第二章 病みし闇との会談話
第二章 病みし闇との会談話
・やあ初めまして。君がいるか君かい?
ええ。初めまして、嵯峨野さん
・おいおい、そんなにかしこまる事はないよ――さあ、あがって
…………。
・何を突っ立っているんだい?……ああ、僕の病気の事を気にしているのか
ええ、まあ
・大丈夫。心配しないで。この病気が君に移ることはないから、さあ
…………。
・人を信じないやつだな。まあ、そういう気構えは大切だよ……とはいえ、安心してくれよ、僕の病気は感染しないものだと皀先生もおっしゃられているのだから
……じゃあ、はい
・よし、それでいいんだ。あ、そうそう。そこにあるペットボトルを取ってくれないかな。何しろ僕、こんなのだからさ
――どうぞ
・おう、ありがとう。気を使わせちゃってすまないね。君は、そこの丸い椅子に座ってほしい。
どうして
・ん?
どうして嵯峨野さんは、僕をここに呼んでくれたんですか
・蓮でいい。苗字は嫌いなんだ
すいません
・えへへ、いいよいいよ――で、僕が君を呼び出した理由、だったかな?
はい
・そりゃあまあ……せっかくの来客だし?久しぶりに男と話するのもいいかなって
つまり気まぐれですか
・嫌な言い方するなあ君は。気に入ったよ。――そうさ、気まぐれさ。まあ、相談に乗ってほしかったってのも、あるんだけれどね
?
・いや、何でもない。こっちの話さ
はあ……
・そんなことより、別の話をしようじゃないか
別の話?
・例えば……僕がなぜここに来ることになったのか、とか
聞かせてください
・いいよ。だが、質問は後にしてくれるかい?
はい、もちろん
・ありがとう。――僕はねいるか君。幼いころから家庭内のトラブルに苛まれていたんだ。なぜかってね、両親がイトコ同士だったんだ。いわゆる近親相姦というやつで僕は生まれたんだ。だから戸籍もない。――ねえ、いるか君。きみ、異性のイトコはいるかい?
え?……いますけど……。年上のが二人。
・そうか。ちなみに君は、彼女たちに恋愛感情……もっというと性的な気持ちをもったことはあるかい?
ない……ですね、はい。裸を見たことありますけど、特に別段変な考えは湧きませんでしたよ
・少々表現が生々しかったが……いやしかし、普通はそういうものだろう。血縁者との間に恋は生まれないだろう。それが正常だ。……だから彼らは異常だったのさ。初めての夜にともに枕を共有した相手が親族で、しかもそのせいで生まれたのが自分だったんだよ?…………信じられるかい?
…………。でも、それはあなたのご両親が愛し合っていた証でしょう。
・愛?違うね。あれはただの興味さ。興味本位であんなことするからこうなったんだ。罰だよ罰。人を殺すのはいけないことだけれど、生み出すことも同等なくらいに重大な事なんだよ。
……あなたは、自分の親が嫌いですか
・おいおい。質問は後にしてくれと言ったろう。……しかし、その問いだけには今答えてやろう。――そうさ、僕はあいつらのことなんか大っ嫌いだね。あいつらのせいでこんなにも体が弱くなってんだからな!
…………。
・おっと、つい感情的になってしまった……悪い悪い。話を戻そう。――親たちの日常的な暴力や家庭内での精神的な虐待に耐え兼ね、僕は家から逃げ出したよ。今も帰りたいとは思わないしね。それで、持っている金が小銭程度しかなくてね。そこらのゴミ箱をあさって食べ残しを食べたもんさ。それが原因なんだろうね、僕は激しい動機と腹痛を覚えた。これはさすがにまずいと思い、病院に行こうと思ったが、しかし手持ちの金がない。どうするか迷っているうちに、かつてないほどの痛みを覚えた。全身だよ全身。想像できるかい?全身の血管が破裂する感じさ。そこへたまたま明楽なお子が通りすがったわけさ。
あの頃はまだまともな医者だったんだろうな、そこそこの支持もあったようだし。それでその時の僕は死にかけていたわけだし、もちろん彼女の本性なんて知りもしなかった。僕は藁にもすがる思いで助けを求めた。「死にたくない、生きたい」……とね。そのときの明楽のにんまりとした笑顔は忘れられないよ。「自分の慢心を満たすものをやっと見つけた」、という感じだったな。そして彼女は僕を研究するため、知り合いの児嶋財閥にスポンサーとなってもらい、この島を買い取り、研究所を作ったというわけさ。当時は本当に胸をなでおろしたものだったが、今となってはこんな所、監獄地獄も同然だね。――――少し一人語りが過ぎたね、何か質問はあるかい?
……この島は、いつからあるんですか?植物が茂って、とても人工島には思えませんけど
・さあねぇ、数十年前……もしかしたら百年いってるかもしれないね。もともとこの部屋も館の離れとして建てられたものを、あの明楽は窓一面コンクリートで塗り固めてしまったがね。――ほかには?
病気は、治る見越しはあるんですか?
・ないね。こんな大掛かりなことしたって無駄なものは無駄さ。……病原菌自体は見つかってるらしくて、その医療薬を何度も投与しているけど、いっとき症状が温和されるだけで、ちっとも治る気配がしないね。……あとは、ある?
ええっと、じゃあ……友達はいましたか?
