第四章 檻の中の濡れ衣

第四章 檻の中の濡れ衣


 七月十六日、月曜日。

 僕は犯人になった。

 なったというよりされた。

 今現在僕と北南さんは、陽荘館三階の物置部屋に監禁されている。

 背中合わせに、椅子が二つあり。両手は背もたれの後ろで、足は椅子の脚に結束バンドで縛られている。

 嵌められた。完全に嵌められた。

 明楽なお子が何としてでも犯人を創り上げるだろうということを、犯人は見透かしていたのだろう。

 すべて奴の思惑通りなのだろう。

 埃っぽい部屋のにおいが、何だか虚しかった。

「……北南さん」

「何、いるか君」

「何だか……すみません」

 僕は言った。

 顔は見えない。背中合わせだから。

 てっきり否定してくれると思ったが――流石にそうはしてくれなかった。

 そんなに現実は甘くはない。

 期待した僕が恥ずかしかった。

「……出たいね」

「うん?」

「出たいね、ここから……」

「ええ……はい……」

 沈黙。

 人が死んだのに、まず保身に走ってしまう自分が、嫌だった。

「……いるか君」

「はい」

「君は……本当に、殺して――ないよね?」

「当たり前じゃないですか」

「だよね…………疑ってごめん」

 …………。

 言葉が出ない。

 何を話していいのか、判らなくなっていた。

「どうやったら、逃げられますかね」

「え?」

「ここから逃げる方法です」

「ああ……無理じゃない?」

 近くの埃の被ったミカンの段ボールの山積みを見ながら、――その辺りを見ながら――北南さんは言った。

「いや、拘束を解くことはできますよ」

「出来るの?」

「ええ、まあ一応。――やりますか?」

「お願い」

 僕は背もたれの隙間から尻のポケットに手を入れ、鍵を取り出す。失くさないように、財布と一緒にいつも持っている、家の鍵である。

 僕はその鍵を、腕の結束バンドに擦り付ける。木材をノコギリで切るように、ぎこぎこと上下に擦る。

そうやって自分の両手を自由にすると、次は足を解いた。

「北南さん、いいですか」

「……うん」

僕は北南さんの背中に近づき、鍵のギザギザの部分でバントを擦る。

こんな時なのにドキドキしてしまう僕は、やっぱり中学生男子なのだろう。

 手の拘束を解くと、

「足もやりますか」

「ううん。自分でやるから」

「…………」

「自分でやるから」

 生足を拝見出来なかったことは本当に残念だったが、しかし僕たちは四肢が動かせるようになったのだ。

「でも、ここからなんですよね……」

「ううん……」

 部屋は外から南京錠が掛けられ、窓には鉄格子が嵌っている。

 さてここからどうやって脱出するか……。

「どうしますかね……」

「うん……」

 部屋の真ん中で、向かい合わせに直した椅子に座り、考え込む。

「鉄格子は無理だから……ドアを突き破るっていうのはどう?」

「ううん……その道具がないんですよね……」

 道具は持って来ても、いざという時に持っていない。

 僕はあの鞄を持ってきたがために犯人にされたわけだから、もうあの道具たちは燃やしてしまおう。

「大声を出して助けを求めるのは?」

「それだと明楽さんにばれちゃいますから……」

「ああ……あの人ならそれくらいのことは予測していそうだし」

「携帯電話も回収されちゃいましたしね」

「そこら辺徹底してるのよね、所長……」

 ……。

「とりあえず時間を持て余している事ですし……僕たちなりに色々考えてみません?」

「?」

「ほら、『現場』、密室だったでしょう? 僕たちもその謎を解けばこの密室からも脱出できるかもしれない……」

「ああ、なるほど――そういえば気味が悪いほど一致してるね……窓やドアが使えないのも一緒だし……」

 北南さんが自分を抱くように両手を組む。

「教えてほしいことがあるんですけど……」

「ん、何?何でも言って」

「あの……最初にあの部屋――嵯峨野さんがいた部屋――に入った時の状況、教えてくれませんか?」

「あ、うん――えっとね、六時くらいに伊地知さんから、部屋のドアが開かないから来て、って言われたからみんなで付いて行ったの。それで確か……そう、葵ちゃんと私と五条さんとでドアに体当たりして、七回目くらいで取り付けられていた板が割れたの――そしたら、床に血の文字が見えたから、電気を点けて……ベッドの上に嵯峨野君が……」

