第1-1話 すべての始まり①

「・・・ん」


 鳥の鳴き声に導かれるように、彼はゆっくりと瞼を開く。瞳に映し出された物は、風によって無数の葉が生い茂っている幾つもの木々と、その隙間からこぼれる太陽の光だった。

 鼻に入ってくる土の匂いを感じて、彼は首を右へとゆっくり傾ける。見えてきたのは小さな草が所々に生えた、柔らかそうな土の地面だ。鼻と地面の距離が近くなったためか、土の匂いが強くなっている。

 首を反対に動かすと、そこにあるのは同じく草が生えた地面。そしてその先には大きな湖が見える。それを眺めながら、彼は一言発した。


「・・・ここ、どこ?」


 ゆっくりと上半身を起こしていく。

 すると頭に刺すような痛みを感じ、その痛みに耐えるように目を瞑り、自身の手を痛む場所に当てて撫でる。


「いてて。えっと、何があったんだっけ・・・」


 そう呟きながら、彼は記憶の引き出しを開いていく。酒が入っていた為か、非常に朧気であった。苦戦しながらも徐々に記憶を思い出していく。

 そうして思い出した記憶は黒い物体が自身に向かってきている所、そして最後に憎しみの表情を浮かべていたあの青年の夢だった。


「えっと、あの後どうなったんだっけ?」


 うっすらと目を開け、指の間から周囲を見渡す。そこから見えるのはとても居心地の良さそうな、緑あふれる自然いっぱいの場所だった。彼が暮らしていた、アスファルトの道とコンクリートの建物でいっぱいの場所ではない。


「確か俺は飲み会が終わって帰っている最中だったよな、いつの間にハイキングに来てるんだ?」


 そんなことを呟いている時だ。無意識に額から離した自分の手が目に入る。

 それは雪のように白く、さらにきめ細かい皮膚の一つ一つが、木々の隙間から漏れる日の光によって、きらきらと輝いているように見えた。

 元々、内勤が多かった彼の手は日の光に焼かれておらず白い肌であったが、更に白くそして指も少々細くなっていた。そう、まるで女性の手のように・・・。


(おい、誰の手だこれ。俺はこんなにきれいな手はしてないぞ)


 手の先からそれがつながっているところを辿ろうとすると、もう一つの物体が彼の視界に入ってきた。そこにあったのは大きな二つの双丘だ。先ほどの手と同じように白く、輝いているように見えるきれいな肌だった。それが自分の胸に当たる部分から出ていることがわかると、彼の脳裏にいやな考えがよぎる。


 彼が自分の手をその物体の下に動かそうとすると、誰の物かわからない手が彼の意思を受けて動いた。そして移動を終えると、その大きな物体を持ち上げ始める。それはなかなか質量のあるもので、手の平にはずっしりとした重みと暖かな体温がしっかりと感じられた。そして触ってみると非常に柔らかく指の動きに合わせて次々に形を変える。


(ちょっとまて、ちょっとまって。いやいやそんなわけないって、幾ら何でもそんなことあるわけないって。ほらきっと変なものが胸についているだけだって)


 ますます脳裏にいやな考えが浮かび、じっとりと冷や汗が流れている感覚が彼を支配する。あの時から現在までの意識がない間に、自分の体に何かとんでもないことが起こっていることは火を見るより明らかだった。しかしそれを信じたくない彼は最後の望みをかけてある場所を確認をする。自分の下半身、彼が男であるならば必ずそこにあるもの。彼はほんの一途の望みをかけてそこに手を触れた。


(・・・ない、ない、俺の剣が、槍が、男の勲章が)


 その行為は彼に逃れようもない現実を突きつけた。その事実にしばし呆然とし、その口からは乾いた笑いしか出ていなかった。訳が分からない、という心境で放心状態の彼、いや彼女が再稼働するまでおおよそ10分ほどの時間がかかった。


「・・・よし、ちょっと落ち着いた。とりあえず現状確認だ」


 そう言って彼、いや彼女は周囲を確認するために見渡し始める。


 まず彼女が分かった事、それは今いる場所が山の麓にある湖であると言うことだ。

 彼女の視界には大きな緑で覆われた山と、彼女の目の前にまで広がっている大きな湖がある。湖の水面は高く上がった燦々と輝く太陽の光によって輝き、まるでいくつもの綺麗な宝石が輝いているように思える。湖の周囲にはそれを囲むように木々が鬱葱と生い茂っている。湖から目を離し反対側を見ると所々が石畳になっている街道のようなものがあった。緑のカーテンの隙間から漏れ出る光に照らされ、そこに住んでいる鳥たちの鳴き声などを背景音楽に、そこを歩くだけで非常に穏やかな気持ちになれるだろう。


「まったく見覚えがない場所だな。ていうかこの声は俺の声かよ・・・。俺、いつの間に肉体改造されたんだ?」


 ショックのあまり次から次へと出てくる独り言であるが、その声はかつて自身が使い慣れていた男性特有の低い声ではない。ガラリと変わった女性特有の高い声に困惑し、視線を下に落としては、気を落とす彼女。彼女としては認めたくない物であるが、その視線に先に再び大きな双丘が見え、嫌になるくらいにこれを現実と認めさせてくる。


「とりあえず、どんな姿になっているか水面に映して確認するか・・・」


 彼女は四つん這いでゆっくりと湖に向かい、水面に自らの姿を映した。そして目に飛び込んできたそれに彼女は釘付けになってしまう。


 何故か?


