第3-1話 城壁都市アリオン①

 宅配便。

 それは日本において遠くの人へ荷物を早く、そして確実に届けることが出来る非常に便利なサービスだ。通信販売が増えた現代において、決して外すことが出来ない重要な物である。

 そしてそれを支えているのは物を運ぶ車や、鉄道であり、航空機だ。そしてそれらが問題なく運用できる交通インフラがあるからこそ、それが達成できているといっても過言ではないだろう。


 ならば、そのような物がない世界はどうなるだろうか。

 当然、車や鉄道がなければ大量の荷物を早く送るなんてことは不可能だし、治安が安定していなければ無事に荷物が届くかも怪しいものである。

 

 シェリアが来たのはそんな世界のようであった。


 彼女がこの世界に来て少ししか経っていないが、この間に見た交通手段は馬車のみであった。

 たったこれだけの情報でこの世界全てを図ることは不可能であったが、もし本当に馬車のみであったとしたらどうだろうか。

 当然ながら馬車では現代日本のようにたった一日で数百キロも先のところに運ぶことは出来ない。ましてや馬車もないような場所では徒歩による輸送になるため、個人個人が運んでいてはとても効率がいいとはいえないだろう。


 ではその場合はどうすればいいか。


 どこか荷物を一カ所に集め、そして大量の馬車を使って一気に輸送する。

 ではその荷物を集積する場所はどんな場所がいいのだろうか。

 街道を歩いていれば魔物に襲われる、そのような状況からあまり治安は良くないようである。それから考えるに盗賊による略奪などの危険もあるだろう。故に安全に大量に荷物を集められる場所を確保しなくてはならない。

 そして今、彼女はその都市の前にいるのだ。

 

「暇だ・・・」

 

 近くに置かれた椅子に座り、目の前に広がる巨大な壁を眺めながらため息一つ吐くと、彼女はポツリと呟いた。


 彼女の目の前に広がっているのはアリオンと呼ばれる都市の巨大な防壁である。高さはおおよそ20メートルほどはあるだろう。そんな彼女の周りには騎士たちが忙しなく物資の運搬を行っていた。

 最初は彼女も手伝いたいとアレンに言ったものの、ゲストに力仕事などをさせては騎士の名誉がなくなると言われ、結局何もせずここで待機することになってしまった。しかし当然、それを眺めていても面白いことは何一つない。

 そんな彼女の視線は今や目の前にある城壁に向けられていた。城壁は白く、そしてどこを見ても継ぎ目のような物が無い。アレンの話によれば、この城壁が築かれ始めたのはおおよそ500年前で、当時の首長が町一番の建築家に命じて作らせたという。

 その建築家は火山灰や水を混ぜて時間とともに硬化する素材、つまりコンクリートを使ったという。これを建築するためには当然大量の素材が必要になるため、150年以上の時間がかかったとされている。


 そんなアリオンの夕刻ごろ城壁前には現在ある団体客が押し寄せていた。シェリアを助けたアレンたちを含む騎士団だ。彼らはアリオン側の許可をもらうと城壁の近くに天幕を張り始める。そんな作業を少し離れた場所にシェリアはいた。彼女は特に何かをすることはなく、用意された椅子に座って騎士団の作業を眺めていた。


 さて、このアリオンには都市を守るための大きな防壁が3つある。外側の壁から第1防壁、第2防壁、第3防壁と呼ばれており、このアリオンでは三つの壁の間に居住地が作られている。

 まず、第1防壁の内側は商業地区となっている。町の流通の要であり、各地方の商品などはここに集積される。

 続いて第2防壁の内側はアリオンに住む者たちの居住区となっている。もちろん、第1防壁の内側にもいくつかの居住区はあるが、ここ程の規模ではない。

 そして最後の壁である第3防壁であるが、この内側は行政区となっており、アリオンの行政府や、その他関係各所の施設が設置されているのだ。

 そしてこの都市は険しい山々を背にその麓に建造され、平地側には高さ二十メートルにも及ぶ城壁が三重にも渡って作られていることから、魔物はもちろん盗賊もそもそも攻撃を行う事すら考えない。その様子から『城壁都市』として呼ばれることもある。