 少しふらふらした感じだったが、北南さんは現場の状況をそのまま伝えてくれた。流石医療の道を行く人だ、メンタルは強いようだ。

「そのとき、死亡は確認しましたか?」

「うん伊地知さんがね――まさかあんなんになってまだ生きてるとは、元から思ってなかったけどね――死因までは特定したけど、現場は保存した方がいいからってことで、遺体を戻して、なるべくそのままにしておいたの」

 そんななか僕はぐーすか寝ていたわけか。

「どこかに隙間はありませんでしたか?例えば、ベッドの後ろとかに穴とか」

「無かったわよ、そんなもの――流石にドアの下に糸一本くらいは通ると思うけど……」

「…………」

 しかし糸一本程度じゃ、ドアに板で釘打ちなどできない。

「…………」

「…………いやだんまりじゃ困りますよ」

「早速行き詰まっちゃったね」

「ええ……」

 というか本当にあれはどういう手品なのだろう。

「じゃあベクトルを変えて考えてみるのはどうでしょう」

「え?」

「方法が判らないのならまず密室を創った理由から考えてみるんです」

「ほう」

「そうすれば、自然とやり方も浮かび上がってくるかもしれませんし」

 ハウダニットではなく、ホワイダニットである。昨今のミステリー小説では、特に取り上げられることの多いふたつだが、その意味は似ているようでまったく対義だ。

 明楽なお子はフーダニットをやたらと重要視していたが、事件は動機から考えた方が速いときもある。

 ちなみに、Howdunitは方法、Whydunitは動機、Whodunitは犯人は誰かを意味する言葉である(発音が似ていてややこしい)。

「うーん、理由ねぇ」

 北南さんは宙で頬杖をつくようにして考え込む。

「私が読んだことある推理小説だと、確か自殺に見せかけるためだとか……」

「でもあれは自殺には見えませんよね……」

「うん。物理的に無理」

 北南さんはきっぱりと言った。

「あとは……偶然だったとか」

「うーん……確実にあれは人の手が加わっていますよね」

「見立て殺人だったとか」

「見立て……」

 見立て殺人というのはそのまま見立てて殺すことであり、金田一耕助シリーズやそのお孫さんの話によく登場する手法である。

 僕が言ってもよくわからないと思うので、詳しく知りたい方は、ジュブナイルミステリーの巨匠であるはやみねかおる先生の『機巧館のかぞえ唄』にて岩崎亜衣さんが判り易く説明してくれているので、ご参考までに。

