第一章 島にて日出
第一章 島にて日出
『ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ……』
重い瞼を擦り、上体を起こす。僕は大きく背伸びすると欠伸をした。
「…………んー?」
ようやく枕もとで鳴っているスマホに気づく。
毛布から脱し、足を床に置く。ひんやりとした感覚が眠気を覚ます。
部屋は暗かったためスマホの画面に目がくらんだ。細目でディスプレイを横になぞる。
『ぴぴぴぴ……』
…………ん?音が止まらない。
よくみるとそれは目覚ましではなく電話の呼び出し画面だった。
「こんな朝早く誰だ……」
僕はのんびりと画面をタッチし、耳に当て、「もしも――
『うわわああああああああああああああああああああ』
「ぎやあああああああああああああああああああああ」
スマホを反射的に投げ出した。
耳の奥に痛みを覚える。
「鼓膜破れるだろうが!」
僕は先の叫び声にも負けないくらいの声量で抗議するが、電話の向こうの人物はびくともしない。
『よかったじゃない。目が冴えたでしょ?』
「床に足を付けた時点で冴えてた!」
『何?何の話――ってまさか今まで寝てたの⁉』
「? そうだが……」
僕はベッドから降り、ティッシュで鼻をかむ。
『人の家で何時までおねんねするつもり?』
「人の家……?」
ああそうか。ここは僕のいつも寝起きしている寝室ではない。周りを見れば確かに自室の三倍はある。
普通自分の部屋にシャンデリアなどついていないものである。
「……そういえば、今何時だ?」
『時計を見ればわかるでしょうが』
「壊れてるんだよ。今見たら十一時で止まってる」
壁にかかった高価そうなローマ数字の時計を見ながら僕は言う。
『…………壊れてないよ、その時計』
「……………………………………………………………………………………………………なん、だって」
僕は勢いよくカーテンを開ける。差し込む日光。快晴。網戸から入る爽やかな風が髪を揺らす。
「なんでもっと早く教えてくれなかったんだ凪坂……」
あまりの出来事にベットに再び倒れこむ。
『だから何回も言ったじゃん……』
「…………」
『? もしもーし』
「…………」
『寝るなっああ!』
「うえっ」
ああ寝るところだった。
危ない危ない。
凪坂結未。僕と同じクラスの女子生徒だ。
四月のことだった。
クラスメイトの
そののちにあたる首吊りの木と白ペンキ黒猫事件や日英首切り事件が解決したのも、彼女の功績だと言っていいだろう。
ただ、性格や人格に何はないのだが、少しだけ奇妙な、どこかずれているところがあり、そのことに関しては猟奇的ともいえる。
まあ、他人からはなかなか気づかれないのだが。
『それで?』
少し間を置いてから、凪坂は言った。
『島でのバカンスは楽しんでる?』
「あー、いや、昨日ヘリで着いた時にはもう真っ暗でさー」
『ふーん。てっきりもうハーレム生活を満喫しているのかと思ってたのだけど』
「…………」
そうだ。この島には僕以外には一人しか男がいないのだった。
……………。
自然と口元が緩んでしまう。
「えへ」
テンション、上がっちゃうなぁ。
『あのー相川君?受話器の向こうからにやけ顔がひしひしと伝わってきてるんだけど』
そもそもこの僕がなぜこの島に来たのかというと、原因はあのあのにっくき先輩、児嶋翔太にあるのだ。
僕は中学美術部に所属しており、児嶋先輩はその部長である。
「お、まだやってたんだラッセン後輩」
ある日の放課後、僕が海を描くのにキャンヴァスにアオい油彩を盛り、さてこれからどう色彩を調理しようかという時だった。後ろのドアが開かれ、児嶋先輩が美術室に入って来た(ちなみに部員にはそれぞれ著名な画家から取られたネームがつけられており、彼の場合はシャガールだ)。
「相変わらず上手いねぇ」
児嶋部長は絵をイーゼルから外すと(もちろん絵具には触れないようにである。こういう動作ひとつひとつに、絵描きとしての精神が垣間見える)、興味深そうにその絵を眺めていた。
