第五章 倒叙の錯誤


 第五章 倒叙の錯誤


「では、行ってきます」

「気を付けて」

 七月十七日、火曜日。

 時計を見ると四時八分を差している。

 これから僕は、館へと忍び込む。

 目的は、水だ。

 海水は塩分が濃くて飲めないし、ヤシの実もあまり進まない。僕が今求めているのは、ただのまっさらな水だ。

 すでに僕と北南さんの喉はかさついていた。

「本当に大丈夫?」

 北南さんが言う。

「大丈夫ですって、きっと戻りますから、それまでここで待っていてください」

 僕はそう言い、林の中をかき分けていった。

 空は未だ暗く、遠くの方で朱い光が見えた。

 僕は夜中、草の上で野宿をしていたとき、誰にも見つからずに館へ入れるか気が気でなかった。

だが、館に着くまでが困難だったのだ。

昨日は無我夢中で走っていったから気づかなかったが、陽荘館から島の北端までの道のりはかなり険しい。それも懐中電灯の電池も切れてしまったため、わずかに差し込む陽の光を頼りに行かなければならないのだ。

――まだか……。

 両手で草木をかき分けて、太陽の位置と時計の針を目安にしながら歩く。

――あれ?でもこのやり方は北半球にしか使えないんだっけ……?

 とにかく、一度始めてしまったことには後戻りできない。

 草木の枝で皮膚が切れる。

――お、あったあった……。

 蒼く静かに輝く一羽の鳩、陽荘館だった。

――まず窓から空きの部屋に入って、そこから廊下に出て厨房の冷蔵庫まで行き、水を調達する。危険だが、他にやり方はない。

 僕は館の壁を這っている、雨水が通る管に足を掛け、手で窓枠を持ち、腕の筋力で上へ上へと上がっていく。

 二階だろうか。窓が足元にひとつしかないことを考えると、多分そうなのだろう。その階の真ん中あたりの窓だけが、鍵がかかっておらず、開いていた。中からカーテンが飛び出し、朝風に揺られていたのだった。

――ここしかないな……。

 僕は窓に手をかけ、遠心力を使って体を揺らす。なるべく音がしないように、部屋の床に着地した。

 外からは見えなかったが、そこには皀さんがいた。

――げっ。人いるのか……。

 僕はベッドに横たわる細菌研究者を見る。

 手には相変わらず包帯を巻いて、なぜか額に長方形のシートを貼っていた。

――…………。まあ寝てるからいいか。

 健康的な小麦色の肌。こうして見るとかなり整った顔立ちをしている。

――あ、水水。

そう思い、ドアの前に近づいてノブをひねった、そのとき。

「あ、いるか君じゃん」

――‼‼

まずい!

皀葵が起きてしまった!

僕はすぐさま振り返り、持っていたハサミの刃の片方を、彼女の眼球の上に突き付けた。

「動いたら殺します」

「おいおい冗談はやめてよ、おねーさん怖がっちゃうじゃない」

「本気です」

 僕はハンドルに力を込めた。それを見て皀さんは体を動かし刃物をよける。

「動かないでください」

「大丈夫、大丈夫。今私あんまり体調すぐれないからうまく動けないんだよ」

「……え?」

「昨日の夜辺りから風邪が酷くてさ、四十度あるんだよ」

「それは、大変ですね」

 僕は一本バサミを皀さんの顔から遠ざけた。

「原因は判らないんだけどね……そういえば、昨日嵯峨野蓮の遺体を調べてたとき、妙な事が判ったんだ」

「……妙な事?」

 僕は首を傾げた。

「遺体からサガノ病の病原菌が減っていたんだよ」

「ウイルスが……?」

 どういうことだ?

出血したことにより菌が外へ放出されたということなのか……?

 じゃあ、皀さんの風邪っていうのは……。

「いやいや違うよ、これはただの風邪だよ、検死をしたときは完全防備の状態だったから」

「そう、ですか……そういえば、悠さん、どうでしたか」

「ああ悠ちゃん?未だ意識不明だけど、心臓だけはちゃんと動いてるよ。もちろん脳死もしていない、そのうちよくなると思うよ」

「…………」

――よかった……。

 素直にそう思った。

 僕が安堵していると、

「ちなみにさー」

 と、皀さんは言った。

「さっきから妙な真似をしているけど、ぶっちゃけ犯人は君じゃないでしょう?」

 なっ⁉

 痛いところを突かれた。覚悟はしていたけれど、このタイミングでのその質問は、完全に不意打ちだった。

「…………」

 僕は黙りとおす。

 呆れて質問を撤回するのを、ひたすら待つ。

「質問に答えて。沈黙っていうのはルール違反だよ。――それに今ここに来たのも、食料を取りに来たのかな?本当に犯人ならそんな危険な事はしない。イカダを作ってでも外へと逃げるはずよ」

「…………――  」

 僕が仕方なく回答しようとした、そのとき――。

『皀様―、起きられたのですかー?』

「――‼」

 ベッドの真向かいにある、扉から。

ノックとともに聞こえてくる、明るくハリのある声。

 間違いなく、及川味香だった。

――あんたいつも大事なところで部屋のドアを叩くな――!

