聖都サルバドールと勇者

第3部 プロローグ

 それはシェリアがこの異世界に送られた一年前に遡る。

 それはリヴィエール諸国連合の隣国であるレーツェル王国、その首都にあたる王都サルバドールにて行われていた。


 日は既に沈み、都市の住人の多くは眠りについている時間だった。

 都市の中央にある山と見間違えるほどの巨大な城。大国レーツェル王国の王が住まう王城である。その地下では、ある儀式が行われていた。

 そこは石の煉瓦で囲まれた部屋で中央に青色の魔法陣が書かれた丸い足場と入り口の一ヶ所を除き、ぐるっと一周するように溝が掘られている。その溝は幅一メートル、深さは三十センチ程度で、そこに青色の光を放つ水が流れていた。


 そして外周には黒いフードを被った魔法使いがその溝の周りを取り囲むようにして立っており、この部屋の入り口には腰に剣をぶら下げた兵士が二人立っていた。

 誰一人言葉を発せず、ただただそこに立ち、その時を待っていた。


 その時、入り口から甲高いカツーン、カツーンと言う靴音と複数の別の足音が聞こえ始めた。その音に反応し、部屋にいた者達は皆、入り口の方に体を向けた。音が徐々に大きくなり入り口から出てきたのは一人の少女とお付きの兵士が二人。少女は銀色の髪に透き通るような綺麗な肌と清楚な顔立ち。それはシェリアに勝るとも劣らない美しい少女であった。その少女が入ってきた瞬間に空気が変わった。先程まで声はなかったが空気は緩やかなままだった。しかし今は空気が張り詰めたものとなった。


「姫様。すでに準備は完了しております。あとは姫様の合図を待つだけとなっております」


 少女の一番近くにいた魔法使いがそう言った。それを聞いた少女は小さく頷くと、

「ではこれより召喚の儀を始めます。全員、なんとしてもこの儀式を成功させましょう」


 少女の鈴のような凜とした声が部屋に響く。

 その声を受け、魔法使い達は再び魔方陣がある中央の足場に体を向ける。杖を魔方陣に向け魔力を込め、詠唱を唱え始める。すると魔方陣から青い光が漏れ出す。初めは淡い光であったが徐々にその光を強めていく。そんな中、少女は魔方陣に近づいていく。手に短剣を持ち姿勢を崩さず、まっすぐな姿勢で歩いていく。その姿はまるで貴婦人のようだ。少女は魔方陣の前に立つと何かを待っているかのようにそのままそこで動かなくなった。その間にも光はどんどん強くなっていく。そして部屋を包み込まんとばかりに大きくなったときだ。


「姫様、今です!」


 先程の魔法使いの声が聞こえると少女は指を短剣の刃に当て血を滲ませ、その指を魔方陣の上に向ける。切り口からにじみ出た血は丸い玉となって魔方陣に落ちる。その瞬間、魔方陣から強烈な光と猛烈な魔力の流れが部屋を包みこむ。風が吹き荒れ部屋にいる全員が目を両腕で守りながらひたすらに吹き荒れる風に耐える。


 やがてその暴風が収まり、魔方陣の光が淡い光まで落ち着いたとき、魔方陣に一人の青年が立っていた。年は十六、十七程度で、黒い髪、黒い瞳。そして茶色の学生鞄を持った青年だった。青年は何が起こったのか分かっておらず、キョトンとそこに立っている。少女は青年の前に跪くと彼に向けてこう言った。


「お待ちしておりました。勇者様」


 **


 彼、三神裕也はその日、通学に使っているいつも道を歩いていた。

 薄い水色のブレザーに白色のカッターシャツ、紫色のネクタイにチェック柄のズボンを身に纏い、片手には茶色の学生鞄黒を持っていた。

 現在の時間は五時を過ぎ、多くの人が帰宅のためのバスに乗るため、バス停に列を作って待っている。車道は多くの自動車によって渋滞が発生していた。

 目の前で起こっている、何も変わることのない日常を見ながら、彼は家路を進む。そんな時だった。


「ん?」


 彼の視線の先に白い何らかの物体が見えた。目を細めて凝視すると、それは白い渦のような物に見えた。彼は思わず立ち止まると、目を瞑り手でこする。そしてもう一度見てみるが、それは変わらず見えた。目の異常を疑い、周囲を景色を流すように見るが、そこには何も移っていない。しかし、先程の所に戻すと、それはあるのだ。


「何だ、あれ?」


 恐怖心を覚えた彼であったが、それよりも好奇心の方が勝り、彼はそれに近づいていく。

 目の前まで来ると、それは掌サイズの渦であり、ゆっくりと回転している。摩訶不思議な物体に困惑を隠しきれない彼であったが、ふと周囲の様子がおかしいことに気づく。

 掌サイズの大きさとはいえ、決して見えない大きさの物ではない。にもかかわらず、誰もそれに気づく様な様子はない。すぐ横を一人の男性が通り過ぎるが、彼は何の反応もせず通り過ぎた。


「もしかして、俺にしか見えていない……のか?」


 それに困惑する彼であったが、何を思ったのか、ゆっくりとそれに触れようと手を近づけていく。そしてもう少しで触れるという所まで近づけたとき、その渦は一瞬にして人一人を覆えるほどの大きさに変わる。