「やっぱりそこらの『にわか』とは違うよ」
「あ、ありがとうございます」
「ふふっ――」
児嶋部長はキャンヴァスを元に戻すと、近くの机に逆さにのせられていた木製の椅子を手前に寄せ、床に置いて僕の横に座った。
「とこでなんだけどさ」
「――――はい」
僕は止めていた筆を再び布の上で滑らせながら応えた。
「今度の日曜って空いてる?」
「えっ、それって夏休みですよね?」
「うん」
「別に空いてますけど……それがどうかしたんですか?」
「いや実はね――ほら、うち――つまりは児嶋家のことなのだけれど――うちはさ、まあ、自分で言ううのも変だけれど、中々の金持ちじゃない?」
「まあ、はい」
話が見えてこない。
「それでさ、その、親戚とかも結構豊かなわけでさ、そういう面倒な付き合いがあるのよ」
「ええはい」
「だからさ、相川」
彼は僕をネームではなく苗字で呼んだ。
「アジアの孤島に、行ってくれないか?」
「…………は?いやいや全然、意味が分からないんですけど」
「まあまあ、聞いてくれよ」
と、部長は学生鞄の中から小さなカラー印刷の地図を取り出した。
「ほらここ」
「ん?」
地図を広げると、彼は日本から少し離れた南の方、フィリピンやグアムのある所辺りを指さした。
「……どこですか」
「だからこの辺りだって。人工島だから地図には載ってないけどたしかこの辺りだったと思うぜ」
「へえ」
「名前はウキルタス島って言ってな、元々は韓国の富豪がリゾート地にするために作ったらしいんだけど、それをうちの児嶋財閥が丸々買い取ったってわけだ」
「……何のためにです?」
「『子供を病から救うため』かな」
「どういう意味です?」
「だーかーら」
眼の前で鉛筆を左右に振る部長。
「そのままの意味だって。サガノ病って、知ってるか?世界でひとつしか見つかっていない、治療方法未発見、正体不明の未知の病」
なぜか格好をつけられて言われた。
「その病気に掛かった日本人の子供を治療――というのか、研究というのか――まあそんな感じの事を目的としてる施設を建てるためにその島を買い取ったらしい」
つまり、その病気のことを調べるためってことか。
「……それで、その研究に必要な機器を今回提供してくれるってのが、電子工学の神童、宇田川悠さんなんだが……お前にはその人の『ブレーキ』になってほしいんだ」
「ブレーキ?」
宇田川さんが制作した機械に付属するブレーキのことかと思ったが、どうやらそういう意味ではないようだ。
「ああ。その人――今十七歳なんだけれど――その人は、IQは異常に高いんだが、その分知能が偏っているところがあって……」
「なるほど」
つまりその宇田川さんの暴走を止める意味での『ブレーキ』というわけか。
「ああ。そいうことだ。本来これは」
部長は蒼い髪の毛をかき上げながら言う。その頭髪が、キャンヴァスの絵のアオと重なり、やけに映えて見えた。
「――本来これは俺の仕事なんだが、その日俺、女の子とデートでさぁ」
「…………」
そんな理由で仕事さぼっていいのかと本音を言うわけにもいかず、ただただ冷たい視線で応える。
「何だその目は……いや、だから、俺は忙しいんだ。だからお前が行ってくれ」
「いやです」
「今度何か奢るから!」
部長がこちらに身を乗り出す。
「お金の問題じゃないです」
「いつもカワイがってあげてるじゃない」
「それでもいやですよ無人島なんて。僕だってやることがあるんです。宿題とか、色々……」
「え~~~~~~」
騎馬のように椅子をがたがたと前後に揺らす部長。
子供か。
「いやですよ。大体、何で僕なんですか?その宇田川って人、お金持ちの家系なんでしょう?だったら、付き人とかいないんですか?」
冗談で言ったつもりだったが、児嶋翔太の答えは意外にも「いるよ」だった。
「いるらしいんだけどさ、その付き人の人が女性だそうで、男がいないと心細いんだとさ」