いたよ。三人くらいだったけどね。――今から思えば学校にも行っていない貧乏子供に三人も友達がいたこと自体奇跡だったと思うがね。きっと陰でバカにされてたのだろう。そうに違いないね……――ああ、あと……
?
・君も友達じゃないか‼
…………。
・あれ、それともあれかい、君も陰口を言っているのかい?
え!――いやいやそんなことは……
・あはは、知っているさ。見ればわかるよ、君がそういうことをできない人間だとはね
…………。
・あと何かあるかい?
ああ……好きな人はいましたか?
・いるぜ。今でも好きだ。むしろ今の方が好きさ。そういう君はいるのかい?恋人とか
……あはは
・笑ってちゃわからないよ……あ、でもこの反応はいるな、確実に
何でですか
・西東さんの診察も受けているんだ。少しくらい心理を読み取るくらいできる……
はあ、なるほど。では、次に……明楽なお子さんを、恨んでますか?
・おっと、いきなりシリアスな……。ああ、恨んでる。嫌いだ。あいつに捕まるんだったら、ずっと前にあのまま野垂れ死んでおいた方がよかったのかもしれないと、本気でそう思うよ。
わかりました……では、最後の質問、いいですか?
・いいぜ友よ、何でも答えてやろう
…………。
・おいなんだ、早く言ったらどうだい?
あ、いや、これを聞いて本当にいいのかなあって……
・なんだよ焦らして。気になるから早く言ってくれ
……わかりました
・よし
正直に答えてください。
・ああ、なんだ?
あなたの望みは、なんですか?
・望みか、望みね……。そりゃあ決まってるよ。――いるか君、相川いるか君!――――――
『僕をここから出してくれ』
「終わりましたか?」
部屋のドアを開けると、伊地知さんがまだ立っていた。当たり前のことだが。
「ええ、いい話が聞けましたよ」
「それはよかったですね」
ん?
僕は今まで見逃していたある違和感に気がついた。
伊地知さんの声である。
「風邪でも、引いたんですか?」
「あ、え、この声ですか?」
すると彼女は喉に手を当てて唸った。
「もともとハスキーボイスでして……」
「なるほど。……僕、男にしては声が低いので憧れます」
「んー。これはこれで少し不便なんだよね」
伊地知さんはドアに外側から電子キーを使って鍵をかけた。
そのときだった。
「あ、伊地知様」
「メイドさん!」
そこにいたのは、及川さんだった。
本館からこっちに向かって廊下を歩いてくる。その手にはお盆があり、一人前の料理が乗っていた。
「あれ、嵯峨野君、もう食事の時間ですか?」
「はい。皆様の分もすでに用意してありますよ」
もちろん味付けは別だろう。
「ああ、じゃあ嵯峨野君の部屋の鍵かけ宜しく」
「はい」
すると及川さんもポケットからカードを取り出し、ドアの中央部のパネルにタッチすると、再び鍵が開いた。
ここで働いている人はみんな持っているのだろうか。
「じゃ、先行ってるね」
「すみません」
「いえいえ、伊地知様、相川様。恥ずかしながら自慢の料理ですので、ごゆっくりお楽しみください」
及川さんの声を聴き終わる前に、僕と伊地知さんは本館に向かって歩き出していた。
嵯峨野さんの部屋と違い窓があるので、ここからでも海に沈みかけている夕日が見えた。
「…………」
自家発電用の白いシャープな風車が、空しく回っていた。
「うわぁ」
感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。
さきほど悠さんや五条さんと会話したのと同じ部屋に、その日の夕食は出されていた。テーブルいっぱいに敷き詰められた芸術品の数々は、ホテルでそのまま出されてもおかしくないレベルの光を放っている。
この館の使用人と僕と伊地知さん以外は全員が席についていたが、誰一人として料理に手を付けていなかった。どうやら僕らを待っていてくれたらしい。
「おかえりなさい――あなたたちも一緒に食べましょう」
一番奥の席の明楽さんが言った。
僕はドアに近い一番手前の、悠さんの隣の席に座り、伊地知さんは僕と点対称の一に当たる席に着いた。
座ってみると分かるが、この部屋はやけに欧州風に揃えてあった――絵画史的にはロココ辺りだ。壁に掛かったシャルダンなどの画家の作品レプリカに目がいき、窓もベルサイユ宮殿風、天井には神話的な壁画(ちょっとサイゼリアを思い出してしまった)があり、薄暗い部屋とテーブルの上の蝋燭の光のコントラストが、なおそれを引き立たせた。
「では――」
絨毯模様の椅子から立ち上がり、ワイングラスを持ち上げて、明楽さんが言った。他のものもそれぞれグラスを持ち上げた。
「――乾杯」
『乾杯!』
微妙に声を合わさずに、全員が一緒にそう言った。
僕がコップの葡萄ジュースを口にすると、横にいる悠さんがねえねえと囁く。
「? なんですか」
周りも喋っているのでいいだろうと判断し、僕は普通の声量で言った。
「どうだった?嵯峨野君、明楽さんの事、どう思ってた?」
「あー、うん……五条さんの予想通り」
すると前の席の五条さんが「やっぱりね」とつぶやいた。
「んで?少年、嵯峨野蓮は他に何か言っていたかい?」
