26
「あ」
「何?」
ママとの外食。
ホテルに入ってすぐ、ママが立ち止まった。
「ママ、忘れてた」
「何を?」
「フキさんにお願いしなくちゃいけない事があったの」
「電話する?」
「そうするわ。あ、先に入っててちょうだい。いつもの窓際の席よ」
「分かった」
ママがあたふたして電話に向かってくのを見届けて、あたしはエレベーターに乗る。
ここは、あたしが小さな頃からパパとママとで来ているホテル。
何でも、パパ達の思い出の場所らしい。
パパは指揮者としてはもちろん有名だけど、ママ達の学校では伝説の人だそうだ。
何でも、パパはママが大好きで、だけどおじいちゃまに認めてもらえず…
ピアノコンクールで入賞したら考えてやる。と言われて、毎日毎日ピアノを猛練習して、見事入賞してしまったらしい。
その時の曲が『英雄ポロネーズ』
…だから、パパの言い分も分からなくもない。
あたしと付き合う人は、ピアノが弾ける人じゃないと…って。
あたしは一人娘だし、今までパパ達が築き上げてきたものを、本当なら守っていかなきゃいけない…
そう考えると…あたしは、パパとママが認める音楽人と結婚した方がいいんだろうな…
…まだまだ。
結婚なんて、まだまだ先の話。
恋愛もままならないあたしには、結婚なんて夢のまた夢。
「いらっしゃいませ。あ、お久しぶりです」
エレベーターが開いてすぐ、顔なじみの案内係の男性がニコリ。
「こちらです」
いつもの席に案内されて、月並みな言い方だけど、宝石箱をひっくり返したような夜景を眺める。
…真音、今日で20歳か。
どんど遠くなっちゃうな。
軽やかなピアノ曲が流れる店内。
背後に案内係りの人の声。
近付く足音。
ママにしては、ちょっと早いかな。
「久しぶり」
その声が聞こえても、すぐには顔を上げられなかった。
あたしの横で止まった足音。
靴を見下ろして、それから手を見て、顔を…
「……真……」
目の前にいたのは、真音。
真音はあたしの前に座ると。
「髪、似合うやん」
って、優しく笑った。
「どー…」
「どうして、ここにいるか?」
言葉の出ないあたしの代わりに、真音が言ってくれた。
だって、だって、どうして?
ママは?
あたしが振り向いてキョロキョロすると。
「おふくろさん、親父さんとデートするって帰りはったで」
って真音が笑った。
「…え…え…っ?」
「今日のこの計画、親父さんも許可くれてはるんや」
「……」
あたしはポカンとしたまま、真音を見た。
まだ、分かんない。
どうして?
どうして、真音はここにいるの?
どうして、パパ達はあたしと真音を会わせてくれてるの?
「乾杯しよ」
注がれたシャンパンを片手に、真音が言った。
何が何だか分からないまま、あたしはグラスを手にする。
カチン。
「どう…どうなってるの…?」
やっとの思いで問いかける。
真音はグラス越しにあたしを見て。
「あの時投げられた指輪、捨てたで」
って低い声で言った。
ああ…
もしかして、きちんと別れを言いに?
「そうよね…あんなひどい事言ったんだもの…」
あたしが真音だったら耐えられない。
「せやな。しばらく動けへんかったわ」
真音がシャンパンを口に含む。
「ま、それも俺が頼りない奴やからやねんけど」
「そんな!!」
あたしは顔を上げる。
久しぶりの真音ともろに目が合って…動けなくなった。
あの時はずいぶん伸びてた髪の毛、バッサリ切って…頼子の結婚式以来のスーツ姿。
少し…痩せた…。
「あの後、ずいぶん悩んだ。電話も出てくれへんし、親父さんには最悪嫌われるし」
「……」
「けど、るーをあきらめるっちゅう事は、夢をあきらめるのと同じなんや」
「どうして?あたしと真音の夢は…」
「…あの時一緒におった人、知っとる?」
「あの時…?」
「こっちで噂んなったらしいな。全然知らへんかった」
「…有名なシンガーでしょ?」
「そう。で、俺の先生」
「先生……英語の?」
「いや…」
真音はホールを見渡して、立ち上がった。
ウエイターさん達が照明を用意して、それがピアノを照らした。
「ピアノの」
真音の上着を、ウエイターさんが受け取る。
真音はお客さん達に一礼すると…
「……うそ……」
英雄ポロネーズを弾き始めた。
それは…今まで何度も聴いた事のある曲なのに…
まるで、初めて聴く曲のような気がした。
だって…
真音が弾いてるのよ…?
