのは恥ずかしいというか」
「……そうか。じゃあ、無理には聞かないよ」
「…………ありがとうございます」
そんなやりとりを交わしたあとは、くだらない談笑をして過ごして。
「……それじゃあ、寝るか」
私はそう言って横になり、ランタンの電気を消す。背中に岩が当たって寝心地は悪いが、仕方ないなと諦める。
しばらく、目を瞑る。意識は覚醒している。
「……その、さっきの話ですけど」
トオルが静かに言葉を紡ぐ。雨の音は、先ほどよりも静かになっていた。
「……起きてます?」
「起きてるよ。聞かれない方がいいなら寝てることにするけど」
「あはは、えーと、どっちでもいいです」
「じゃあ起きてる」
「そ、それじゃあ」
少しの間を置いて、トオルが話し始める。
「えっと、やりたいことは……その、キスとか」
「…………おう」
突然のトオルの言葉に、面食らう。なるほど、年頃の少年とだけあって、そういう知識はもっていたのか。あるいは、恋に恋しているのか。
「どうしてだ?」
「……えっと、姐さんはキスとか」
「…………ああ、あるぞ」
旧文明の動画で、男女がやっているのを見たことが。
「僕はその……ないんですよ」
「……どうして知った?」
「その……、本で、知りました」
「なるほどな」
私と似たようなものか。もっとも、私とトオルの間には、見たと知ったの違いがあるけれど。
「その本は、まあ男女のささやかな恋愛を描いたものなんですけど、僕にとっては唯一の娯楽で」
「……ああ」
文明が滅びたあとでは、娯楽がある方が珍しい。そんなものに出会う前に、皆力尽きて骨となり、やがて砂になる。
だからこそ、そういった娯楽に出会えると、それに執着するのだろう。
「その本で……、主人公とヒロインのキスシーンが忘れられなくて」
「……なるほどな」
トオルの声は、少し熱を帯びているように思えた。
まさか、と思うけれど。一応、釘はさしておく。
「……私はお前に、やらないぞ?」
私がそう言うと、トオルは吹き出し、その後むせたのか咳き込む。
「げほっごほっ……、違い……違いますよ!」
トオルは慌てて否定する。その口ぶりが動揺しているように思えて、私の中に意地悪い気持ちが芽生えそうになるが、我慢する。
「……あはは、そうだな。……今日はもう寝るか」
これ以上この話題で盛り上がると、不要な情が湧きそうになる。そう思った私は、強引に話を終えることにした。
情が芽生えれば、別れるのが辛くなる。
旅人にとって、
「…………そうですね、寝ることにしましょう」
トオルは明るい口調でそう言ったあと、「おやすみなさい」と優しい声色で言う。
「ああそうだな、おやすみなさい」
私はそう返し、トオルが目を閉じているか確認せず、そのまま目を閉じるのだった。
〇
翌朝、起床。
出発する準備を終え、洞窟を出る。
「……すごい」
瞬間、トオルが感嘆の声を漏らす。
昨日、降り注いだ雨。今はもう止んで、空から燦々と太陽が照りつけている。
そして、昨日砂だらけだった世界は。
「…………水が、こんなに……」
雨が貯まって、海のようになっていた。水面が太陽の光を反射し、視界には白い光が入り込む。
砂漠の土壌は水を貯えにくく、そして吸いにくい。故に、このようなことになる。
昨日まで一面が砂に覆われていた世界が、今日は一面が水に覆われている。昨日まで私たちが歩いていた旧河道は、今頃あの水底にあるだろう。
「……姐さん、ありがとうございます」
「どうして礼?」
ぺこりと頭を下げるトオルに、目を丸くする。
「いや、きっと姐さんに連れてきて貰わなかったら、こんな景色は見れなかったので」
「……まあ、これは偶然さ。だから私の手柄にされても、ちょっとこそばゆい」
「それでも、僕にとっては姐さんのおかげですから」
トオルはにっこりと笑みを浮かべる。その笑みが少しまぶしくて、私はトオルから顔を背け、東を見る。
周囲に満ちるは水。昨日まで我が物顔で地上を牛耳っていた砂は、今この時においては、縮こまっている。
岩山を降りて、かつては砂丘の頂点であっただろう砂地を歩く。砂地は水の中において、細い線のようになって、遙か先へと続いていた。
その上を歩く。口元に浮かぶは、心の軽やかさが生んだ微笑み。
「……私のおかげ、か」
そう、誰にも聞こえないように独り言つ。
空を見上げる。
太陽がいつもより近くて、少し愉快だった。
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