「しかし、あれが何の見立てなんでしょうか」

「背中に二つの穴、お腹が開かれて、口にハサミ……見当もつきませんね」

「そうですよね」

「あと、最後。現場が密室だったことにより、自動的に容疑者が絞られる例です。特定の人だけが鍵を持っていて、犯人はその人に罪を着せた、とか」

「……ああ、それじゃないですか」

「だよね……現にこうして監禁されてるし」

「…………」

 悲しくなるだけだった。

 自然と腹も鳴った。

「腹、減りましたね……」

「うん、私も」

 さっき人間の胃や腸を見たというのに、不謹慎な体だ。

 人が死んだというのに。

 どうして僕らはお腹が空くのだろう。

「生きてる証だよ」

「え?」

 すると北南さんは、にこっと僕に微笑みかけた。

「い・き・て・る・あ・か・し。誰かが亡くなっても、お腹は空くもの。――ほら、お葬式とかでもよくお寿司食べるでしょ?」

 全然関係ない気がする。

 何を言っているのだろうか……。

「兎にも角にも、空腹は人間の生理現象なの、気に病むことはないのよ。今を生きる私たちは、亡くなった人の分、精一杯生きる義務がある……私、そう思うな」

 北南さんは、そう言った。

 なんだか、彼女が輝いて見えた。

「……なんか、ちょっと」

「ん?」

 僕は言った。

「格好いいですね、惚れちゃいました」

「ありがとう。社交辞令でも、素直に嬉しい」

「お世辞じゃあないですよ、僕がそんな軽い男に見えます?」

「さあ、私――交際経験ゼロだから」

 それは初耳だった。

「いるか君、彼女とかいる?」

「それ嵯峨野さんにも言われましたけど、いないですよ、僕はモテないんです」

「そう?カッコいいと思うけどな」

「陰キャですから」

「陰キャなの?」

「陰キャです……」

 北南さんが哀れみの目を向けてきた。

 やめてください。

「じゃあ、その辺に食料ないか、探してみますね」

「お、頼もしー」

「…………」

 あなたはやらないんですか。

「ごめんね、私虫とか無理な人だから」

「…………」

「ほら、そこ蜘蛛の巣張ってるじゃん、なんだかゴキブリも出そうだし」

「…………」

 女ハイイヨナー。

 そんな感じで、僕は段ボールの山へと向かう。

 ちなみに僕も虫は駄目な人だ。

 僕は箱に近寄る。

「……ふう」

 どうやら虫はいないようだ。

 第一の関門をクリアしたところで、僕は箱に手を付ける。

「……虫がいませんようにナマコがいませんように」

 僕は思い切って箱を開けた。

 段ボールの中には、ミカンが三つ。

 虫こそいなかったが、茶色か紫に変色していて、とても食べられそうなものではなかった。

 僕は箱を閉じ、席へと戻る。

「どうだった?」

 北南さんが聞く。

「ミカンがありました。腐ってましたけど」

「駄目じゃん」

 がくりと首を落とす北南さん。

「しかし、給食とかでないのかね」

「何小学生みたいなこと言ってるんですか」

「これじゃ飢え死んじゃうし……」

「刑務所の方がまだマシかも知れませんね」

 はあ……。

 瞼を閉じれば思い出す、あの気障な笑み。

「く……」

 あのナルシ部長のせいだ……。

覚えてろよ児嶋翔太。

 いつか牢に閉じ込めて、同じ思いをさせてやると心に誓いながら、僕は頷いた。

 そうやって気を逸らしても、やはり空腹は満たされない。

 思えば今日起きてから何も食べていない。

 どうりで疲れるわけだ。

「……いるか君」

「はい?」

「私のこと、食べていいよ」

 はあっっ⁉

 僕は立ち上がり、虚ろな目の北南さんをぶんぶんと揺さぶった。彼女の首ががくんがくんと前後する。

「だ、大丈夫ですか⁉気を確かに!まだ事態はそんなに深刻じゃありませんよ‼」

 いや深刻だけれども!

「北南さん、ねえ北南さん!」

「……性的な意味で」

「人が心配してるのに!面白くねえよ!」

「いや真面目に……」

「なんか薄い本でありそうな展開ですね……」

 『女子大生と少年が密室で……』みたいな。

 いやだわそんなの。

 と、気晴らしにふざけあっていた、そのときだった。

 ドアからのノック。

「――‼」

 僕と北南さんの動きが止まる。

 心理学志望の女子大生は、僕の方を見る。

 僕は頷き、

「あ、あのー、どちら様?」

 と、ドアに向けて恐る恐る問うと、そこからは意外な応えが。

『やっほー、悠様だよ』

「悠さん⁉」「悠ちゃん⁉」

 僕らは同時に叫んだ。

「ゆゆゆ、悠さん、どうしてここに?」

『いやー、いるか君が凹んでないか心配で』

「安心して。とっくに凹んでる」

すると今度は北南さんが、

「明楽所長から接触は禁止されてないの?」

『うん。お手洗い行ってくるって言っといた』

「五条さんは?」

『ああえみりん?』

 ドアからのくぐもった声――そんなあだ名初めて聞いたぞ。

 ていうかださい。

 いま即興で考えた説が、相川の中で濃厚。

『えみりんも流石にトイレまでは付いてこないからね、幼稚園児じゃあるまいし』

「ああ、そう。ちょうどよかった。僕たち、今お腹空いてるんだ、何か食べ物くれませんか?水でもいいので」

『無理』

「……ど、どうして」

 てっきりすぐOKしてくるもんだと思っていたが。

『だって今何も持ってないし』

「そっか……よく考えればここから出る手段もないしね」

 北南さんが諦めたように脱力した。

 しかし悠さんは、

『ああ、出たいの?その部屋から』

「当たり前でしょう……」

『なんだー、早く言ってよ』

「出れないから今困ってるんですよ」

「いや出れるよ?」

「出れるの⁉」

 僕はつい声を上げてしまった。

『鍵、開けてあげようか?』

「あ、はい是非!」

 よかった。これでここから出ることが出来る。

 北南さんを見ると、彼女も安堵の表情を浮かべていた。

 悠さんならば、他の誰かに告げ口することもないだろう。

 と、思っていたその時だった。

 ドア越しに悲鳴を聞いたのは。

『―――――ああああああああぁぁあ‼‼』

「――⁉⁉」

 悠さんの叫び声。

 今までに聞いたことがないほど、それは恐怖を感じる悲鳴だった。

 ドアの向こうで何かが倒れた。

 かん、かん、かん。

 跫音が大きくなる。

――誰かが近づいてくる!