「なっ!?」


 彼はすぐに手を引っ込めて逃げようとするが、全ては遅かった。

 白い渦は彼を、いや彼のみを容赦なく飲み込んだ。彼の視界が真っ白になり先程まで見えていた風景が何も見えなくなった。それだけでない。動こうとしても動けず、まるで金縛りに遭ったかのようだ。代わりに自分の体が何か柔らかい風に包まれているような、そんな感覚を彼は味わっていた。

 やがて動けるようになると同時に、白一色だった風景が晴れた。

 そこは見慣れた風景ではなく、どこかの地下のような場所であった。石造りの壁の前に立つ、ローブを着た謎の人たち。彼が立っているのは丸く周囲を何らかの液体で囲まれた、魔方陣のような物が書かれた島のような所だった。


 ――どこだ、ここ……。


 彼の背中にじんわりと汗が出てくる。それと共に突然の出来事に対応しようと心臓が各部に大量の血液を送ろうと動き始める。


 その時だ。一人の少女が彼の元に近づいてきた。彼はその少女に目を奪われる。動く度に揺れ、輝くような銀色の髪、白く透き通るような綺麗な肌と清楚な顔立ち。軟らそうなピンク色の唇と、それはシェリアに勝るとも劣らない美しい少女であった。彼の人生の中では決して見ることがなかった、美しい少女がそこにはいた。やがて少女は彼の2メートル前のところで立ち止まると、そこで跪いて言った。


「お待ちしておりました。勇者様」


 何らかのドッキリだろうか、と彼は思う。しかし、一瞬のうちに周囲の景色が変わるなんてドッキリなどあるわけがない。そんなことが出来るのは魔法だけだと言う結論に至る。

 ならば目の前の状況は何だろうか、彼の頭が混乱状態に陥りそうになったとき、跪いていた少女が顔を上げる。


「勇者様?」


 首を小さく傾げ、自身を見てくるその仕草に一瞬ドキッとしてしまった彼であったが、わざとらしく咳をして誤魔化した。


「あ、うん、大丈夫。えっと、その前に一つ聞いて良いかな?ここはどこ?」

「ここはレーツェル王国、その中心である聖都サルバドール。そこにあります王城の地下です」


 彼の耳に聞いたことのない国と都市の名前が届く。目の前の少女や御付の兵士の顔つきから欧州や北米の人間に思えたが、どちらの地域にもそんな名前の国は聞いたことはないし、そもそも存在はしない。


「そ、そうか。それで勇者だったけ? 人間違いじゃないんですか?」


 若干引きつった表情でそう答えると、少女の顔つきが変わる。柔らかな表情から眉を顰め、真剣な視線を彼に向けてきた。


「いいえ、私たちが行った召喚の儀に間違いはありません。あなた様こそ、私たちを救ってくださる救世主様なのです!」

「ああ、うん、そう……」


 真っ直ぐに曇りのない瞳でそう言われてしまい、恥ずかしく感じた彼は視線をそらす。それと同時に彼の中にある喜びにも似た感情が芽生えた。


(勇者って、あの勇者のことだよな? まさかそんなことが現実に起こるなんて……)


 彼の中で勇者という物は憧れであった。弱きを助け、強き者を挫く。そんな勇者になりたいと、小さな頃の夢だった。しかし、歳を重ねるに連れ、それは決して手の届かぬ物であることに気づく。何せ、彼が知る勇者という存在は所詮ゲームの、架空の出来事の中に存在する人物であったからだ。どんなに手を伸ばしても、それは現実という壁によって阻まれる。

 しかし何の因果か、彼はそれに手を伸ばし、夢を叶える権利を得た。では彼はそれを喜んでいるのか、と言えばそうではない。

 周囲はフードで顔を隠した人たち。跪いているとはいえ、腰に剣を装備した現代の人間とは違う兵士。そして綺麗な美少女。これに関しては悪徳な宗教に勧誘するための美人局にしか見えない。そのため、彼の答えは一つだった。


「あの、悪いけどさ。俺は勇者なんかじゃないんだ。だから俺を元の場所に返してくれないか?」


 そう言われた少女は、まるでこの世の終わりのような表情をする。自身が救世主と信じて憚らない存在から拒絶されたためだろう。それに裕也は心が痛むような感覚を感じるが、それを抑える。彼とて、突然妙な場所に連れてこられたことに不安を感じていた。混乱して暴れ出さないだけ、彼は理性的だろう。その時、隣にいた兵士が少女に話しかけた。


「姫様。おそらく勇者様は召喚された直後ですので混乱されているのでしょう。時間を置き、話してみてはいかがでしょうか?」

「そうですわね……」


 少女は立ち上がると、杖を彼に向けて構える。


 ――何をする気だ?


 そう彼が思ったとき、その杖が緑色に淡く光り始める。


「世界の息吹きたる風の精霊よ。彼の者に柔らかな眠りを与えたまえ……」


 そう少女が言ったとき、彼を緑色の柔らかな風が包み込んでいく。咄嗟に逃げようとした裕也だったが、直後に彼を強烈な睡魔が襲う。立つこともままならないものであり、彼はその場に倒れ、その意識は暗闇に包まれていった。

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