 なぜ病人の部屋にこんな朝早く訪ねるのだろう……。

 もしかして、監視されているのか。

「…………」

 充分にあり得た。むしろ自然である。

 怖いから考えるのをやめよう。

 未だノックは続く。

『起きられているのですかー?』

「あ、あ、あうん」

 焦りが滲み出ていた。

 僕は唇に人差し指を当て、皀さんに合図を送る。「わかってる」と、彼女に口が動いた。

『あのー、大丈夫ですか?』

「あ、いやそのー今女の子タイムだからちょっと待って」

――お、女の子タイム?

 なんだそのアダルティーな単語は。

『あ、はい、かしこまりました。――あとどのくらいで終わりそうでしょうか?』

「いや、すぐに終わらせるから、二分くらい」

『かしこまりました』

 話が通じたようだった。

 普段から使い慣れているのだろうか。

 皀さんはふうと胸を撫で下ろした。

「なんですか女の子タイムって」

 僕が声を潜めて言うと、彼女は平然と答えた。

多分ご想像はつくと思うので、直接的な表現は伏せさせて頂きます。

「――――のことだよ」

 そんなさらりと言われても……。

 この人、なんか男を日替わり定食にしていそうだな……。

 そんな僕の心を読んだのか、皀さんは、

「いや、私はまだまだデビュー作のデビューだよ」

 と、意味の分からないことを言っていた。

「それじゃあ、僕のことを話したら本当に殺しますからね」

 僕が改めて刃物を突きつけると、

「どうだか」

 と、彼女は肩をすくめた。

 僕は無視して窓を開ける。

 カーテンが揺らぐ。

 日焼けした頬を風がいためつける。

――ひとまず撤退だ。こんな状況で、うかうかはしていられない。

「では、また会う時まで」

 顔をそむけながら言うと、

「何ガキがカッコつけてんだよ」

 彼女は言った。

 僕は窓枠に足を掛け、部屋から出た。




「もういいよ」

 皀が言うと、「失礼します」及川味香は静かに戸を開けた。

「すまないね、さっき人と電話してたから……」

「そうでしたか、失礼しました――」

「いやいや」

 皀は平然を保つが、頬には汗が伝っていた。それには及川も気づいてはいたが、単なる病状の表れだろうと思い、特に気に留めず無視した。

「ああそういや見つかったの?相川と西東は」

 及川に皀が訊ねた。

「いえ、まだ……」

 それを聞いて皀は内心胸を撫で下ろした。

――絶対に北南を守ってくれよ……DOLPHIN……。

 皀はベッドのシーツを怪我をした方の手で強く握りしめる。

――私はもう、彼女の為にしてあげられることは何もない……。

 そう思った、次の瞬間。

「――‼」

 皀を急な激しい頭痛が襲った。吐き気。眩暈。動悸。咳き込み。

「皀様……皀様⁉」

 あまりにいきなりで及川は驚いたが、すぐさま彼女の体は動いていた。

及川は駆け寄り、ベッドの上の皀に何度も声を掛けた。

「大丈夫ですか、皀様!皀葵様!」

「――‼……――‼」

 咳は止まることを知らず加速するばかりだった。ひぃひぃと気管支のあたりから空気が漏れ、口の中には血の味が広がる。

 熱い瞼を開けると見えるのは、嵯峨野連の顔だった。

――ごめんね……とうとう君を救うことをできなかったよ……。でも、寂しがらないでほしい。今から私も、君の所へ逝くから。――あなたを一人ぼっちになんかさせない……。

 ぽた、ぽた。

 枕の上で雫の垂れる音がした。見るとそれは自分の涙だった。

――『なんで泣いているの』……。

 『彼』の声が聞こえた。

「いますぐ伊地知様を呼んできますから!」

 皀の手を握っていた及川は、大急ぎで部屋の扉を開け、廊下を駆けていった。「これは間違いなく風邪なんかではない」そう直感したのだ。

 ベッドの上の皀は、おもむろに横にあった車輪付きの机を手繰り寄せた。引き出しを開け、中から一枚のつやつやとした長方形の小さな紙の束を取り出す。

――…………――蓮君。

 それは、写真だった。

 この施設に呼ばれ、まだなかなか慣れなかった二十代。不愛想な彼が、初めて自分に心を開いてくれたときの写真。嵯峨野が及川たちと協力し、皀の誕生日パーティーを開いたのだ。画面左には、誕生ケーキのロウソクの火を吹き消す彼女。右には、それを見てわずかに微笑む車椅子の彼。

 後ろには、まだ善い医者だった時の明楽なお子。

――あの人も、元は良かったんだ……。

 最後の最期で、彼女に人間を感じた。

袖で自分の顔を拭く。涙と鼻水と、何かによって、それは濡れていた。

 写真の二枚目を見ると、それは海水浴の写真だった。一昨日同様、特別に嵯峨野に部屋から出ることに許可が出たのだ。弱々しい彼の矮躯から伸びる腕が、海水を宙に散らした。それに対抗するように、皀や西東も水飛沫を上げさせる。妙に海に映えたその姿は、とてもきらきらして見えた。

――北南もこのとき、まだ馴染めてなかったからな……。

 今思えば、懐かしい思い出の数々。忘れられない、一コマのハイライト。

 写真をめくっていくうちに、何か抑えきれない思いが込み上げてきた。

 これだけ痛いのに。

 これだけ苦しいのに。

 そんなことさえも、吹き飛ばしてしまうような――

――みんな、みんなみんな!