「悠さん!大丈夫ですか!」

「返事をして!」

 ドアを何度も強くノックしたが、聞こえてくるのは誰かの足音だけ。

――誰の足音だ⁉

 明らかに悠さんを襲った何かとは別の――もっと遠くから聞こえてくる――人物の靴音だ。

 音が早足になった!

――まずい!

 ここから、悠さんを連れて逃げなければ、そう思った。

 そのとき!

『がちゃっ』

「え……⁉」

 ドアの鍵が開く音。

「くっ……北南さん!このドア、一緒に開けてもらってもいいですか!」

「う、うん!」

 僕と北南さんは、同時にドアにその身を当てる。簡単には開かないが、それでもさっきよりはマシだった。

「ドアの向こうに何かが引っかかってます!」

「何これ……重い」

 そのまま全身の力をこめ、扉をゆっくりと押していった。

 ぎぎぎぎと軋む扉。それを完全に開け放したとき、そこにあったのは――!

「――‼」「なんだって……!」

 ドアを邪魔していた物体は、悠さんだった。廊下に横を向いて倒れ、眼鏡は半分割れて遠くに吹っ飛んでいた。

 そして、その脇腹。

 明らかに致命傷だろう。

 水色のシャツが、紅に染まっていた。ぽたぽたと垂れた血痕を辿って行きつく先には、大きな黒いハサミが落ちていた。

 手術用の、特注品と思われるものだった。

 デジャヴュだった。

 それは、嵯峨野連の口に突き刺さっていたあの凶器と、同じものだったから。

 思わずそのハサミを手に取ってしまったが、次の瞬間。

「何やってるんですか!」

「‼‼」

 声の主は、廊下の向こうに立っている、及川味香だった。息が荒く、今ちょうど飛んで来たという感じだった。

 彼女にしてみれば今ここに広がる光景は、僕と北南さんが牢部屋から脱し、目撃者の悠さんを刺し殺したようにしか映らないだろう。

「悲鳴が聞こえたので見に来てみたら……まさかあなたたちが」

「いや、違うんです及川さん!僕と北南さんは――」

「やはりあなたたちが犯人だったんですね!」

 と、身構えながら連絡用のトランシーバーを彼女が手にした、そのとき。


「行くよ」


「え⁉」

 北南さんが耳元で言ったかと思うと、彼女は僕の手を強引に引き、及川さんがいるのとは逆の方向に走り出した。

「!――こら待ちなさい!」

 遠くで及川さんが叫ぶ。するとトランシーバーからもざらついた声が。

『メイド長、どうしましたか』

「浜崎!今すぐ来て!」

『え?』

「西東と相川が脱走したわ!」

『なんですって⁉わかりました、今すぐ向かいます!』

 がちゃり、と。

通話が切れたところで、及川さんは声を張り上げ、

「すでに部下を手配しています!所長様の言う通り、自首した方が身のためです!」

「…………」

 無視して角を曲がり、二人で全力疾走。

――落ち着け……。

 振り返るな、今は逃げることにだけ専念して……。

「行くよ!」

「はい!」

 北南さんが廊下の窓のツマミを下げ、ガラスをスライドする。

 三階。

 下には草木が茂っている。

 ここで死ぬのと。

 逃げ遅れて冤罪と。

 どちらが得か。

「――決まってるさ」

 やるしかない。

 ここまでの人生、後悔もあった。

 だけど。

 濡れ衣の拷問に耐え続ける人生なんて、御免だ!

 少々の骨折くらい、どうだっていい。

 それに、北南さんのこともある。

 いいじゃないか。

 逃げの人生も。

 思いっきり負け逃げしてやろうじゃないか。

 追手から逃れられれば、それはもう勝ちなのだから。

「飛び降ります!」

「……うん」

 サッシに足を掛ける。

 上枠を掴んでいた手を放す。

 北南さんは瞼を閉じ。

 僕はしっかりと地面を見て。

 