「かなり滅茶苦茶な言い分ですねそれ。そもそも僕宇田川さんより年齢下じゃないですか」
「年下がいいんだとさ。可愛いからって」
「かなりやばいですねその人……。もしかして、女性ですか?」
僕が問うと、
「ああ。――そういやウキルタスにいる研究者たちは病気の少年を除くと、ほとんどが女らしいぞ」
「へぇ…………」
僕はあえて興味がないふりをした。
「あれ、反応なしか?てっきりすぐに食いつくと読んでいたのだが……。いやはや、僕としたことが。とんだ計算違いだったようだ」
当たり前である。
というか、僕を変態みたいに言わないでほしい。
「いやに決まってますよ。そんな小母さんだらけの所なんて。肩身が狭いだけです」
「んー。おま、ちょっと勘違いしてない?」
「何がですか?」
「島にいるジョセーは大体がぴちぴちの二十代だぜ?」
「…………」
「島ってことは、海辺で水着姿も拝めるかもなぁ」
「……………………」
「こんなところで寂しく静止画見ながら海の風景なんて書かなくたって、島にはモデルがわんさかいると思うけどなー」
「……………………………………」
「こーんなにオイシイ話を逃しちまうなんて……。まあ、本人が言うのなら仕方のないことだよな……」
「…………………………………………………………………………」
立ちながら大袈裟なジェスチャーをつけてプレゼンをしていた部長は、途端に動きを止め、こちらを半分開けた右目で見下ろしていた。その顔に浮かんだ表情に悔しさは微塵も感じられず、明らかに商社の笑みそのものだった。
「…………………………………………………………………………………………………………行きます」
今回の件に関していえば、これは児嶋部長のよく回る舌を受けた僕の敗北だ。
はあ。
――やはりこの人には敵わないなあ。
その後、窓からこぼれる黄昏の光を受けながら、児嶋翔太は学校を去って行った。
その際、僕は
「シャガール部長」
と彼の背中を引き留めた。
「ん?なんだ」
振り返る部長に、精いっぱいの誠意と尊敬の念を込めて、僕はこう言った。
「デート、頑張ってください」
僕が言うと、部長は一瞬ぽかんとしていたが、すぐに
「ああ!」
と親指をぐっと上に突き立てた。
彼の瞳に映る、燃えるような朱色の夕日。
それは、彼自身の情熱を表しているようでもあった。
「何が『デート、頑張ってください』だよなあ」
数日前のやり取りを思い出しながら、今更ながら後悔する僕。
寝巻からTシャツと半ズボン、パーカーに着がえると、僕は部屋から出た。廊下は冷房が掛かっており快適。考えてみればここは赤道付近の南の島。よくあんな暑い部屋で寝られたなと思う。おそらく疲れていたのだろう。
カーペットの敷かれた床の上を歩き、吹き抜けになったロビーの階段を下りる。
つやつやとした木製の手すりの感触。
靴音が部屋全体に響き、壁一面のステンドグラスが眩しい。
「あ」
螺旋の階段を下りる途中、一階に缶ビールを二本持った北南さんがいた。今は白衣ではなく私服だった。
西東北南。大学生で、心理学者志望。髪は明るい茶色のミディアム。優しい感じの、カワイイ系女子。
「あ、いるか君!起きたんだ」
「おはようございます」
「おはよー……ってもう昼だけどね」
微笑む北南さん。僕もそれに応える。
可愛い。
「向こうで宴会やってるから、いるか君も来なよー」
「あ、はい。すぐ行きます」
僕は早足で北南さんの後を追う。
館の玄関を出て、色とりどりの花々が植えられた庭園を抜け、比較的雑草の少ない平地を歩く。
「アサヒ持って来ましたよー!」
北南さんが声量を上げて言うと、丘の方から声が返って来た。それにあわせて北南さんも缶を見せるように持ち上げる。
もう少し歩くと、声の主であろう人々が見えてきた。
「あー北南ちゃんあんがと。お、あっ君もいんじゃん」
レジャーシートに座り重箱を持ちながら、皀さんは言った。
皀葵さんは細菌の研究者だ。蒼い感じのショートで、その髪色はどこか児嶋部長を思わせる。
「その『あっ君』っていう呼び名やめてくださいよ……」