「ええ。病気の割によく喋る人でしたよ?」
「そりゃあねえ、よっぽど嬉しかったんだろう、君と話せて」
「……」
「んで、彼はどうしてここに来たんだって?」
「んー、なんというか」
僕は少しの間、言葉に詰まった。食事中だしあまり過激な表現は避けたかった。
「ご両親が、イトコ同士だったみたいで……近親相姦だと、嵯峨野さんはけなしていました」
僕のドストレートな言葉に何も感じないように、悠さんは
「でもさー、日本の場合イトコの結婚は認められてるでしょう?」
「でも、たとえそうであっても、『彼』にとっては変わらない事でしょう」
「確かにね……親族同士の子供は障害が出やすいっていうし……」
「嵯峨野さんも、自分が病弱なのは近親交配のせいだと言っていましたし」
すると五条さんは一度唸ってから、
「でもさー少年。たったそれだけのことだけで、そこまで重い病気になんてかかるかね」
「さあ……そこら辺は正直わかんないですけど」
「んで、」
悠さんがパンをかじりながら言う。
「病気はいつごろから自覚症状が出たの?」
「ああ……その、イトコ同士の親というのがストレスで、家出をしたらしいんですよ、その時にだって」
「で、明楽さんに目を付けられたってわけね」
考え込むようなポーズをとる悠さん。
しばらくの無言が続いた、そのときだった。
「あれ~いるか君、全然進んでないけど……もしかして体調悪いの?病気?」
近くの席の北南さんが話しかけてきた。
どうでもいいがソースが口に跳ねている
「いえ、少し考え事をしていただけです――いただきます」
「だよね~こんな高級料理、食べられないわけないものね~」
「……」
スープを啜る僕。
悠さんと五条さんは二人で別の話をしていた。
「あ!そういえば……あの食材も高級だったよね、今日海で見かけた」
「…………」
嫌な予感。
「さあいるか君、あなたが今思い浮かべた食材を当てて御覧に入れましょう」
「…………」
嫌だぁ。
気分がダダ下がりだった。
「メンタリスト西東は、あなたがいずれ想像するであろうモノを予測していました」
「…………」
一冊のスケッチブックを渡された。どうやら先ほどから隠し持っていたようだ。
それは今日の昼のショーに使われたものだった。
「最初の頁を開いてください」
「…………」
はいはい、何か書いてありますね。
『なまこ』
「………………………………………………うう」
こんなの八つ当たりだ!
今日西東さんネタで滑ったのはあんたのせいだろうが!
ミートソースの付いた北南さんの口元が笑っていた。
見ると僕の目の前の皿には、水分が飛んで縮んだナマコがいた。
ちなみにナマコが置かれたのは僕の席だけだ。
「……」
コックの及川さんも共犯なのか。
ああ。
「君もこんなところで僕に食べられるくらいなら、もっと別の所で調理されればよかったのにね……」
ナマコに何故か同情心が沸いてしまった。
「さあ、召し上がれ?」
可愛げに北南さんが言う。
僕は無言でナマコを切り分け、フォークで口に運ぶ。
……うん。美味しいよ、こんな見た目でも。
涙が出てきた。
外見と中身は比例しないということだなあ。
みんな違ってみんないい、そう思いながら僕は皿を悠さんの前へスライドした。
「うん、これ美味しいよ!」
幼稚園児のようにがむしゃらに料理にかぶりつく悠さんにとっては、どうやら見た目はどうでもいいらしい。
僕はその後比較的一般的な、なじみやすい程度の高級料理に味を占め、席を立った。そのほかの人々はこのまま朝まで飲み明かすつもりらしい。
僕は壮絶な女子会場を去る。
――北南さんや皀さん、酔うとあんなふうなのか……。
何か別の生き物のようだった。そんなことを考えながらドアを閉めた。
廊下を歩いていると、たまたまそこには及川さんがいた。
「あの、及川さん」
「あ、なんでしょう相川様」
「美味しかったんです……けど」
「はあ、すいません、海鼠のことですよね?――ちょっと、皀様に弱みを握られて……誰にも言われたくなければ海鼠料理を作れ、って」
黒幕は皀葵だった。
弱みを握って揺するなど普通極悪人のやることのような気もするが……。
しかし――秘密とは気になるな。
「本当に、すみませんでした!」
「いえ、いいんですいいんです……」
真剣に頭を下げられてしまった。
「そんなことより……お風呂ってどこですか?」
「え?」
腰を曲げた状態で首を傾げられた。
「別にシャワーでもいいんですけど……」
「あ、はい、ありますよ大浴場。右に曲がったところに……ただ」
「ただ?」
すると及川さんは困ったように口を閉ざした。
「?」
「その……なんというか……ここ、男湯ないんですよ」
「……」
「えっと……決してあなたのことを嫌っているわけではないんですよ?」
すると及川さんは顔を上げて、苦笑した。
「男性が先に入られると……困るというか、なんというか……」
不幸中の幸いというか、お酒を
別に悪いことではないのだが、悠さんや五条さんや北南さんや皀さん、さらには及川さんや伊地知さんまで使ったことを考えると、男の僕がいいのだろうかという思いに駆られ、浴槽につかることなく浴室を出た。