ハードロックバンドのギタリストなのに…
ピアノ…それも…クラッシックなんて…
何度も、何度も聴いた事のある『英雄ポロネーズ』は…
…その、どれよりも…情熱的で、あたしは震えが止まらなかった。
…この曲を…習ってた…の?
あたしの結婚相手は、『英雄ポロネーズ』を弾ける人じゃないとダメだ…って…言われて…
向こうに行って、ずっと…練習してたの…?
…あたしは、真音を諦めてたのに。
酷い事も言って、夢も理解しなくて…自分から恋する事から降りたのに。
真音…
ピアノを弾き終えた真音が、拍手を受けながら帰ってきた。
「どや?」
真音の問いかけに、あたしは答えられないまま。
「何か言うて欲しいんやけど」
椅子に座って指を組んで、あたしを見つめる真音。
何かって…何を言えば?
「あちらのお客様からです」
ウエイターさんがそう言って、バラの花を一輪持って来た。
真音はそのお客さんに軽くお辞儀すると
「気分ええな」
って笑った。
「…ピアノ、いつから?」
やっと出たあたしの声は、小さくて細かった。
「向こう行ってすぐ」
「すぐ…」
「うちのキーボードのナオトに習うてもえかったんやけどな。どうせなら思うて事務所の先輩でピアニストでもある彼女に習うた…けど裏目やったわ…」
「どうして、言ってくれなかったの?誤解だって」
「そんなん、都合良過ぎて言えへんわ」
「……」
「ほんまは、帰国してから弾くはずやってんけど、色々事情が変わって」
「事情?」
「ライバル出現」
真音は真顔。
「ええ男やな。晋のバンドのボーカル」
「あ…」
廉の事…
「…浅井君から?」
「ああ。それもあるけど、あの時隣のテーブルにいてごみ投げられたの、俺なんや」
「……」
あの時…?
とっさに、あたしの脳裏に蘇る…夏休みの…
「ダリア!?」
あたしが身を乗り出すと。
「そ」
真音は苦笑い。
「どどどど…」
あ。
あの後、真音に似た人を見たのは本物だったのね。
「かなり焦った。晋には普通にしてたけど、内心ヒヤヒヤ」
「…どうして帰ってきたの?」
「そりゃ二年我慢する予定やったけど、あっちでるーとあんな別れ方して、ライバルは出てくるし…急がなあかん思うて」
「…急ぐ?」
「あの日、あの後で親父さんにピアノ聞いてもろた」
「……」
まばたきができなくなってしまった。
そう言えばあの日、食事に誘われた…
もしかして、あの時…?
「…それで?」
「腕組みして、唸られた」
「……」
「でも、こうして会う事を許してくれはったし」
「真音…」
「もし、またるーが俺の事待ってくれる言うんなら…」
「……」
「待ってくれるか?」
「……」
あたしの瞳に涙がいっぱいになって、何も言えずに唇をかみしめてると。
「…待て」
真音が、真っ直ぐな瞳であたしを見て言った。
こんなあたしでいいの?
言いたい事はたくさんあるのに、言葉が出てこない。
小さく頷くと、真音は優しく笑って
「じゃ、これ」
って、ポケットから小さな箱。
「?」
「エンゲージリング。武城瑠音さん、俺と結婚して下さい」
「真音…」
「親父さんには挨拶したで?るーがこれを受け取ってくれたら、卒業してすぐ連れ去ります言うた」
「…パパ、怒ったでしょ」
涙が止まらない。
「殴られるの覚悟しててんけど、腕組みして唸られてばっかやった」
「あたしが…他の人好きになってるとか、思わなかった?」
「俺かて、いっつも不安やで?」
「……」
「るー、好きや」
そう言って、真音はあたしの指に指輪をはめた。
小さなダイアモンドは、あたしの手には高価すぎるほどの幸せで。
あたしは、これからどんな事があっても、この人を信じていよう…って…
…思えた。
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