 そんな都市なのだ、安全に物資を集めるにはうってつけの場所であり、周辺地域からの物資も集まってくるため、自然と規模も大きくなってくる。結果、周辺の街における中核を担う存在となっているのだ。


 閑話休題。


 シェリアが城壁の上に視線を動かすとそこには警備の兵士と思われる者たちが何人も巡回していた。その誰もが腰に剣を装備し、銃のような物を肩にかけて背負っている。そして壁の外にいる者たちを監視していた。当然シェリアがいる騎士団の方にも城壁の上から監視が付いている。


「すごい警備だな。まぁ、アレンさんの話では、この辺にある街の中核になるような場所らしいからそうなるか」


 それにしても……。とシェリアが小さく呟くと、アレンたちから聞いたこの世界のことを考え始める。そのときに聞いた話を総合すると、この世界において魔法を使う者が限られるということだった。

 誰しもが魔法を使えるというわけではない。そのほとんどが才能によって左右される。その弊害だろうか、この世界では科学も発達している。

 

 よくある異世界物の話では、まったく科学が発達しておらず、中世を舞台にした物が多い。

 その理由と考えられるのは、その代替技術である魔法が発達しているということだろう。

 魔法は科学と違って非常に使いやすい物と言える。何せ、魔法は自身の魔力を使って周囲を明るくしたり、何もないところから火を出したりなどが出来るなど科学では再現が難しい物を行うことができるからだ。そしてその世界にいる人間全てが魔法を使えるのならば、もはや科学など必要はないと考えてもおかしくはないだろう。


 ではこの世界はどうか。


 先に書いたとおり、この世界では誰しもが魔法を使えるわけではない。その理由として大きく二つに分けられる。

 一つは魔法自体が個人の才能に大きく左右されてしまい、広く普及するには敷居が高いことである。魔法を使うには本人の努力が必要だが、個人の才能によっても大きく変わる。どれだけ努力しても低いレベルの魔法しか使えなかったりするし、その逆も当然ある。


 そしてもう一つの理由が歴史的な背景が理由となっている。

 過去において魔法のほとんどは全ての人間に開かれた学問ではなく、一部の国、または国の上位に存在する者たちが独占していた。それはなぜかというと、庶民が反乱を起こさないようにすること、そして起こったとしても鎮圧がしやすい様にするためである。魔法は強力な力であり、下々の者がそれを持ってしまえば、この世は混乱に陥るという思想が根底にあったのだ。

 もちろんその思想自体は古い物であり、かなり緩和されているが、それでもまだ色濃く残っている地域もある。その影響からか、民衆への魔法の啓蒙などは行われていなかったため、多くの人々は魔法を使えないのだった。


 では魔法を使えない一般の人々はどのような物を使用しているのか。それを知る鍵となるのが、騎士団が持っていたあの銃だ。

 彼らが使っている銃は魔法を使っていない純粋な科学から生まれた産物である。地球上で存在したマスケット銃と同様に銃口から火薬、そして弾丸を詰め込む前装式の銃であった。

 彼らが使っていたランプもそうだ。下に燃料である油を入れ、火をつけることで明かりを灯すそうである。彼らは自らが生き残るために科学という抜け道を使い、そして彼らの力で発展させて来たのだ。

 さらにある国ではアーティファクトと呼ばれるものも作られており、その国を発展させているとのことであった。


「もしかしたら、冷蔵庫とかそんなのがあるのかもしれないな。早く町の中に入って見て回りたいな」

 