あんなどでかい露天を堪能できただけでも、よしとしようではないか。
僕は部屋着に着がえると、自室に戻った。
そして、予備の靴を履き、窓を開け、外に出た。
「風呂は後での方がよかったかな……」
今更ながらそう思いながら僕は草地を歩いた。
ほとんどの者は寝静まっており、しかもここは日本とは隔離された島である。電気ひとつ点いていない。
こういう時の為に懐中電灯を持ってきておいてよかったと思った。
…………それにしても。
辺りの木々が揺れ、視野は限られている。肌寒い風が作用して、なんだか幽霊でも出そうだ。まさかこの歳にもなってお化けなど怖がるはずもないが、いあやしかし、誰であってもこれは不気味だろう。
「え~と、待ち合わせ場所はたしかこの辺りだったかな……」
独り言を言いながら、周りをきょろきょろ見回す。
島の最北端に当たる場所だった。
「…………」
まだ『約束の人』は来ていないようなので、近くの砂浜に腰を下ろす。節約の為にライトも消した。
ヤシの実が足元に転がっていた。
僕は手で砂を掻きまわした。
ざざーん、ざーざー。
……ざごぉおーん。
さーっ……、ざざー。
波の音。
荒れておらず、とても耳に心地のいい音だった。
「……はあ」
心地よいが、辺りの風が僕を眠らしてはくれない。
「おい」
「!」
いきなり肩を叩かれて驚いたのは言うまでもないが、確認のためライトをつけ、その光が当たった相手の顔にもう一度驚いてしまったのは、間抜けというほかない。
「本当に来てくれたんだね」
「……当たり前じゃないですか」
青白い肌、毛先が尖った感じの黒髪、どこか温かみを感じさせ、その何倍もの病的な闇を宿した黒い瞳、蝋細工のような細くて長い指、真っ白な病衣を着たその少年は、嵯峨野蓮、だった。
「待ち合わせの時間を少し過ぎてしまったね、すまんすまん」
「いやいや、僕もたった今来たところですから」
待ち合わせ。
そう、待ち合わせである。
今日の夕方、僕と嵯峨野さんが会談をした際に、交わした約束である。
『今日の十二時、島の北にある浜辺へ来ること』
そういった約束だ。
「にしても」
僕は立ち上がり、ズボンの砂を払い落としながら言った。
「……よくここに来られましたね、あの牢獄みたいな病室から、どうやって脱出したんですか?」
「どうやって、とは?」
「だって、あなたはあの部屋の鍵を開けることはできないのでしょう?」
それも外側からの電子キーでしか開け閉めが出来ない。
部屋から出るなど、不可能に等しいはずだ。
「前もって『穴を掘っておいた』んだよ」
当たり前のようにさらりと言う嵯峨野さん。
それが嘘なのか本当なのかは、判断の難しいところだった。
「へ~――でも、よく考えたら『僕をここから出してくれ』なんて言っておいて、一人で抜け出せてるじゃないですか」
「あ~あれは、そういう意味じゃないんだけどね」
意味深長に呟くと、彼は苦笑した。
「ともかく、少し歩こうじゃないか」
「え?どこへです?」
「すぐそこだよ」
嵯峨野さんがそそくさと歩き出すので、僕も急いでそれについて行く。
海とは逆の方向の、林へと歩く。
夏の虫の声が共鳴するが、都心の夏とは違い、ブンブンという不快な羽音は聞こえない。
しかし少々蒸し暑い気はする。
懐中電灯の光の先に、小動物の走る影が見えた。
――自然豊かなんだな……。
僕は空を見上げる。
林の木々が視界の中心に向かって伸びる。彼らが示すその先には、大きな満月があった。
月のまわりには星々が散っている。デネブ、アルタイル、ベガ……夏の大三角。
まるで苦い苦いコーヒーの中に溶け込んだ、ひとかけらの角砂糖の破片のようにな、宇宙のなかの小さな希望達をこの目で確かめた。
「おーい、早く」
「あ、はい、今行きます」
僕は嵯峨野さんの背中を追った。
林を抜けると、そこは広い丘だった。
「うわあ」
「な?凄いだろう?」
丘の先は、崖だった。
すぱんと切り取られたその地面の先には、もう一つの宇宙が広がっており、視線を左にずらすと、そこには島の南側がカーブを描いて見え、その真ん中には、大きな館が見えた。
「あれが今皆が寝ている館さ」
「……こんな所、いつ見つけたんですか?」
すると彼はこちらを振り向き、にっこりと笑った。
「たまにあの施設を抜け出して、夜ここらを散歩していたんだよ、そのときさ」
なるほど……。
と、僕が嵯峨野さんに背を向けた、その時だった。
「えい」
「⁉」
背中を思いっきり押された。バランスが崩れる。前のめりになり、足を踏み外す。僕の体はそのまま、崖から落下していった。海面が顔に近づいてくる。
どおおおん!
飛沫が上がる。幸い、海の中にナマコは見つからなかった。
「…………っはあ!」
必死でもがいて海面に上がる。心臓がバクバクするのがわかった。少し海水も呑み込んでしまった。怪我をしていなかったことだけはよかったが。
「ちょ、何してくれてるんですか!」
濡れた服が邪魔で動きにくいなか、僕は上へ向かって叫んだ。
「おーい!聞いてるんですかー!」
「とう!」
「え、ちょ――‼」
ざばあーん!