「そうだよ葵ちゃん、いるか君も嫌がってるし」
「えー?いいじゃん愛着湧いて。あとあっ君、敬語じゃなくタメ口でいいんだからな」
皀さんは北南さんからビールを受け取ると、早速紙コップに注ぎだした。
「にぎやかでいいですね」
と言ったのは研究所長の明楽なお子さんだ。
「すいません所長」
酔った皀さんが平謝りするが、明楽さんはいつも通りのにこにこ顔だ。
「いいんですよ。今日は相川さんたちの歓迎会なんですから」
「そうかーなら仕方ないですね!」
何がしかたないのかわからないが。
「お、いるかくーん!」
「あ、こんにちは宇田川さん――それと五条さんも」
「おう。こっちに来て一緒に食べよう少年」
明楽さんの横のシートで弁当を食べているのは、例の神童、宇田川悠さんとその付き人である五条笑さんだ。宇田川さんはいつも通りの黒縁丸眼鏡にスーパーロングの髪で、青い着物を着ており、五条さんは全身真っ黒なスーツだった。
「違うでしょ、『宇田川さん』じゃなくって『悠ちゃん』でしょ」
「……悠さん」
「それでよし」
なんだか、児嶋部長が言っていた『偏っている』の意味が分かった気がした。
そうしているうちにメイドさんたちが刺身の料理を持ってきてくれた。彼女たちが立ち去ろうとするのを、明楽さんが「ちょっと」と金髪の及川という名前の人を引き留めた。
「はいっ!なんでしょう」
「あなたたちも一緒に食べたらどう?お腹すいてるでしょう?」
「いやでも、まかないがありますので」
「そうだよメイドさん」
そう言ったのは北南さん。
「空腹は体だけじゃなく、精神面にも悪い影響が出るのよ」
「はあ……じゃあ、お言葉に甘えて……。みんなも食べましょう」
「あ、はい」
「いいんですか⁉」
他のメイドさんたちも座ってご馳走を口に運び始めた。おいしそうな顔をするのでこっちまで幸せになる。
少し寝っ転がると、真上に空が見える。雲一つ見えない。
青い。
蒼い。
碧い。
それは水彩画みたいに清々しいアオだった。
あたりのヤシの木々が風に揺れ、小鳥たちがそれに合わせて囀(さえず)る。
児嶋部長に負けてこの島に来て、よかったかもしれないと思った。
「ねえいるか君」
「なんですか悠さん」
五条さんが酒に酔って昼寝している横で、僕と悠さんはメインの洋食を食べていた。
「少し遅くなぁい?」
「ん?何がですか?」
僕は訊いた。
「ほら、嵯峨野君だよ。サガノ病の由来となった」
「? ああ」
そういえば嵯峨野さんは悠さんと同い年だったか。
「それがどうかしたんですか?」
「このパーティーに参加するらしいんだけれど……」
「え?でも彼は病気なんでしょう?部屋から出るのは一時間しか許されていないとか」
「うん。それを所長が特別に許可したらしいんだけど……」
へえ。
明楽さん、なんだか寛容な人だなぁ。
「…………」
僕は黙ってサイコロステーキを口に含んだ。
「すいません所長」
聞いたことのない声に反応し振り返ると、そこには淡いピンクの制服を着た看護師さんが、食事中の明楽さんに話しかけていた。
「あら稜都ちゃんじゃない――どうかしたの?」
「実は……蓮君が、今日はだるいから宴には参加したくないと言ってまして……」
「あら残念」
「本当にすみません」
「何であなたが謝るの?本人がだるいって言ってるのなら仕方のないことじゃない」
「はあ……」
ナースの伊地知稜都さんは、明楽さんに向かって何度か頭を下げ、話していた。
「あの子、私に全然心を開いてくれなくって……。私、ホントは、看護師に、向いてないんじゃ、ないかって……」
後半涙交じりに彼女は言った。
「何言ってるの。あなたのおかげで私たちは頑張れるんじゃない。彼の心を開くのは、決して簡単な事ではないですけど、気長に待てば、いつか、報われる日が来るから。ね?」
「はい……ありがとうございます」
涙に濡れる伊地知さんと明楽さんは、熱い仕事への情熱を示すように、強い抱擁を交わした。