 そんな風にシェリアが思考を巡らせていると、作業を終えたのであろうアレンが着ている鎧を鳴らしながら走ってシェリアの元に向かってきた。


「お待たせしました、シェリアさん。少々天幕の設営などに手間取りまして・・・」


 と、アレンはシェリアに声をかけ頭を下げた。あの夢の後、シェリアは自分の名前をアレンたちに伝えた。しかし伝えたのは上の『シェリア』の部分だけでそれから下は教えていない。これは突然すべての名前が思い出せるのは不自然ではないかと思ったためであり、それに関してはもっと時をおいて話そうと考えていた。


「いえいえ、気にしないでください」


 難しい顔をしながら自分に向かって頭を下げるアレンに対し、シェリアはそう言いながら両手を振って気にしていないという意思を伝える。それを見たアレンは表情を緩ませる。ふと彼の手に目を遣ると一枚の紙のような物を持っていた。何だろうと彼女が思った時、アレンが頭を上げる。


「ありがとうございます。それでは行きましょうか」

「え、行くってどこにですか?」

「そうですね、そこに着いてからのお楽しみ、と言ったところですがいいですか?」

「はぁ、わかりました」

 

 アレンの説明に釈然としないシェリアだったが、そう言って彼に従うことにした。

 先導をする彼について行くとアリオンの城門前にたどり着く。相変わらずそこでは都市に入るための人でごった返しており、あちこちで彼らの所持品検査を行う衛兵が走り回っていた。

 

「すごい人だかりですね」

「ええ。この都市はこの地域の中核を成す都市のため、いろんなところから多くの商人が集まってくるのです。それに伴い人もたくさん集まってくるのですよ」

「へぇ、そうなんですね。それでアレンさん、おそらく町の中に入るんですよね? ということはこの列に並ぶってことでいいんですか?」

「ははは、さすがにこの列に今から並んでは遅すぎますよ。こちらについてきてください、すでに話は通してありますよ」


 そういうとアレンは再び前を進んでいく。それについて行くと、やがて正面にあった城門とは比べものにならないほど小さな門にたどり着く。幅はおおよそ五メートルほどであろうか、入り口に衛兵が二人ほど立っているだけであったが、そこを通る人もまばらであり、城門側とはまるで違った穏やかな雰囲気に包まれていた。

 アレンはそこに向かうと立っている衛兵に話しかけた。


「レーツェル王国騎士団アレン隊隊長アレン・ケーフィンである。本日はギルドマスターからの書状とそれに関する人物を連れてきた。確認をお願いしたい」

「どうも、ギルドマスターから話は伺っているよ。書状を確認するからちょっと待ってくれ」


 そういって書状を受け取った衛兵の一人が門の後ろに引っ込む。その光景を見ていたシェリアはアレンに話しかけた。


「あの、アレンさん。あの書状は一体なんですか?」

「あれはですね。あなたがこの都市に入るための許可証になります。部外者であるあなたが、この都市に入るには必ず持っていなければならない物なのですよ」


 城壁都市アリオンにおいて都市に入るためには許可証が必要になる。この許可証は周辺にある街より発行される物で都市を訪れる者は各都市にてあらかじめ発行してもらう必要がある。そしてこの許可証を持っているものはいくつかの簡単な検査を経て、ようやく都市の中に入ることが出来るのだ。しかし許可証を持っていないものはそうはいかない。まず入り口にて検査を受けるための申請書を出さなくてはならないのだが、これの許可に時間がかかる。それが終わったとしても次に待っているのは厳しい検査だ。名前、出身、都市に入る理由から聞かれ、そこから手荷物検査などを受けなければ入ることが出来ない。そのためアリオンに来る者たちの殆どは許可証を持っている。そのようなものであっても、これだけ並ぶと言うことはそれだけアリオンに来る人たちが多いと言うことなのだろう。


「今回は団長がこの都市に早馬を送り、ここのギルドマスターに許可書を発行してもらっていたのです。あなたを保護してくれないかという理由でね」

「そうだったのですか。ところで話を聞く限り、そのギルドマスターって人がこの町の出入りを管理しているようですけど?」

「正確にはこの町のギルドと言うところがしているのですよ。この都市は大きいですから、業務分散のためにこの都市の首長からの委託という形でやっているのです。しかし今回は緊急のため、ギルドマスターに直接書状を送ったのです。しかし今回の処置はあくまで仮の処置であるので、明日あなたにはギルドマスターに会っていただきます。そこで許可が下りれば正式にこの都市に滞在できる権利を得ることが出来ます。いいですか?」