嵯峨野さんも海へ飛び込んできた。自然と僕の体も海中へと沈む。
「……ん」
瞼に光を感じる。
目を開けると、そこには無数の泡が広がり、暗い海の中、一筋の光があり、僕の懐中電灯を持った嵯峨野蓮が笑っていた。
「――ぷはぁ!」
「――っはあ!」
二人同時に浮かび上がる。はあはあと息切れしながら、呑みかけた海水を吐き出す。
「…………」
「…………」
「…………はは」
「ははははは」
「――っはっははははははっは‼‼」
「――くっくっく……っははははあーっはっはっは‼‼」
笑った。
何が可笑しいのかわからなかったが、笑った。
狂うように笑った。
あたりの海面をびしゃびしゃと叩きまくり、笑い転げた。
愚者のようだった。
狂人のようだった。
全部、笑うことで忘れようとしたのかもしれない。
肺が爆発したように豪快な笑い声をあげる少年たちだった。
「はっはは――あぁ可笑しい」
「ははは」
脱力したように仰向けに大の字になって浮かぶ二人。
馬鹿笑いに疲れたようで、それこそ滑稽だったろう。
「なあいるか君」
「何ですか嵯峨野さん」
お互いに宙を見上げ、顔を合わせずに言った。
面と向かって話すと、また爆笑してしまう気がしたからだ。
「ん――やっぱなんでもない」
「なんですか……気になりますよ」
照れたような言い方をする嵯峨野さんに少し笑って応える僕。
「こういうこと、言ってもいいのかなーって」
「いいですよ、なんでもお互いに男なんですから……」
「不快に思ったら悪いと思って……」
焦らす嵯峨野さんに「いい加減言ってくださいよ」と苦笑する僕。
「そのーいるか君……君はその……――なのかい?」
「ぐあ!」
不意打ちで唾を飲み込んでしまった。
気管が反射を起こし、げほげほと咳き込む。
「い――いきなり何言うんですか!」
「だって男同士だし……」
「もっと真面目な話かと思いましたよ……」
「真面目な話さ――それにしてもうむ。」
顎に手を添え、考え込むようにする嵯峨野さん。
「僕はこんな感じだからわからないけれど……」
こんな感じというのは恐らく、この施設に身を置かれている自分の立場のことだろうか。
「――その年齢で……つまり、チェリーボーイってのは普通な事なのかい?」
「普通ですよ……そもそもそいう類の行為は十三歳未満は禁止されていますからね」
「無戸籍だからロクな教育受けていなくてね……、法律のことはよくわからないんだ」
実際は学校でもロクな教育はしていないのだが。
日本は性教育がグダグダなのはよく知られた事実である。
嵯峨野さんのご両親も、幼いころからしっかりとした教えを受けていれば、彼も五体不満足の状態で生まれることも防げたはずだ。
「じゃあ君には子供はいないわけだね?」
「いたらおかしいでしょ……」
「うん……」
目を閉じて悩む素振りをする。
彼だって別に本気で悩んでいるわけではないだろう。
会話の流れからコメントに迷いがないことが受け取れる。
要は段取りのための茶番である。
「じゃあ君にこの問いは少し早いかもしれないね」
「ん?どういうことです」
話の流れが読めない。
読めないのはこの人自身か。
「いやいや」
とわざとらしく自言を否定する嵯峨野さん。
「多感で多患な今の君の時期だからこそ、この問いは必要なのかもしれないね」
すると彼は僕の目をしっかりと見つめて、こう言った。
「赤ん坊ってのは、この世に生まれて、本当に幸せだと思うかい?」
それは、あまりにも失礼な言動だった。
一年かけて激痛を伴いながら、自らの腹を切り裂いて自分を産んでくれた母親がいる限りは、普通は言えない言葉だ。だからこそ彼にしか言えない言葉だった。
彼を地獄に突き落としたのは、紛れもなく親なのだから。
彼らのことは未熟だったとしか言いようがないだろう。
赤ん坊というのはつまり、嵯峨野蓮本人のことだろう。
しかしなぜ、その質問を僕に問うたのだろう。
きっとこれまでも会ってきた人々に繰り返し言い続けた問いなのだろう。それほどまでに彼はまだこの世に自分がこうして生まれたことを疑問に思っているのだろう。
なぜだろう。なぜだろう、と。
病んでいる。
これ以上ないくらいに彼は病んでいた。ことごとく哀れな事に彼は病的なのであった。
しかし僕はこう答えるのだ。
「いや、そもそもベビーなんてまだ何も考えてないでしょう、脳も発達途中ですし……」
「でも子宮から出てきたとたん、泣いてるんだぜ。あんなぎゃーぎゃー喚き散らして。それも誰一人例外なくな」
「それはただの産声でしょう。呼吸を始めた証です」
「ん~……。そーゆー話をしているわけじゃ、ないんだなぁ」
癪に障る言い方をする。
「しかしいるか君」
「なんですか」
「さっき僕たちは阿呆みたいに笑ったろ?」
「ええ、はい……。あの時周りに誰もいなくて本当によかったです」
それが宿の前だったら確実にみんな起きていたはずだ、そのくらいのどでかい声量だった。
「あれは、何笑いだったのかな」
「? 何笑いとは……」