飛び降りた。


頬に風が吹き当たる。

内臓を放ったらかしにして、骨だけが落下する感覚。

蘇るのは昨晩のハイライト。

蓮さんに海に落とされたあの夜。

「……うん」

 僕はもう、不意打ちなんかじゃなく。

 自分の意志で、飛べるんだ。

 北南さんと、しっかりと手を繋ぎながら。

 身体が、地面に近づいていく。

――頼む。

 どうか……。


 僕たちを生かしてくれ。





 ばさり。

 と。

 草地の上に着地した。

 足首に鈍い痛みを感じる。だが、骨は無事なようだった。

「……」

 仰向け。

 瞳を開ければ青い空が広がる。

 白い雲。けれど東京とは少し形が違っていた。

 瞼を閉じても感じる、陽の光。

 地面に手をつき、テコの原理で起き上がる。手足や服に付いた砂を、軽く払う。

 あたりには木々が立ち並び、南の島らしいヤシの葉が風に揺れる。

「……北南さん」

 まわりをきょろきょろと見回す。

 いた。

 僕の足元に横たわって。

 どうやら気を失っているようだったが、目立った外傷はない。

――よかった……。

 が、いつまでものんびりはしていられない。

 僕は目の前の陽荘館を見上げる。

――いつ及川さんが追いかけてくるか判らない。

 腰を若干かがめて、北南さんの肩を揺する。

「北南さん、起きてください」

「……ああ、いるか君……」

「早く逃げましょう」

「うん、そうだね……」

瞼を擦り、伸びをしながら彼女は起き上がった。

「ほら、こっちです」

「う、うん……」

 なんだか両手をぼうっと見比べていた。

僕が林の方へ手を引くも、北南さん歩こうとしなかった。

「?――どうかしました?」

「いや……なんだか生きた心地がしないなぁって」

「ええ、本当についてましたよ」

「そう、だね……」

 すると北南さんは、黙って自分の足を見下ろし、黙り込んでしまった。

 前髪で表情がうかがえない。

「……悠ちゃん」

「え?」

「本当に死んじゃったのかな……て」

 その声は、とても弱々しかった。

 肩が震えていた。

「…………」

 涙は、出ていなかった。

 それはそうだ。

 自分だって大変な目に会っているのだから。

 誰だって自分が一番カワイイに決まっている。

 けれど――。

「蓮君も……死んじゃって、悠、さん、まで……」

「…………」

「ねえいるか君!」

 彼女はいきなり顔を上げると、僕の名を呼んだ。

 その目は、驚くべきことに泪で潤んでいた。

「私、こんなときにも保身にまわる自分が許せないの!」

「…………」

「君はいいよ、まだ子供だもん。でもね、大の大人が未成年二人見殺しにしておいて自分だけ逃げるだなんて卑怯だと思わない?屑だと思わない⁉」

「……それは」

「私だってね――」

 と、彼女は涙をのみ込みながら言う。

「人の死に直面することは、初めてじゃないんだよ」

「…………」

「いままで何十という精神を病んだ死人を見てきた、。その時は別に私、特に気にしてなんかいなかった」

「…………」

「でもね!今回ばかりは、私はあの子たちを資料としては見れない!患者としか!」

「…………」

 やっぱり、そうなんだ。

 この人も、悠さんや嵯峨野さんが大事なのだ。

 僕なんか、最初から眼中にない。

 思い上がりも、甚だしかった。

 風が吹く。

「ごめん……なんか、私」

「いいんですよ、別に気にしてません」

「ありがと。私、君のそういうところ、気に入ってるから」

「…………」

 本当に。

 読めない人だ。




 夜になった。

 腹が減った。

 あれからというもの、近くを懐中電灯を持った人物をちらほら目撃したが(おそらく及川さんの部下のメイドさんたちだ)、直接接触することはなかった。

 今晩のディナーのメニュー。

 素潜りで捕まえた小さめの熱帯魚。

 浜で取れた貝類。

 ナマコ。

「なんでコレがあるんですか」

「ああ私が食べるから」

「…………」

「いるか君は魚とか食べてて」

 ちなみに、魚や貝は僕が苦労して捕まえたものたち。

 ナマコは北南さんが捕らえた。三匹も。

「そんなにナマコ食べられるんですか」

「うん食べる食べる」

「なんでそれにしようと思ったんですか……」

「だって魚とか捕まえにくいでしょ?」

 まあ海水ですばしっこく動くのは確かで、二匹しかとれなかった。

 そういう意味ではサバイバルには向いた食材なのかもしれない。

 ちなみに。

 ここは館からは遠く離れた(昨晩海に飛び込んだあたりの)島の北端。ばれない程度に火をおこし(北南さんが皀さんから取り上げたライターによって、だ)、魚介を焼いて食べ頃を待っている真っ最中だった。