「は、はい、わかりました。しかし、仮とはいえよく許可が下りましたね。普通は門前払いされるんじゃないんですか?」

「そうですね。実は団長も私と同じようにギルドマスターと知り合いでして、その縁で今回は特別に出してくれたのですよ」

「そうだったんですか・・・。ちなみに私と同じように仮の許可を受けた人っているんですか?」

「過去に数人はいるようです。どれも特殊な事情であった方々みたいですが、許可が下りなかった方もいるようで、必ず許可が下りるとは限らないようですね」

「そうですか・・・」


 必ず許可が下りるとは限らないと聞き、シェリアの表情が曇る。もし許可が下りなければ再びあの街道を歩いた時に逆戻りだ。そんな彼女の心情を悟ったのかアレンが声をかけた。


「心配はいりませんよ。面会の時は一人ではなく、私も参加しますので安心してください」

「あ、ありがとうございます」


 アレンがそう言ったことでシェリアの表情は少し明るくなった。その時、先ほど許可証を持って行った衛兵が戻ってきた。


「遅くなってすまない。今確認が取れたから通ってもいいぞ。あとこの許可証は返しておく。ギルドマスターから許可をもらうまではなくさないようにな」

「感謝する。では行きましょうか」

「はい」


 そう言い合うと二人は城門をくぐる。すると見えてきたのは町を貫くように作られた幅四十メートル程の大通りがあった。レンガが隙間もなくきれいに敷き詰められており、その上を荷馬車が行き交っている。道の中央には景観のためか点々と街路樹が植えられており、それは先に見える次の城壁にまで続いていた。そして両側には街灯のような細い柱が等間隔に設置されており、その間に屋台や商店が建ち並んでいる。そしてそこの店員が客引きのために大通りを歩く多くの人々に声をかけているなど、どこも活気に包まれていた。


「すごいですね。こんなに人がいるだけでなく、いろんなお店も建ち並んでいるなんて」

「何度も言いますが、この都市には各都市から多くの人が集まりますからね。当然各地に散らばっている商人も集まってきますので、いろいろな物がこの都市に集まってくるのですよ。それを目当てにさらに人が集まり、さらに商人が・・・と、このような形でどんどん規模が大きくなっていっているのですよ」

「そうなんですね。そういえばアレンさんはここのギルドマスターにお世話になっていたって言われてましたけど?」

「はい、幼少期から私はここに住んでいました。もう、ここを離れて6~7年は経っていますね。しかし現在はその時よりも規模が大きくなっていますけど。おっと、着きましたよ」


 そう言ってアレンが指差し、シェリアはその方向に目を移す。そこにあったのは一つの長方形の形をした木造三階建ての建物だった。プライバシーの保護のためか、一階の部屋があると思われる箇所の前には、木が植えられ壁となって建物を包み込んでいる。二階、三階には八つの窓が設けられている。入り口は正面から見て左側の端っこにあり、付近にはちょっとしたテラスが設けられ、そこには数人が設置されているテーブルで夕食を楽しんでいた。そして建物の二階中央につけられている看板にこう書いてあった。