「うわああああああああああああああああぁぁぁぁぁああああぁぁっっ――‼‼‼」

 彼女は、声の限り、叫んだ。

 喉を殺すくらいの声量で。

 いろいろあった、彼女の人生だった。

 後悔もある。反省もある。けれど――。

――いい、人生だった。

 震える手から、写真たちが零れるように落ちていく。そのまま床の涙でできた水溜りに落ちる。乾燥したそれの表面を、水分がどんどん病原菌のように侵食していく。

 と、目を閉じると、冷たい手に何か暖かい感触があった。

「……え……」

 見ると、それは手だった。

 視線を縦に移動させると、そこには顔が。

 相川いるかの、顔があった。

 優しく、微笑んで。




 僕の顔があった。

「……まだ……いたんだ……」

 皀さんが声を何とか振り絞ると、僕は

「ええ。あなたがまた余計なことを喋るんじゃないかと思って」

「……ふっ」

 彼女は、少しだけ、笑った。そのときも、汗はぐっしょりで、息も途切れ途切れだったが、なんとか、自分の生命を保つかのように。




なんとか、私の生命を保つかのように。




「どうして……ここに」

 苦しそうに胸を押さえながら、彼女は言った。

「え?」

「どうしてここ、に?」

 最初、質問の意味が分からなかった。

「え、いや……窓から出て、壁にへばりついていましたから……」

「そうじゃない」

 僕の間抜けな話のことかと思ったが、どうやら違うらしい。

「そうじゃなっくって……はぁ……はぁ」

 顔に汗でくっついた髪を取りながら、皀さんは言った。

「どうして、私のため、なんかに……?」

「…………」

「危険でしょ、せっかく私が、うまく、やって――はぁ、はぁ――あげたのに、明楽たちに見つかったら、台無しじゃない……」

「決まってるでしょう」

「はぁ、はぁ……え?」

 僕はしゃがみ込み、床に落ちた写真を拾い上げた。

「写真を見るより、人に囲まれていた方が――」




「――つらくないでしょう?」

 彼は、私に、そう言って微笑んだ。

 それは、そう。嵯峨野連を思い出すような、爽やかな笑みだった。

「……なんてのは、僕の勝手な考えなのかもしれません。エゴです。ただ僕は、偽善のままに自分に後悔をさせないため、あなたの隣に居たいんです」

「…………ありがとう」

 素直に、そう口にした。

 まさかこの子が、こんな小さな少年が、私のことを救ってくれたなんて。

 そう思った、そのとき。

 いきなり、部屋の扉が勢いよく開けられた。

「皀さん!大丈夫⁉」

「しょ、所長?……それに、みんなも……」

 白衣を着た明楽なお子と、伊地知稜都、メイド等々……。全員が、私のまわりに来てくれた――‼

「私が悪かった、あの子を殺されたことについかっとなって、あんな下品な真似を……」

 明楽所長は、相川のことを見た。

「ごめんなさい」

「え、あ、いや……」

 急に頭を下げられ、たじろぐ相川少年。

――なんだ…………これは。

 夢みたいだ。皆が揃いも揃って……。

 これがよく言う走馬灯というやつなのかもしれない。

 それでもいい、と私は思う。

 なんて幸せな、死にざまなんだ。

「大丈夫よ、皀さん」

 と、明楽所長はしわしわなその手で、私の手をぎゅっと握りしめた。

「私が、あなたの手術をします」

 そう、はっきりと、言われた。

「……所長」

「大丈夫。私たちがついてるから」

 メイドの一人が言うと、全員がうん、うんと頷いた。

「みんな…………」

 再び目頭が熱くなる。

「さ、今すぐに器具の用意を!」

「はい!」

 伊地知が所長に指示され、部屋を出ていった。

「メイドさん、あなたは体が動かないよう固定して」

「はい!」

「相川さん、あなたは――」




「あなたは――皀さんの手を、握っていてください」

「え?」

「それは、あなたにしかできないから……」

「……はい!」

 僕は、威勢よく返事をした。




 部屋に伊地知さんが戻り、器具の入った袋を開ける。ブルーの中央が四角く切り取られたシートを掛けられ、裸の腹に液体を吹きかけられる。専門用語が飛び各中、明楽所長のゴム手袋をはめた手が、メスで私の皮膚にすっと傷をつけた。