 そこに映っていたのは一つの芸術。見る物全てを魅了し動きを止め、その時間を奪ってしまう魔性の芸術だ。紫色の瞳は妖艶な輝きを放ち、それを見た物の視線だけでなくその魂すらも釘付けにして離さないだろう。髪は膝に掛かりそうなくらいに長く、その色は木々の隙間から溢れる光を受け、まるで光の粒子をまとっているかのように錯覚するほどの美しい黄金の色だった。

 彼女はそれを時が止まったかのようにそれを食い入るように見つめる。やがてハッと我に返ると彼女は恐ろしいものを見たかのように後ろに飛び去った。早くなった心臓の鼓動を感じながら、自分に起こったあり得ないような出来事に頭を痛める。


 それは彼女の予想を遙かに超えていた。確かに彼女は今までの状況から自身の体が女性に変わっているということは分かっていた。それは受け入れたくない事実であったが、同時に受け入れざるを得ない事実でもあった。だがここまでの変わり方をしているとは思っていなかった。


 暫しの後、心臓の鼓動が落ち着いたところで再び顔を映す。それを見た時にまた心臓の鼓動が早くなって来たが、少々慣れたのか先ほどよりも落ち着いている。

 彼女は水面に顔を映しながら手でゆっくりと触れていく。まるで高価な物に触れるときのように、優しく、そして慎重に輪郭をなぞって確認していった。やがて手に感じている感触と水面に映る形状は間違いなく一致していること確認した。

 なお、変わってしまったのは姿形だけではない。今彼女が着ているのは、男たちの視線を一心に集めるであろう、大きく胸元が開いた白いドレスだ。また金色の糸で編まれたちょっとした装飾もつけられており、それが気品さと優雅さを醸し出している。まるで王国の姫の様な出で立ちだ。

 そして自分が履いている靴も変わっていた。彼女が目覚める前に身につけていたのは黒色の運動靴だったが、現在履いているのは白色のハイヒールだ。色は逆転し、彼女にとっての履きやすさも逆転している。


 そんな自分の有様に彼は最後の抵抗を見せようとする。すでに変わってしまった自分の手をほっぺに持っていくとギュッとつねってみる。


「痛いな。ということは夢じゃないのかよ・・・」


 そう呟き、指を離すと疲れたように大きくため息をついた。

 

 ――なぜこんな事になったのだろう。


 彼女はそう思考を巡らせる。しかしその答えが出ることはなかった。ただただ同僚と酒を飲んで帰宅している最中に、この様なことになるとは一体誰が想像出来ようか。いや、出来るわけがない。何度考えても、"何故"に戻ってしまい、ループが続くだけだった。


 結局その思考を断ち切った彼女は、ゆっくりと立ち上がると再び周りを見渡し始める。しかし相変わらず見えるのは大きな湖と木々に囲まれた街道だけだ。湖で漁をする人の姿は見えず、ましてや街道を歩いている人もいなかった。結局彼女に分かるのはこのあたりには人はおらず、またこのあたりに人里があるかどうかわからないということだけだ。


(とりあえずそこに道があるのだし、そこを歩いて行けば誰かに出会うだろう。この姿であって大丈夫なのかはわからないけど・・・)


 そう考えた彼女は履き慣れていないハイヒールに若干ふらつきながら、自分が寝ていた草むらからゆっくりとした足どりで街道に出る。そこで彼女は左に首を動かし視線を向ける。そこから見えるのは木々が作り出す緑のトンネルの中を進む道であるが、カーブになっているために向こう側が見えない。右も同じ風景が続いているが木々の隙間から山の方に向かっているように見えた。


「知らない土地で山道に向かうのはさすがにまずいよな。となると、こっちが正解かな?」


 そう言って彼女は左に体を向けるとそこを歩き始める。彼女が歩くたびに砂を踏みしめる音、所々にある石畳の道を歩けばハイヒールの甲高い音があたりに響く。その足音は最初こそぎこちないテンポだったが、慣れてきたのか徐々に揃ったものに変わっていった。


 しばらく森の中を道なりに進んでいくと彼女の瞳に森の終わりが見えてきた。やっと出られると安堵のため息をつき、その足取りを速める。出口に近づいていくと徐々に視界が開けていき、ついに抜けるとそこには彼女が今までの人生で見たことがない壮大な風景が広がっていた。


 そこにあったのはどこまでも澄み渡った青く美しい広い空。その空は自身の大きさをちっぽけな彼女に誇示するかのようにそこに存在していた。そしてそこにあるのは空だけではない。彼女のすぐ足下にある緑の絨毯も遙か遠くまで続いており、その先には青と緑の境界線が出来上がっていた。それを見て彼女はどこまでも続いているような感覚に襲われ、その凄さに思わず笑みを浮かべる。