「宿屋、月の宿?」

「そうです。あなたが今夜泊まることになるところですよ。宿の女将にはすでに伝えてあります。料金もその時にね」

「いつの間に・・・。そういえばアレンさんはどうするのですか?私と同じようにここに泊まるんですか?」

「いえ。私はあなたを送り届けた後、陣地に戻ります。ギルドへはまた明日に私が迎えに参りますので・・・」

「あれ、もしかしてアレンじゃないの?」


 聞こえたのは一人の女性の声。二人がその方向を見てみると、すぐ後ろに一人の少女が嬉しさと驚きが入り交じった表情でそこに立っていた。肩よりも少し長めにカットされたボーイッシュな印象を受ける赤毛の髪に、少し幼さが残る顔、そしてシェリアよりも少し低いくらいの身長である。革の胸当てを付け、その上には茶色のジャケットのようなものを羽織っている。胸当ての下は白い肌が露出しておりくびれやへそなどが丸見えだった。しかし全体的に慎ましやかな体型のためセクシーさはない。そして腰には緑色の布生地で作られたミニスカートのような物を来ており、それを腰に固定するための革製のベルトがつけられている。そのベルトには皮のケースに入れられた二本の短剣が下げられていた。

 誰だろうとシェリアが思っているとアレンが少女に声をかけた。


「アリアじゃないか、久しぶりだな。今日はロイたちとは一緒じゃないのかい?」

「ええ。今日は大人しく留守番ってところね。もっとも二人が帰ってくるのは明日になるようだけど。それよりも・・・」


 そこで会話を区切ったアリアと呼ばれた少女はズイッとシェリアに物珍しそうな顔を近づける。息がかかりそうなくらい顔を近づけられたシェリアは、すこし背をそらせて彼女から距離を取ろうとするが、そんなことはお構いなしにアリアは彼女の顔をいろんな角度から見始める。


「へぇー、きれいな人じゃない。この人どうしたの?あ、もしかしてアレンの恋人、それとも奥さん?」

「違うよ。私たちが街道を走っているときに魔物に襲われているところを見つけて保護したんだ」


 そうアレンからの答えを聞くと彼女はアレンの方を向き、意地の悪そうな笑顔を浮かべる。


「なーんだ。もしそうならウィルたちに言いふらそうと思ったんだけどね」

「そういうことをするのは頼むからやめてくれ。余計な誤解を招く。特にアイツに聞かれたら間違いなく茶化されそうだ」


 そんな答えを聞いてつまらないと言わんばかりに不満げな表情を浮かべる彼女に対してアレンは少々げんなりしているようで肩を落としため息をついている。その様子から何度か同じようなことがあったのではないかとシェリアは思った。そんなアレンに助け舟を出そうとシェリアは彼に話しかけた。


「アレンさん、この女性は一体誰ですか?」

「ああ、すみません。こいつはアリアと言いまして、まぁ昔からの知り合いといったところですね。それで、アリア、この女性はシェリアと言う方だ」

「どうもアリアと言いますー。よろしくシェリアさん!」


 そう言うとアリアは満面の笑みを浮かべながらシェリアの両手を持って握手をするとブンブンと上下に激しくふる。その顔はとても無邪気な笑顔でまさに天真爛漫と言った言葉がぴったりなほどに輝いており、シェリアは元気な人だ、という印象を持った。


「さて、悪いけど私たちはこの宿に用があるから、また会ったらゆっくり話をしよう」

「えっ、この宿に?アレン、今日ここに泊まるの?」


 何かに驚いたような表情でアリアはシェリアの手を離し、アレンの方に体を向ける。


「いやいや、私じゃなくて彼女だよ。明日この女性をギルドマスターに会わせないといけないからね。そのための宿としてここを用意したんだ」

「ギルドマスターに会わせるって、何かあったの?」

「まぁ、いろいろとね。それじゃ、また」


 そう言ってアレンは宿の中に入っていき、シェリアはアリアに軽く会釈をすると彼の後に付いていった。三段ほどの階段を上がり、開けっぱなしにされている両開きの扉を通るとまず見えてくるのは宿屋のロビーである。正面奥には宿屋のカウンターがあり、右の方を見るとテラスに置かれているようなテーブルが複数置かれていた。壁にはガラスのランプのような透明な照明器具が取り付けられており、内側には宝石のような物が電球色の光を周囲に拡散している。しかし装飾としてはそのぐらいであり、過度な装飾をしない非常に落ち着いた内装となっている。それを落ち着かない様子で眺めながらシェリアはアレンについて行きカウンターに着いた。