 それは、何とも言えない絶妙な感覚。

 明楽所長……あなたたちは――。

私の立派な、ドクターです。




「水、飲んでなかったんですよね?」

「え?」

 部屋の外の廊下のソファ。

 まるで病院の一角のような、無機質な空間。

 だが、そこに子供向けの絵本や、彩り豊かな風景画、落ち着くピアノの音楽などは流れておらず、ただただ沈黙が続くばかり。

 横からは、あまりにも眩しすぎる陽の光。

 僕は先ほど戻って来た北南さんと、扉の向こうで行われている手術が終わるのを待っていた。

 つい無言になってしまい、半ばゾーンに入りかけていた僕たちに、及川さんは、紙コップに入った水を渡してくれた。

「あ、ありがとうございます」

「西東様も」

「ど、どうも」

 コップを受け取る。

 なみなみと注がれたその水面で、僕の顔が揺れていた。

 頂きます。

 ありがたくコップの端に口を付ける。冷たい感覚が舌から喉へ流れていく。

――何年ぶりだろうか、水を美味しいと思ったのは。

 横を見ると北南さんも同じような顔をしていた。

 及川さんは、自分の分の水もウォーターサーバーから持ってくると、僕の右にすとんと座った。

「相川様、君付けで呼んでもよろしいでしょうか?」

「え、あ、はい」

 なんだか親近感が湧いた。というか、素直に嬉しかった。

 しかもメイドだ。そんな職業の人はこの館か喫茶かディスプレイの向こうでしか見たことがない。

 赤面しないはずがない。

「私はですね、昔からメイドなんですよ、明楽様の」

「ええ」

「だから、昔から、あの方のことはすっごく信用していたんです。ある意味崇拝と言っていいでしょう、私はお医者様という職業に対して、一種の過信をしていたんです」

「……ええ」

「ですから――言い訳みたいになってしまいますけれど――私が必死になってあなたを追ったのも、ある意味仕方のないことだったんだと思います」

 とても落ち着いた、よどみのない声で、彼女は語った。

「盲目だったんです」

「モウ……モク?」

「私は、大学を卒業しても、なかなか職に就けなかったんです……。おしとやかな女性だったので」

 本当だろうか……?

「男ばかりの社会に紅一点で紛れると思うと……ハラスメントとかが怖くて」

「……そういうもの、なんですか……ね」

 すると彼女は、北南さんに向かって言った。

「西東様は……北南さんは、交際経験ってありますか?」

「え、私ですか」

「ええ」

「私は……医学の勉強ばかりしていたので、男性とお付き合いしたことはありません……告白はされましたよ?振りましたけど」

 さらりと言われたが、頭のいい人というのは色恋沙汰には興味を示さないものなのかもしれない。

 西東北南も、流石の名門悴田かせだ大学の出である。

「そうですか……でも、男性は苦手というわけではないのでしょう?」

「ええまあ……」

「私、男性恐怖症だったんですよ」

 男性恐怖症……恐怖症というのは星の数ほどあると聞いたけれど、人類の半数が恐れの対象なら、かなり私生活に支障をきたすはずだが……。

「ええ、もちろん困りました。私の場合重度でしたから。今だって少し怖いですよ?今君と話しているときも震えが出ます」

「は……はぁ」

「昔だったらもう窓から飛び降りてましたね、確実に」

「及川さんは……何故男ぼくたちのことが……嫌いなんですか」

「僕たち、か」

 及川さんは少し水を口に含んだ。

「なんか、すみません。別に好きで嫌っているわけじゃないんですよ?――昔、父親がいたんですが、それがどうしようもない極度のDⅤでして……それがトラウマで、精神を病んで、二十一歳の時、資本大学附属病院に行ったんです。そのとき、知り合ったのが、今の所長で」