「つまり、あれは馬鹿笑いなのか含み笑いなのかせせら笑いなのか作り笑いなのか高笑いなのか苦笑いなのか薄ら笑いなのか思い出し笑いなのか泣き笑いなのかということだよ。もっというと嬉笑、哄笑、談笑、微笑、嘲笑、微苦笑……そのうちのどれに当てはまるのかな?」
「…………」
笑うことの理由。
なぜ人は、
わからない。僕にはそんな事……‼
「この問いに対する模範解答は、ずばり『理由などない』だろうね」
「…………」
「よって解なしだね。――そういう意味ではさっきの君の答えも正しかったのかもしれないね」
人間の喜怒哀楽は自然に出てきてしまうもの――。
涙に理由がないように、笑もまた自然に零れるもの……。
「だからさぁいるか君」
「……はい……」
「人間てのはやっぱり何も考えずに生きているんだよね」
神妙な顔つきで、彼は続けた。
「分かったようなふりして実は何もつかめていない……。自分たちの置かれた境遇に一喜一憂することはあってもそこに思想は無くて、疑問に感じることは永遠にない」
「……まるでマリオネットですね」
「うん。しかし一体、僕たち
「…………」
考えたくもない話だった。
僕が今――僕と今頑張って何とか生き延びているこの美しくも醜いこの世界が、まったくの架空の虚空だったなんて……。
眩暈がする。
吐き気がする。
頭痛がする。
耳鳴りがする。
震えがする。
麻疹が出る。
息が凍える。
鼓動が乱れる。
泡が噴き出る。
血が騒ぐ。
鳥肌が立つ。
熱が上がる。
背筋が凍る。
幻覚が見える。
病気だ。
僕らは既にオカされてしまっている。
考えるだけで気が遠のく。
神の領域……
問うてはならない問い……
踏み込んではいけない領域……
知ってはいけない公式……
使ってはならない魔術……
唱えてはならない呪文……
奏でてはならない五線譜……
学んではいけない解剖図……
創ってはならない発想……
産んではいけない異端児だ……
身に着けてはいけない技……
今、その禁忌を、嵯峨野蓮は疑問に思ってしまったのだ。
本来、タブーという名の病原菌でがちがちに縛られているはずの鎖を、己の病を抗体として、ほどいてしまったのだ。
彼にしか見えない世界だった。
彼にしかわからない『問』だった。
彼は、僕の眼を据えて、小さな声で、しかしはっきりとした意志を持って、こういった。
試験問題。
大問一番。
括弧一。
「僕らが生まれてきた理由って、何だろうね」
問題製作者、嵯峨野蓮。
模範解答省略。
人類の永遠の宿題。
そんな質問、僕にこたえられるわけがないだろう?
すると彼は言ったのだ。
そのうちわかる時が来る、と。
結局その日は、その会話をするだけで、嵯峨野連とは解散となった。
夜の星空は、まるで夏の日の削り氷のように、煌いていた。
それじゃあこの赤い星雲は苺のみぞれかい、と彼は茶化した。
孤島の海辺に、詩人がひとり。
僕はただ、彼が立ち去った後も、寂しく叙情詩を口ずさむことしかできなかった。
どこかで、鳴ってもいない蝉の音が、僕の心を揺さぶった。
懐中電灯の光を頼りに自力で館に戻る。
月光に照らされた、アオ色の館。
名を『陽荘館』ということを今横にある看板を見て初めて知ったのだが、なんだか悲壮感と掛かっているように思えてしまうのは、恐らく僕の気のせいだろう。
さきほど着衣のまま海に飛び込んだので、シャツが肌にはりついて、少し不快。
この少し蒸し暑い夜にはずぶ濡れの服は逆に嬉しかったが、しかし短めの靴下の露出した足首の辺りに砂がはりつき、とうとう靴の中にまで砂が入り込んだので、明日自分の足が靴擦れないことを願いながら、僕は館の裏にまわって自分の部屋の窓を開けた。
スニーカーに着いた砂を室内に落とさないよう裸足になり、慎重に窓枠をまたいだ。
「せっかくシャワーを浴びたのにまた汚れちまったよ……」
独り言を呟きながら、僕はクローゼットのハンガーに掛けてあったバスタオルと、鞄の中から着がえの服を引っ張り出して手に持った。
――この服、明日着る予定だったんだけどな……。
まぁ、どうにでもなるだろう。今着ているずぶ濡れの服はシオが浮いてしまうから無理で、消去法的に同じ服を二日着ることになるんだろうが。
不潔感は拭えないが。
――ハンマーや釘は持ってるのになんで服は多めに持ってこないんだよ、自分……。
開けたドアを閉めながら僕は心の中で愚痴を吐いた。
「…………」
しかし、夜の洋館をひとりでライトを持ちながら歩くというのは、どうしても気味が悪いと思ってしまう。
――きっと凪坂結未、あいつなら、こんなときに
『いいじゃんこういう感じ/化物屋敷みたいで』
とでもいうのだろう。僕がそこで「怖くないのか?」と問うと、
『怖いよ/怖いけど/別に会ったところで/どうにもならないし……/会えたらラッキーって感じ』
と、いつも通りの不自然なスラッシュが入ったような口調で言うのだろう。
そんな妄想に浸りながら、僕は『大浴場』と書かれた部屋のゆの字の暖簾をくぐる。
――ったく……。どいつもこいつも詩人なんだよな……リリカルなくらいに。
部屋の電気をつけ、濡れた服を脱ぎ、棚に並んだラタンに畳んで仕舞う。全裸になると浴場の電気を点け、すりガラスの引き戸を開ける。