 彼女がもともと生まれた場所は大きな都市であったためか、見てきた風景というのは基本的に木々などがあまりないコンクリートジャングルに囲まれたものばかりであった。自然の風景などテレビの向こう側で、自分とは全く関係のない遠い場所のものだったのだ。故にどこまでも続くようなこの雄大な景色は彼女にとって実に新鮮な物に感じられていた。


「すごいな……。こんな風景を見たのは、生まれて初めてだ」


 そう感嘆の声を上げると、しばらく彼女はその光景を目に焼き付けるように、瞬きも忘れてそれを一心不乱に見つめ続ける。一生の中でもそうそう見ることはない光景だと思ったためだ。しかしそんな風に眺めているとある不安が彼女の脳裏に浮かぶ。そこにも街道が続いているのだが、その先を見ても建物のようなものは見えないのだ。それはどこを見渡してもまったく同じものだった。


「街や村とは言わないけど、せめて人家があればここがどこなのかわかるのになぁ・・・」


 そう彼女は残念そうにそうつぶやく。

 今の彼女は簡単に言えば遭難している状態だ。その上に明らかに自身が異常な状態に巻き込まれていることはよくわかっていた。それだけに不安は大きい。


 ――もし、ここが地球ですらなかったらどうなるだろうか。


 そう思った彼女の脳裏には今まで見てきた異世界関係のゲームや小説の内容が巡り始める。

 元々、彼はそういう物が好きだった。学生時代にはそのようなゲームや小説などを幾つも見てきた。そしてそれらの内容は似たり寄ったりで、世界観のほとんどは中世に近く、その上様々な魔物が跳梁跋扈しているものが多かった。


 もし、今いる場所がそれらと同じような場所であるならば、こんなところで一人でいるのは危険だということは火を見るより明らかである。

 それだけでなく治安も悪いことが考えられ、魔物だけでなく山賊などの武装集団もいることだろう。この世界の治安がどのくらいかは分からないが、襲われる確率は決して低くはない。


「一番最高なのは、ここが北海道の田舎とかそんなものなんだけどな」


 それは彼女の希望、いや願いと言っていい。もしそうであれば自分のことを説明するのは難しいだろう。しかし問答無用で殺されるようなことは起きない。もっとも今の彼女の姿のままであった場合、いろいろ問題がありそうなものである。


「とにかく前に進もう。こんなところで難しい事を考えていても埒があかないし、せっかくのいい景色が台無しだ」


 そう自分に言い聞かせるように言うと、彼女は街道を進み始めた。頬を過ぎる風は肌寒いものの、その風に乗ってくる草の香りの新鮮さに自然と顔が緩んでいく。更に障害物が一つもない、どこまでも広がるようなこの草原の雄大な風景によって、心が弾み自然と足取りも軽くなっていくのを彼女は感じていた。確かに今後の不安はあるものの今はこのまま行こう、と彼女は思った。


 しかし、そんな余裕のあった彼女はやがて自分が直面している現実にぶつかる事になる。


 彼女が平地の道を歩き始めてから三時間・・・町の影らしきものは一切見えず、それどころか街道を歩く人すら一人たりとていなかった。この街道を見つけた当初は何かしらの物は見つかるだろうと思っていたが、それは甘い考えだったことを思い知らされ、彼女はがっくりと肩を落とす。


「道があったからいくらかそばを通る人がいると思ったけど……。そこまで甘くないか」


 そんな言葉を放つ彼女。その時、ふとある物が映り込んだ。それはこの街道を進んだ先にぽつんと置かれるように存在している。目をこらしてみると、なにやら黒い物体が道の真ん中にあるように見えた。


 それは遠く細部まで見ることは出来なかったが、道の真ん中にある事から街道を進む何らかであることを彼女は判断できた。


「まぁ、いいや。そこまで行ってみますか。人がいたらそれだけでもありがたいしな」


 そう言って再び街道を歩き始めるがその歩幅は大きく、そして早い。人を見つけられるかもしれないという期待感が彼女をそうさせていたのだ。そして徐々にそれが形になっていく。見えてくるのは角張った黒い物体、そしてその周りにもいろいろなものが散らばっているのが見えた。道の真ん中で何か作業でもしているのだろうか、と彼女はそう思った。だが、更に近づいていくとそうではないことに気づく。


 見えて来たのは一台の馬車だ。だがその車体は道を塞ぐように横倒しになり、白い布で作られ屋根は無残に切り裂かれ、辺りには馬車に入っていたと思われる沢山の荷物が散乱しているのが見えたのだ。さらにそこまでの道にはある生物が倒れていた。


「これって・・・」


 それは一言で言うと醜悪と言っていいものだ。

 緑色のごつごつした皮膚、子供ぐらいの大きさの頭に大きく長い鼻や、細長の大きな耳がついている。口には鋭い犬歯がいくつも生えており、腰にはわらのような素材で作られた腰蓑を身につけている。彼女はそれに見覚えがあった。彼女がかつて遊んでいたゲームによく出ていた敵キャラだった。


「ゴブリン・・・」


 今自分がいる場所は、自分が知っている世界ではない。

 彼女がそれを知った瞬間であった。

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