 そういうことだったのか……。

「研究所で雇ってもらえるって聞いて、本当に嬉しかったんです。そこには男性がほとんどいないから、あなたに最適だって」

「…………」

「だから、私はあの方に付いていくことにしたんです」

 明楽なお子。

 あの人も、医者なのだ。

 どうしようもないくらいに、人間的な、ドクターだったのだ。

 彼女は、そう締めると、僕の顔を見、立ち上がった。

「本当に――すみませんでした」

 深々と、髪の毛先が膝に来るくらの謝罪だった。

「……いいんですよ、そんなこと、忘れて。ですよね、北南さん」

「え、あ、うん」

 北南さんも頷いてくれた。

「だから、顔を上げてください」

「……ありがとうございます」

 及川さんは、そう言って、首を上げた。

二時間ほど経過しただろうか。

時計を見ていないのでよく判らないが、本当はもっと短かったのかもしれない。

目の前の手術室の赤いランプが消え、大きなその扉が開いた。その中から、一人。防菌用の服と帽子を脱ぐ明楽なお子がいた。

「所長!」

 僕たちはソファから立ち上がり、彼女のもとへ行く。

 心臓の鼓動が早まる。

「皀様は、たすかったんですか⁉」

 及川さんが聞くと、明楽さんは、神妙な顔つきでこちらに寄って来た。

 奥の部屋の様子は、暗くてよく見えない。

「手術は……」

「…………」

 緊張で胸が張り裂けそう、とはこのことだ。自然と拳の締まりが強くなる。

「手術は、無事、成功しました」

「……やった」

 北南さんは及川さんと顔を見合わせる。

「やった、やったよ!」

「はい!」

 弾けるように飛び跳ねたのち、北南さんは「良かった……本当に……」と、涙交じりで床に崩れ落ちてしまった。

「明楽先生」

「え?」

 僕が声を掛けると、医師は少し躊躇した。

「僕、先生のこと、少し勘違いしていたみたいです」

「いいんですよ……私も少しおかしくなっていたので――」

「先生」

 僕は、しっかりと、頭を下げた。

「明楽先生、あなたは、胸を張れる、素晴らしい医者です」

「相川さん……」

「ありがとうございました、先生」

 すると彼女は、にっこりと、微笑んだ。

 万人を癒す、聖母マリアのように。




「さて、皆さん」

 食卓のテーブルで、まず最初に声を上げたのは、明楽さんだった。

 その日の夜は、何だかいつもより神聖な雰囲気が漂っていた。

 食卓には、もちろん、僕と北南さんもいる。

 無表情でいるのは眼鏡を掛けた伊地知さん。

 真剣に話を聞いているのは、五条さん。

 テーブルの脇には、メイドさんたちが。

だいぶ、減ってしまった。

宇田川悠さんと、皀葵さん。

だいぶ――静かになってしまった。

「お騒がせして、申し訳ありませんでした」

 深々と、彼女は全員に頭を下げた。

 席順は、二日目の夜と同じ。どこか懐かしい感じがした。

「もう、明日には警察の皆様が来られます。それまでは、事件のことは忘れましょう」

 その姿は、すでにどこかを割り切っているようだった。

 とても清々しかった。

「幸い皀さんの手術も無事終えることが出来ました。病状の原因は、サガノ病の病原菌による、内臓の浸食によるものでした」

「サガノ病⁉」

 なんだって……。

 やはり感染していたのか。

――思い当たるのは嵯峨野さんを検死したとき……そういえば、遺体の病原菌が減っていたとか言っていたような……。

 あたりがざわめく。

 が、それを彼女は無言の力で制御した。

「どうやら、施設内にウイルスが漏れたのは事実のようです。ですが、その影響を受けたのは彼女だけでしょうから、安心してください」

 大丈夫……か。

 そう、そうだ。

 もう気にすることはない。

 切り替えが大事だ。

「では皆様――」

 明楽さんが立ち上がり、黄金色のシャンパンの注がれたグラスを軽く上に持ち上げた。

「乾杯」

「乾杯!」「乾杯。」「カンパーイ!」

 カチン、カチンとグラスのふちを軽くぶつけ合う音が続いた。とたんに、いたるところで談笑が始まる。

 突っ立っているメイドさんたちに対して、明楽さんが同席するように誘いかけた。まるであの平和な一日目に戻ったようで、微笑ましかった。

 悠さんのいた場所に及川さんが、皀さんのいた席に浜崎さん。草薙さんと高橋さんは、明楽さんの真向かい、僕の斜め左に並んで座った。テーブル自体の幅が広いので、充分なスペースがあった。

「五条さん」

「ん?なあに少年」

 ステーキの欠片を口に運ぼうとしていた五条さんの動きが止まる。

「大丈夫ですか?悠さん」

「ああ、うん――」

 フォークを再び動かし、肉を頬張る。呑み込んでから、彼女は続きを述べた。

「大丈夫だよ、まさかあの娘までサガノに感染しているわけじゃあるまいし……」

「お腹の傷の方は……」

「それも大丈夫。とっくに明楽さんが手術を終えてる」

 悠さんの付き人は、伸びるように背もたれに寄りかかり、両手で頭を支えた。

「やっぱあの人も、医者は医者なんだね……アタシもまだまだ人を見る目がないわ……」

「ですね。僕もです」

「ん?あんたと一緒くたにされると何だか心外だな……」

「いや何でですか」

「ふふっ……まあ何にしても――」

 と、五条さんは締めの一言のような雰囲気を醸し出して言う。

「明日になれば警察が来て、すべてが明らかになる。証拠が挙がって、密室も穴が発見されて、犯人だって判る事だろうね」

「ですね」

「だから最後の晩餐と洒落込もうじゃないの」

「は、はぁ……」

 明日処されるのはキリストではなくユダの方なのだが……。

 細かいことを気にしすぎたか。

「……あんた、いくつ?五歳?」

 五条さんが僕に訊ねてきた。冗談でしょう。

「十二です。今年で十三です」

「にしては随分生意気な口叩くのね……ふうん、十三ねぇ。不吉だわね」

「不吉な数字って案外多くないですか?四とか、六とか、九とか……」

「そうね、まあ数字ってそのものが架空みたいな感じだから」

「数学は突き詰めすぎると机上の空論ですものね……」

「まあ人間の作り出した発明なんて、本来はその程度のものなんじゃない?使える頭があるのに使ってないっていう……」

「それしかないってことはないですよ……」

「そう――そうだね、言い過ぎた。――それにしたって人類最高の発明は数字だって言われてるんだよ」

「じゃあ人類最悪は何ですか」

 僕が問うと。

彼女はにやりと笑った。

「拳銃、だよ」

 一瞬――何が起こったのか理解できなかった。

 目に見えたものは、立ち上がる五条笑。その手に握られた黒い物体――。その銃口は上空へ向けられ。突然の銃声。宙を切り裂く金色の筋。その弾丸が、テーブルの上のシャンデリアの鎖を撃ち抜いた。

『――ッダアァァアァン‼‼』

 鼓膜に容赦なく音圧が。

 瞬間的に宙を舞った巨大なガラスのケーキは、テーブルクロスに直撃し、真っ白にひび割れながら、粉砕していく。爆発でも起きたのかと思うくらいの、衝撃。

 腕の皮膚に、凶器となった破片たちが九つほど突き刺さる。

 当然のようにローソクの炎はかき消される。

暗闇のなかで響く、悲鳴と椅子の倒れる音。

「――‼何⁉何が起こったの!」「誰か‼どこにいるの⁉」

「五条さんが拳銃でシャンデリアを!みんな机の下に隠れて!」

 僕は机の下に避難し、叫んだ。木製の脚をつかみ、テーブルクロスをカーテンのようにめくり、様子を見る。

「五条⁉どこにいるの⁉」

 と、誰かが叫んだその時!