明楽さんは伊地知さんの背中を、赤子をあやすようにとんとん、と叩いた。
「さ、あなたも食べなさい」
「――――――はい」
明楽さんに渡されたハンカチで涙を拭きながら、伊地知さんは答えた。まわりにいた西東さんや皀さん、メイドさんたちも、彼女に励ましの言葉をかけていた。
一連の会話を見ていた僕たちは、
「みんな、嵯峨野さんのことを思っているんだね」
「だね」
悠さんはなぜか少しばかりあきれた様子で頷いた。
その横で五条さんはすやすやと眠っていたが。
「はーいみなさん!」
気持ちを切り替えるように西東さんは、立ち上がり両手を広げ、声を張って言った。
「これから私の心理学を応用したパフォーマンスを披露したいと思います!」
見物人、特にメイドさんたちの間から大きな拍手が起こった。
「よっ!メンタリスト西東!」
煙草を吸っていた皀さんが合の手を入れる。未成年の前で煙草を余裕で吸う大人が、ここにはいる。
「こらダメじゃない葵ちゃん」
案の定所長に注意される皀さん。
西東さんの声の邪魔をしないような声で、明楽さんは囁く。
「ここは禁煙だって言ってるでしょう?子供もいるし」
「えー。もう、火ぃつけちゃいましたよぉ」
皀さんは素手で煙草の炎をもみ消すと、それをゴミ袋に捨てた。
吸殻を名残惜しそうに見つめる皀さん。
「…………」
ポケットのシガレットケースに手を伸ばす皀さん。それをすかさず片手で制す所長。首を横に振る明楽さんを見て、諦めたように溜め息をつく皀さん。
「では」
西東さんの言葉に再び耳を傾ける。
さっきから何か話していたけれど、よく聞いていなかったなぁ。
「このショーに協力して頂くのは――でれでれでれでれでれでれ……」
目をつぶって勿体ぶるように言う西東さん。
ドラムロールなのか。
彼女の頭の中では今、僕たち観客の上でスポットライトが四方八方にうごめいているのだろう。
「あなたです!」
ライトの光が一点に絞られた。
指をさされたのは、僕。なんだかお前が犯人だと告げられたみたいだった。
「いってらっしゃい」
にっこにこの笑顔で僕の背中を押す悠さん。
「はあ……」
目立つのは得意じゃないんだよなあ。
「さあさあ、ココに座って!」
「はい」
指でさされた場所、ピンクのシートの上に正座する。
緊張するなあ。
落ち着け。
西東さんの脚が目の前に来る。ズボンから太ももが伸び、膝の両側のくぼみに目がいき、さらに視線を落とすとふくらはぎから足首までが綺麗な曲線を描いている。長い指の爪には、薄くコーティングのマニキュアが塗られており、脚は全体的に色白だった。
なるほど、これで児嶋さんの言っていた意味が分かった。
僕は変態だ。
公衆の前で女性の脚をじろじろと見る少年をのそれ以外の言い表し方を、僕は知らない。
「では、今からいるか君にいくつか質問をしたいと思います」
「はい。」
「では、頭の中に海を想像してください……」
なぜか最後の方は囁き声で言われた。
僕は目をつぶり、言われた通りに大海原を想像する。
「あなたは浜辺で海を眺めています……」
近い。いきなり耳の近くで喋られたため、びくっとなった。
西東さんの体温や吐息が頬で感じられた。
落着け心臓。
どきどきするんじゃない。
ともかく、今の囁きで僕の妄想が補正された。
浜辺だ。筏ではなく。
浜辺浜辺……。
やどかり、ひとで、くらげ……。僕は自分の従姉の名前を思い出した。
おっと、いけないいけない。
まだ若いとはいえ西東さんは心理学専門。どんなとこで心の内を操作されているのか、知れたものではない。まあ、僕の家族構成までは、流石に把握していないだろうけれど。
「――――――はい、いいですよ。目を開けて」
いきなり太陽の光が目に入り、網膜に朝と同じような感覚がした。
「では、今からこの紙に、あなたの想像した海の色を、正直に答えてください。書いたら、みなさんに見せてください。その間私は目をつむっていますので、事が終わり次第、私がその色を当てます――では」