「いらっしゃいませ、月の宿へようこそ!」


 カウンターにいる受付の女性が頭を下げ、そう元気よく挨拶をする。白色の丸くリボンのような物がつけられた帽子、着ている制服は白色の生地のあちこちにポケットが設けられ、胸元には金色の刺繍がつけられている赤いネクタイ。スカートは短めで非常に動きやすそうな服装だった。アレンは彼女が頭を上げ終わるのを待って声をかける。


「すまない、部屋の予約をしていた者でアレン・ケーフィンと言うのだが」

「はい!えーっと、確か女性が一人泊まられるということで連絡を受けているのですが、もしかして後ろにおられる方が本日泊まられる方でしょうか?」


 そう少女は黒色のノートのような物を広げアレンにそう確認する。女性が泊まると言うことで連絡を受けていたが、目の前にいる明らかに男性とわかる人が現れたため妙に思っているようだった。


「ああ、彼女がその泊まる女性だ。私はその付き添いをしているだけでね」

「なるほど、わかりました。ではすみません、女性の方、こちらの方にお名前を書いていただいてもいいですか?」

「えっ」


 そう言われて広げられた顧客名簿を見てシェリアの動きが固まる。確かに名前はつけてもらったが、それを文字に起こすとどのような物になるのかまでは全くわからなかった。オドオドしながら顧客名簿を見てみると英語の筆記体のような文字でたくさんの名前が書かれていた。結構たくさんの人が泊まっていると思った彼女だったが、そこで妙な違和感を覚える。


(あれ?文字が読める・・・)


 そこに書いてある文字すべてが読めるのだ。確かに英語の筆記体のような文字だが、所詮似ていると言うだけであって別物であるはずである。しかし彼女にはそれが読めていた。


(そういえばこの宿の看板も普通に読めていたな。当たり前のように読めていたから気づかなかった。もしかしてあの人が困らないようしてくれたのだろうか?)


 そう思ったシェリアであったが、ふと自身の名前を思い浮かべてみると簡単にその文字が思い浮かぶ。いつの間にか彼女の頭にはこの世界の辞書セットが入れられているようだった。


(文字が分かるというのはありがたいな。これならこの世界で何とかやっていけるかも・・・)

「すまないがこの女性は少々記憶を失っていてね。私が代筆をしても良いだろうか?」

「はい、それでも構いませんよ」


 そんなことを考えているとシェリアの前にアレンが割り込むように彼女の前に出ると代わりにシェリアの名前が記入していく。気を利かせてくれたんだろうな、と彼女がそんなことを思っていると後ろから先ほど聞いた声が聞こえてきた。


「記憶を失っているってどういうこと?」


 その声にシェリスが振り返ると、先ほど宿の入り口で出会い別れたと思っていたアリアという少女が立っていた。


「あれ、アリアさん・・・ですよね? なんでここに?」

「私、ここに泊まっている、というか住んでいるんですよ。ここ、ギルドの寮も兼ねているので」

「アリア、その話は本当か?本当だったらちょっと頼みたいことがあるんだ」


 アリアの声に気づいたアレンはアリアの方に首を向けるとそう言う。


「頼みたいことって……、まぁ、何を頼みたいのかはわかるけどね。その前にこの人のことを聞いてもいいかしら?」

「そうだな。君は知っておいてくれた方がこちらとしても楽になる。鍵を受け取ったらそこのテーブルで話そうか」


 アレンは少し考えるような仕草をした後ロビーの奥にあいているテーブルを指差した。


「わかったわ。それじゃ行きましょ、シェリアさん」

「え、ちょ、アリアさん!?」


 アリアは出会ったときと同じような笑顔でシェリアの右手をとるとそのまま引っ張るようにテーブルに向かう。一方シェリアは突然の行動に動揺しながらもそれについて行き、それを見ているアレンは子供たちを見るかのような穏やかな笑顔を向けていた。  

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