 再び爆発音とまばゆい金色の光!

「ぃぎやぁあぁっ‼‼」

 音響する銃声に混じって、ハスキーな悲鳴が!

――まさか‼この声は――!

「伊地知さん‼大丈夫ですか⁉」

「う、ぐ……」

 すぐ近くで、布の擦れる音。うめき声。ぽたぽたと液体の滴る音。

――近くにいる!

 頬に生暖かいものを感じた。臭いで、すぐに何かが判った。

――伊地知さんの、血……。

「伊地知さん!返事をして!」

「あ……ひい、はぁ、はぁ……」

 耳元で呼吸音。

良かった、まだ生きている。

「及川さん!」

「あ、はい!」

 暗闇の中に声を掛けると、聞きなれた返事が。

「及川さん、ライトを!」

「あ、はい!」

 かちっ、と、目がくらんだ。放射状の黄色い円が、僕の方を照らしているのだ。

 瞳孔が一瞬で縮まった気がした。

「あ!」

「何ですか!及川さん、どうされ――」

「五条様がいません!」

「え⁉」

 ライトの光が辺りをうごめくが、その先に五条笑の姿はない。

――逃げたか!

 となるとやはり彼女が犯人ということに……。

 あの拳銃……やはり一般人が持つものではない。いくら外国だからって、日本国籍の一般人が使い慣れているはずがない。

「ひとまず、皆さん机の下から出てください!」

 僕が呼びかけると、のそのそとレースの間から人影が這い出てくる。

――…………やはり五条笑がいない!

 もう一度数を数えたが、結果は同じだった。

「全員で固まってここから逃げましょう!……伊地知さんは僕と北南さんで支えます!」

 伊地知さんは、腰のあたりを撃たれていた。

 抉れた筋肉の隙間から、血液が溢れ出し、ナース服を紅に染めていた。

伊地知さんの右腕を僕、左腕を北南さんの首の後ろに回す。

「僕たちについてきてください!」

 すると背後に足音がぞろぞろと響く。

 ライトに光を頼りに、ドアの方へ向かった。

――半開きになっている……やはりここから逃げたのか……。

 廊下で待ち伏せしているかも知れないと思うと、背筋がぞっとした。

――気を引き締めろ……なんとしても伊地知さんだけは守らないと……。

 拳でどんどん、と胸を叩くと、僕は扉を押し、廊下に足を踏み入れた。

 廊下の電気はすべて消えていた。恐らく五条さんがブレーカーを落としたのだろう……。

――……っておい待て!このままだと……。

 皀さんと悠さんが危ない!

 今僕たちは固まっているから安全だが、あの人たちはまだ個室で待機している。

「急ぎましょう!」

 と、後ろに向かって叫び、早足で歩く。伊地知さんがいるので流石に走ることはできないが、それでもかなり速度を速めた。

 角を曲がると、窓が連なっていた。月の光が漏れ、少しだけ明るくなった。ここからは隔離された、嵯峨野さんが入れられていた別館も見える。僕は気にせず、歩き続けた。

――まず近いのは皀さんの部屋か……早く行かないとそろそろまず――

『ドオオオオオオオオオオオオオオオォォォンンンッッ‼‼』

「な、なんだ――⁉」「見て!火が!」「あれは――⁉」

 さっきの銃声とは比べ物にならないくらいの爆音。その音源は明らかだった。

――別館――‼

 ここの窓からでもはっきりとわかるほど、大きなキノコ雲と炎をごうごうと上げていた。火花や煙があたりの木々に燃え移り、その衝撃波はここまで到達していた。

 飛んできた破片が当たりひび割れた窓、揺れる壁や天井。

 いつ建物が崩壊してもおかしくはなかった。

――皀さんや悠さんたちの部屋に炎が到達する前に、なんとしても助けないと!

「北南さん!」

「え……」

「伊地知さんをお願い!僕は皀さんの部屋に行きます!」

 伊地知さんの腕を解き、階段に向かって走る。

「きゃっ!」

「!」

 背後で北南さんの悲鳴。振り返るとそこには五条笑が!

――畜生……油断していた……。

「いつの間に!」

「ふ……この娘がどうなってもいいの?相川いるか……」

 倒れた北南さんの背中に足を乗せ、その頭には銃口が向く……!

 及川さんたち怯えたように手で目を覆う。

「言っとくが相川いるか……あんたが今行ったら、私はこの娘を――殺すわよ」

 冷たく言い放した彼女は、銃のトリガーに手を掛けた!

「はっ――!やめろ‼」

「あれー?相川クン。早く行かないと皀さんが焼け死んじゃうわよ?それとも――見殺しにするつもり?」

 挑発するように、彼女は言った。

 北南さんへの負荷がだんだんと重くなる……。

「西東北南か……皀葵か……」

「くっ……」

――どうする、相川いるか!

――何かないのか!