一応はマナーとして鏡の前で頭髪と体を石鹸で洗い流し、――先ほどは恐縮していたものの――やはり体を温めたいと思い、岩で囲まれた(半分屋外へとび出した)浴槽に肩まで沈めた。
――さて、と。
果たしてどうしようか。
嵯峨野さんをあのまま放っておくわけにもいかないし……かといって僕に一体何ができるだろうか……。
僕もそうここに長くいられないし……。
そこで僕はふと、嵯峨野さんが放った印象的な一言を思い出した。
そう、それは僕が、僕らが生きている理由を聞かれ、答えに詰まっていた時の言葉。
『そのうちわかる時が来る』
「…………」
あれは……どういう意味だろう。
僕は湯気が立つ中で後ろの岩に寄りかかった。
――そのうち、そのうち……。
ときどき、すべて時が解決してくれたらいいのにと願うことがある。それは解決してくれることもあればしてくれないこともある。フランスの作家、フランソワ・ラブレーによれば、『時は金なり』と最初に言ったのは古代ギリシャの哲学者、ディオゲネスだという。しかし、時は金ごときの価値しかないというのであれば、日々時間に踊らされている現代人はさも滑稽だ。大昔のお偉いさんたちの頭脳が言っているのであれば、間違いないだろう。『そのうち』彼の言葉の真の意味を理解したとき、人々はおおいに後悔することだろう。せっかくの助言をなぜ受け取らなかったのか、と。
それも時が経てば気がつくことだ。かの有名なプラトンでさえ彼のことを狂人扱いしていたのだ。
僕は外の景色を見る。
潮の香りが鼻に心地良い。
深い〱海の蒼色と、太陽のいない空の青色。
「…………」
スカイブルーとマリンブルーの違いも分からない僕に、時やら生きる理由やら、哲学的な事を聞かれても……。嵯峨野さんは僕のことを少々誤解しているんだと思う。僕はどこにでもいる、もはや風景と同化しているような物語の傍役だ。頭がずば抜けて良いわけでもないし、身体能力も劣った、努力の天才とはかけ離れた不真面目な存在。自分が可愛くってしょうがない、難しいことなんて酔狂な学者さんたちが考えればいい、明るい表面だけを見て死んでいきたい、そんなどうしようもない人間なんだ。
「僕なんて……」
何で生きているとか、どうして時は流れるのだとか、そんなことは僕にとっては些細なことだ。僕には大きすぎて些細だ。
ただ、僕は毎日を生きるのに必死なんだ。そんなことを考えている余裕などない。そんな懐の大きい人間じゃない。毎日理由をこじつけて、失敗も絶望も、全部忘れて、自分じゃなくて良かったじゃないかって、そういって、他人事にして、見て見ぬふりをしながら、僕は生きているんですよ――嵯峨野さん。
『強がり/だよ/そんなの……』
どこかであいつが言っているようだった。
「…………!」
ああ。
これは……。
目に水滴が付いてしまったようだ……。
僕は湯船のお湯で顔を洗った。
「あら、あっ君」
「ああ北南さん」
たまたま廊下で、北南さんと会った。
ちなみに、このとき北南さんは懐中電灯を持っていなかったし、僕も明かりを点けてはいなかった。すでに廊下が明るかったからだ。どうやら北南さんが電気のスイッチを押してくれたらしい。考えても見ればこそこそ暗い中歩く必要もなかった。ただスイッチの場所は分からなかったが。
さらに付け足すと、北南さんは今パジャマ姿。ピンクがかった色の上下。前髪をカチューシャで上げていた。
「あっ君、今お風呂上がったところ?」
「え?いや、あの……。凄く快適だったんでつい長引いてしまって」
まさか嵯峨野さんと泳いでいたなんて言えまい。
「でも、もう一時半だよ?こんなに長引くことって……」
「あ、いやその……」
そろそろ言い逃れが出来なくなったと思い、僕が本当のことを言おうか他にいい逃げ道はないかと四苦八苦していたところ、なぜか北南さんに顔を赤らめられた。
熱がみるみる上がっていくようだった。
「あ、いやいや!なんでもないよ……変な事聞いてごめんね?」
男の子だし……、プライベートだし……、と、ぼそぼそと言うのが聞こえた。
何か誤解されているようだった(あなた心理学専門でしょう……それともまだ修行中なのか)。が、事実と異なるのであれば波に乗らない手はない。
「あー、いやすいません……気ぃ使わせちゃって」
「…………やっぱり」
ちょっと引かれた。
悲しい。
「それで、北南さんはなぜここに?」
「あーいや、今日寝付けなくって……」
「それは大変ですね」
「窓の外で悪魔の笑い声が聞こえたの」
「…………」
「それはもう恐ろしいのよ、げらげらって。確か二人いたわ。それとも若い男の幽霊かも……」
「いやー、ただの夢でしょう」
「でも私聞いたのよ?北の海の方からだったわ――私、さっき調べてみたら、船幽霊っていうのが出てきて……ほら船幽霊!」
「…………」
スマホの画面を見せられた。
『 【船幽霊(ふな―ゆうれい)】
海に現れるという、水死した人間の亡霊。船乗りたちに柄杓を要求し、底の抜けた柄杓を渡さないと、
それで船に海水をかけられ、沈没させるという。主に江戸時代の資料に多く見られる。
またの名を舟幽霊、アヤカシ、ボウコともいう。 』 ――だそうだ。