 めらめらと燃える朱色の炎。美しいのは確かだが、ここが林の中であることも忘れてはならない。虫刺されがひどく、海で三か所、陸で五か所やられた。虫は明るいところへと寄ってくるのだ。

 『飛んで火にいる夏の虫』。

 確かにこの島の事情に首を突っ込んだのは僕だが、何回も言うが事の発端は児嶋部長のせいなのである。

 ともかく、長く火は点けていられない。

「結構小っちゃくなるね、これ」

 火の中にある萎んだナマコを枝で転がしながら、北南さんは言った。

「三個食べられそうですね」

「……あ」

「?なんですか?」

 僕が問うと、

「これ素手で食べるの?」

「ああたしかに……食器類はないですもんね」

「うー……ん。熱いし手だと切りにくいよ?」

「……あんまり気は進まないですけど」

「ん?何」

 僕はポケットの中を探り、ハサミを取り出す。

 まだ血が付いている。

 犯人が悠さんの腹を刺したハサミだ。

「……これを使うと……」

「はい……」

 僕はそのハサミの結合部分を近くの石に叩きつけた。

 がん、がん、がん。

 やっとネジが壊れ、ハサミが二本のナイフに変わったところで、片方を北南さんに渡した。

「一度海水で洗ってから使いましょう」

「うん……そだね」

 バケツ(浜で拾ったものだ)に入った海水にさっとハサミの片割れを通すと、血は割と簡単に取れてしまった。

「ナイフが錆びないうちに食べちゃいましょう」

「う、うん」

 枝で食材を転がし、こんがり焼けたら取り出してナイフを使い、口に放った。

「あ、熱っ!」

 舌を火傷した。

 半分ほど冷ましながら食べたところで、北南さんにが口を開いた。

「なんか、喉乾いたね」

「そうですね……」

 手元の自作ナイフのハンドルに指を挿し、くるくると回転させる。

「海水は飲まない方がいいよね」

「そう、ですね。その方が」

 うん……。

 しかし人は水分を取らないと死んでしまうのだ。

 焚火が汗と海水で濡れていた服を乾かす。それと同時に、体の水分も奪われていった。

「危険な賭けですけど……」

「ん?」

「明日僕が館に忍び込んで見ず、持って来ますよ。まさかイカダを作って陸まで逃げるわけにはいかないでしょう」

「ああ、じゃあお願い……」

 北南さんはこっくりと頷いた。

――今はいったん寝て、明朝に侵入した方がいいなこれは……。

「…………」 

「…………」

沈黙。

「あの」「あの」

 二人同時に声を掛けた。

「あ……どうぞ」

「いやいやいるか君が先でいいよ」

「いやあ、なんかしんみりしちゃったんで、カードゲームでもやりませんか?例えば定番のウノとか」

「あー私今トランプしか持ってないんだよね」

「じゃあそれでやりましょうよ、変化があって良くないですか?スペードやハートやクラブやダイヤを色に見立てるんです。そうですね……ジャックはプラス二枚、クイーンはプラス四枚、キングは色替えで、ジョーカーはさらに色替えプラス四枚ってのはどうでしょう」

「おーなるほど」

「変化を付けるのであれば……そうですね、クラブは二枚連続には出せないルールにしましょう」

「OK、ちなみに、いるか君はトランプウノは経験者?」

「いえ、今即興で考えたものなので……」

「だったら好都合だね、お互いアマの状態で勝負しましょう」

「はい」

 北南さんはカードを二つに分断し、片方を僕に渡した。シャッフル――切れという意味だろう。僕と北南さんはそれぞれでカードを混ぜたのち、ひとつにまとめて、それぞれ七枚ずつを交互に並べていった。

「あーそれクラブじゃん」

「あ、間違えた……でも四はもうない……」

「じゃあこれで」

「色替えもクラブに含まれますよ」

「えー、そこは早く言ってよ……」

「はいプラス四二連チャンです」

「うわーやられたー」

 なんだかんだで、これはこれで楽しかった。

 まるで初心に還るかのようで。

 小学校の修学旅行のように、無邪気だった。

 北南さんもとても楽しそうで、何よりだった。

 こういうときにこそ、人間が判るものなのかもしれないと、僕は思ったそうだ。




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