――考えろ……考えろ……。

「ふっ」

 五条笑は、笑った。その顔に、窓から差し込む炎の光が当たる。

「迷っているようね……」

「…………」

「優柔不断な男は私は嫌いでね……」

「……――‼」

――おい待ってくれ!

――まだ、決断は――‼

 どくん、どくん、どくん……。

 鼓動が落ち着かない……。

「はい、時間切れー。お疲れ様でした、と」

「やめろ……やめてくれ‼」

「いやだ」

 彼女は、ばっさりと吐き捨てた。

 何の慈悲もないように。

「では、さようなら」

 その台詞が、やけに耳に付いた。

「あああああ――‼」

「サイトウ、キタミサン――」

 冷酷な目で北南さんを睨みつけ、銃を構えなおし、そのまま人差し指を――

「やめなさぁぁああいっ‼」

「え――っ」

 その瞬間、五条笑は余所見をした。

 耐えられなくなり声を上げた、明楽なお子を見てしまって。

 いきなりだが、些細な不測の事態に驚いて。

 集中が、切れてしまった。

――今だ‼

「はぁぁぁぁあああっ‼」

「え……」

 西東北南が、気を入れるように、息を吸い込んだ。

「てぇぇええい‼」

 頭の上の銃を軽く右手で払い、脚を大きく上に回転させ、そのまま膝で五条の脇腹を蹴り上げた!

「ぐあっ――――っっ‼‼」

 潰れたカエルのような声を上げ、吹っ飛ぶようにして壁に激突する。脳震盪を起こしたようで、ぴくぴくと痙攣する右手以外、微動だにしなかった。

「いるか君!先に行って!あとは私たちが!」

 五条の手を拘束しながら、北南さんは僕に向かって叫んだ。

「あ――はい!」

 僕は階段を急いで駆け上がった。

 室内とは打って変わってレトロな木製造り。

 旗か電球がぶら下がり、足元も地味な色の床。

 医療関係のポスターが並ぶ中、ひとつ、透明な大きな空間があった。

 窓から見る、外の景色。

 炎は予想以上に広がり、そろそろ館の三分の一に到達しそうなところだった。

――まったっく、頼もしい仲間がいてよかった。

 と、もうすっかり気を抜いていた。

 ――と、その(・・)とき(・・)。

 まだ難関は、残されていたのだ――――。

『―――――――――――――――――――――――ンンンッ‼‼』

 あまりの衝撃に。

 あまりの爆音に。

 二階に着いた僕はそのまま、廊下に倒れ込んでしまった。

 先ほどまで木製の手すりを掴んでいたその右手の前腕に、一発の銃弾が!

「――っ‼ぐああああああああああああああああああああああああ‼‼」

 ぽっかりと開いたその穴から、銃弾と、骨と、肉が!

――熱い!燃えるように熱い!痛い!痛い痛い痛い‼‼

 傷口からは噴水のように血が噴き出し、摩擦で煙も上がっていた。

 止血のため、裂けるように痛む腕を抑える。

――駄目だ、止まらない‼

 息が荒くなる!

 心臓の鼓動が早まる!