「そんな非科学的なもの、いるわけがないでしょう……幻聴ですよ、空耳」
「でも、もし万が一現れたら……」
ひとりで震えている。
「底のない柄杓を渡せばいいでしょう」
「……柄杓持ってないわ」
そうでしょうね。
ていうかそろそろ部屋に戻らせてほしい。
明日は早く起きたい……。
「じゃあ、北南さん、おやすみなさい」
「あ、あの、いるか君」
「?」
帰ろうとする僕を、彼女は止めた。
「あ、あ、あの、ちょっと……やっぱり、舟幽霊は怖いなあ……って」
「…………」
「いや、この歳になってホント恥ずかしいんだけど、もうちょっと話さない?」
「え……」
「なんなら、立ち話もあれだし――私の部屋に来る」
「――――っえ」
脳が判断するのに数秒。
あと、本当にどうでもいい話だが、決まり文句の『立ち話もあれだし』の『あれ』って一体何だろう。
「さあ、こっちこっち」
「――あ、はい!」
北南さんが手招きをし、早足で駆けていった。
その足取りはとても軽やかで、見ていて微笑ましかった。
「ここが私の部屋」
突き当りを右に曲がった所に、その部屋はあった。
意外と近かったんだな……北南さんの部屋。
ドアを開けるとそこは、いかにも二十代女性の部屋という感じだった。
部屋にはふかふかの白いカーペットが敷かれ、左には水色のベッドがあり、枕元の台には目覚まし時計とゆるキャラのぬいぐるみ。真向いには長方形の窓があり、その手前にはデスクとスタンドが。奥の棚の上には小植物や芳香剤などのインテリアが置かれ、壁は桜模様にリフォームされている。唯一い様だったのは、英文で書かれた医学書や資料が、ぎっしりと棚に入れられている事だった。
「実は私、この部屋に男の人入れるの初めてなの」
うきうきして言われた。
彼女はなぜか妙に声が弾んでいた。
「あっ君――いや、いるか君はベッドに座って」
「床でいいですよ」
「ベッドに座って」
語気を強くして言われたため、僕は渋々それに従った。
それを見て北南さんもデスクの前の回転いすに座る。
「…………」
「…………」
なんだか気まずくなったので僕が部屋をきょろきょろしていると、
「いるか君ってさ――」
「え?」
「いい子だよね、何だか敬語ばっかしでさー」
「いや、そんなことはない、と」
「そういう謙虚なところもね」
「…………」
「もっと悠ちゃんみたいに弾けちゃっていいんだよ」
「弾け……」
「猫被らずに、そのままをさらけ出して」
「…………」
「それとも、いつもそんな感じなの?」
「ええ、まあ……。さすがに友人や家族に敬語は使いませんけど……」
「うん……」
しばらく腕を組んで悩んでいたが、一分ほどで目を開けると、彼女は
「何か、悩んでることって、ある?」
「え……いや特には……」
「本当に?どんな些細な事でもいいの」
「…………実は」
僕は北南さんに話した。すべてを話した。
小さなころから人とうまく融和できなかったこと。
他人をどこかで軽んじていたこと。
この前友人が死んだこと。
町や学校の秩序が乱れたこと。
人の裏のような、猟奇性を見てしまったこと。
そして、嵯峨野連。
彼との会話のこと。
「なんか……あの人と話してるうちに、僕も、色々考えちゃいまして……」
「…………」
北南さんがあまりにも真面目な顔をするので、僕は
「いや、別にそんなシリアスな話じゃなくて……」
「いるか君」
少し強めに、目を据えて言われた。
「あなたは、すこし自分を責めすぎなの」
「…………」
「もっと甘えていいんだよ?話を聞いてると、あなたが今背負っているものは、まだ干支が一周回ったくらいしか生きていないあなたには――あまりにも重すぎる」
「…………」
「頑張らなくていいの、失敗したっていい。――若さには権利があるから」
「…………あなたは……」
「私、人の心を癒すために、この学問の道を選んだの」
「…………」
「トラウマやフラッシュバックに悩まされている人たちを救いたいって思って……」
「…………」
「今のあなたは、私には見ていられない」
「…………」
すると西東北南は、椅子から立ち上がり、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「それに何より、なぜだか私の心まで締め付けられる…………」
北南さんの瞳は、少し潤っていた。
なんでだよ……。
そんな顔で僕を見ないでくださいよ……。
こっちまで…………。
「北南さん――」
ほとんど無意識に近かった。
放心状態とも言ってもいい。
そんななか、自然と出てしまった、言葉だった。
「いるか君‼」
彼女は僕を思いっきり抱きしめた。
きつく、きつく。
あふれ出んばかりの愛情で、僕を包んでくれた。
その肩はなぜか震えていた。
「北南さん――」
「いるか君!」
と、感情を抑えたような、絞り出すような声で、彼女はこう、囁いた。
「私――――あなたのことが好き」
翌日のことである。
嵯峨野蓮が、死んでいた。
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