 自然と片目から涙が零れ、一気に汗が噴き出た。

『情けないわね、まったく』

「――⁉」

 聞き慣れないクールな声に、一瞬誰だか判断がつかなかった。

 眼球の真前にその声の人物――すなわち自分を撃った犯人――の足が見えた。

 裸足も同然な短く薄い白の靴下に、ファッション的な凝った黒のシューズ。

 上を見上げる。顔には、ふたつの丸いレンズが。

 宇田川悠、だった。

 その手には、無骨な銀色の銃が握られていた。

「あ、あなたも、きょ、共犯、はぁはぁ、だったん――ですか……」

「黙れ」

 がしっ、と、腹に容赦なく足で蹴りを入られ、口に胃液と血の混じった味が広がる……。

「ぐああっ」

「ふん」

 汚物でも見るかのような目だった。

――なんだこのサディスティックな性格は――⁉

 僕の知っている、宇田川悠ではなかった。

「まったく……あなたみたいな莫迦な餓鬼が、私に勝てるとでも思ってるの?」

 今までとは別人のような、酷く冷酷な声だった。

 二重人格のような。

「いずれにせよ……こんな愚者に何を言っても無駄か……」

「そんな……」

「―――は?」

 僕は血をたれ流しながら、苦し紛れの負け惜しみを言う。

 うまく行くとでも、思ったのだろう。

「そんな風に、はぁ、作った口調が出来るのも……今のうち――」

 『ダァァアン』と、もう一発。

 その銃弾を、僕の頭蓋骨に向かって、放った。

「――‼」

 寸手のところで首を横にそらしたため命は助かったが、首筋と耳と頭皮をかすった。

――なんだこれは……話が……違うじゃないか。

 先ほどの五条さんが可愛く思えてくる。

 この人は人間じゃない。

 悪魔だった。

 普通いきなり人間の脳なんか狙わない。

 そのとき、児嶋部長の言葉を思い出した。

――『お前にはその人のブレーキになってほしいんだ』

――なるほど……。

 今まですっかり忘れていたが、この人は『神童』なのだ。

――アウトサイダー。

そう。行き過ぎた才能はただの障壁でしかない。

異端は、なのだ。

「さあてと」

 宇田川は再び立ち上がり、改めて銃をこちらに向けた。

「なかなかしぶとい奴だね……まあ、どうせ一分二分の差だけれどね」

 外では、すでに炎が森全体を支配していた。

 見てみれば、廊下の奥の方がすでに燃え始めている。

 何もしなくても、脱水だけで死ねそうだった。

「やはり……」

「ん?」

 宇田川はわざとらしく幼稚に首を傾げた。

「やはり……あなたが嵯峨野さんを……‼」

「ああ、殺したよ。それが?」

 平然と、言われた。

 にこにこしながら、そんな台詞を吐かれると、気持ち悪い。

 その暗い瞳は、猟奇的な犯罪者のものでしかなかった。

「なぜ……殺した」

「その質問に答える必要が、私にはない」

「言え……」

「は?普通に嫌だよ……」

「言え‼‼」

「…………」

 僕は、叫んだ。

 何をへらへらしているんだ、この人は。

 まるで、人の命を軽んじている。

「何を怒ってるんだよ……まあいいか、暇だし。どうせお前すぐ死ぬし。というか殺すし。うんいいよ、答えてあげる」

「……どうして……殺した……」

「……どういう意味ですか……」

「ん?そのままの意味だけど?要するに暇つぶしだね」

 駄目だ、この人は。

 サイコパス。

 異常者。

 そんな言葉が頭に浮かんだ。

「おいおいそんなバケモノを見るような目ぇすんなよ、普通だろ?殺してみたいって感情は。――知ってる?生き物の中で二番目に人間を殺してるのは人間なんだよ?」

「…………それは正当化の理由にはなりません」

「なるよ。――ちなみに一位は蚊だよ。そんな蚊も同然なレベルの生き物を、どうして殺しちゃいけないわけ?」

「……僕には、判りませんけれど……殺すと、人間界のバランスが乱れます」

「その乱れ『自体』もバランスに入っているんだけどね……まあいっか。子供にそんな話したって」

「どうやって、殺したんですか……」

「は?」

 今度は小ばかにされた感じだった。

「私のような天才にそれは愚問じゃあなあい?」

「……そうでしょうか」

「今回私たちがこの島に来た理由は何?」

「……悠さんの作成したプログラムを届けるため、でしたっけ?重要機密だから本人手渡しでってことで……」

を使ったのよ」

「――⁉」

 まさか、この人は‼

 最初っから、人を殺すためにこの島に来たというのか⁉

「機械でドアの鍵を開け、小型の仕掛けで内側からネジを打ち込む……簡単でしょう?」

「そ、そんな馬鹿な……」

「ほら、よくつまらないミステリー小説で、探偵役が退屈な密室講義やってるでしょう?あんなのは意味がないわよね。人間、すべての行動に理由がつけられるとは思わないわ……」

「密室は、作りたいから作った……そういうことですか」

「ぴんぽーん」

 恐ろしい。

 なぜそこまで理由なしにやれるのか。

 汗が額に滲む。

 熱さばかりが理由ではない。

 これは、冷や汗だ。

「さて」

 と、彼女は言った。

「そろそろ、あの世へ逝きましょうね、小賢しい少年探偵さん」

「…………」

「ただ殺すのじゃつまらないから……そうね、これを使おうかしら」

「⁉」

 ポケットをまさぐり、取り出した細長い物体。

それは、例によって嵯峨野連を殺害した、巨大なハサミ。

 そして、容疑者から外れるために自作自演にも利用した、凶器。

「腹や喉はもうやったから……」

 僕の身体を、『神様の云う通り』のように、ハサミの先端で選ぶ宇田川。

 とても、楽しそうだった。

「うん、目玉にしよう」

 そう言うと、ぐっと僕の顎を肘で固定し、指で瞼を突き上げる。

「思い――っきり苦しめてあげるわ」

「…………」

 殺される。

 そう思った。

 逃げよう。

 無理だった。

「さようなら」

 だったら、せめて……。

 負け惜しみでも――‼‼

「そのハサミは……」

「――あん?」

 宇田川悠の、動きが止まる。

「――そのハサミは、人を傷つけるためにある物じゃない……」

「……うるさい、さっさと殺すぞ」

!」

「…………」

「あなたは今病気にかかっているんだ。自覚がないだけで」

「……何を言っている――」

?」

「‼‼‼‼‼‼」

 宇田川悠は、本気で驚いたようだった。

 目を真ん丸と開けて。

 ――先ほどから、変だと思っていた。

 この人に、人は殺せない……そう感じた。

 確証があったわけではない。

 ただの幻想だったかもしれない。

 それでも――言ってみる価値はあった。

「…………君は……」

 からん、からんからんからからから……。

 地面に落とされたハサミが、ネジを中心にして、床の上で転がる。

「君は……ただの莫迦だと思っていたけれど……」

「――え?」

 がし、と、両手で、両肩をつかまれた。

 絶対放さない、とでもいうかのように。

 戸惑っている僕に対し、彼女は優しく笑った。


「君は面白い奴だね!」


 紅蓮の炎の中。

 すでに熱はすぐ近くにまで来ていた。

 そんなスリリングにもロマンチックな空間で。

 この物語は一旦の終わりを迎えた。

 ――かりそめ、だったが。

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