渡された油性ペンでスケッチブックに大きく『青』と書く。それを観衆全員に見えるよう、少しずつ動かしながら示した。
「――終わりました?」
「はい」
後ろを向いて目を塞いでいた西東さんに訊かれ、僕は答えた。
「では、当てて御覧に入れましょう……るろるろるろるろ……」
ドラムロールの少し種類の違うバージョンだった。
「――でん!ずばり、青ですね!」
「………………あ、はい」
いや普通。
普通に普通。
青以外なんて公害の時くらいしかないだろう。赤潮とか。
みなさん絶句してらっしゃる。
「――えー、はい、次行きます。」
滑ったのに気が付いたのか、西東さんは次に進む。
「砂漠に木が生えていました。さてなんの木?」
僕と見ている人に向かって西東さんは言う。
先ほどと同じような段取りで進め、僕は西東さんに声をかける。ちなみに、紙には『ヤシ』と書いた。
「いいですよ、目を開けて」
「はい……」
西東さんはゆっくりと立ち上がると、得意顔で人差し指を天に突き立てた。
どこからその自信が来るのか全く不思議だ。
今度こそは決めてくれよ……。
「でれでれでれでれ……と、行きたいところなんですけれども――」
西東さんは言葉を切った。
「――いるか君、スケッチブックの最初の頁を開いてください」
「? こう、ですか?」
訳の分からない、いきなりの指示に戸惑いつつも紙をめくる僕。
そこには、僕とは違った丸い感じの筆跡の文字で、『やしの木』と書かれていた。
「…………え」
「ねえねえ、凄いでしょ?」
す、凄い。
「おおお!」
観衆がどっと沸き、大きな拍手が巻き起こった。
「すごいね北南ちゃん!」
「どうやったの⁉」
という声が絶えない。
「いやー種明かしすれば簡単なものですよ」
と、西東さんは超ご機嫌。頬も紅潮している。
「教えてくださいその仕組み!」
「最初の質問の『浜辺』でこの島を連想させて、ここに植樹されたヤシの木につなげたわけです」
「へー」
にしてもすごいな、となお拍手が強まった。
これがサイコロジー、心理学か。
これで伊地知さんの気も少しは晴れるだろう。そう思い彼女の方を見ると、案の定爽やかな笑い顔とともに明るく拍手をしていた。
ふう。
一時はどうなる事かと思ったが、いやよかったよかった。
悠さんも伊地知さんのことを興味深そうに見ていた。五条さんはたったいま目を覚ましたようだ。
一方、西東さんはちやほやされて未だに浮かれていた。
それで調子に乗ったのか、
「西東さんだぞ!」
と、某人気お笑い芸人さんの鉄板ネタのオマージュを披露してしまった。ビジュアル的にはキュートで僕も心臓を射抜かれそうになったがしかし、ここにいるのは女性ばかり。お色気は通用しない。
「………………………いこっか」
みなさん無言で片付けを始める。無言で。
「………………………」
西東さんはそのポーズのまま固まっている。
なんだかその様子が虚しい。
はあ。
何で自分から爆弾を仕掛けちゃうんだろうか。
ウキルタス島は比較的フィリピンに近いので僕は勝手に亜熱帯地域に属するものだと考えていたのだが、ここへ来る前にウィキペディアで調べてみたところ、亜熱帯というのは俗称で、気候区分の分け方によっては温暖湿潤気候をそう呼ぶことがあるらしい。とはいえそんな専門用語なんて一般人が知らなくてもいい様な事だし、僕はそんな麻疹が出るような説明をしたいわけではなく――そもそもそんなものは一部の人間が勝手に決めた、それこそ俗称のようなものなのだから――ただ単に僕は、この島が沖縄っぽいって言いたいだけなのだ。ではなぜこんな××長い説明をしたのかというと、それはなんというか、まあ、未熟児の格好つけと言っていい。
「何さっきからブツブツ独り言言ってんだ?――イッテルのはお前の頭の方か?はっはっは!」
消えろ。
おっと、口が悪いぞ僕――さては部長の影響だな。そう一人で合点して頷く。
説明が前後してしまったが、今の言葉を発したのはもちろん皀だ――皀『さん』だ。
「ちょっとやめなよ葵ちゃん。医療関係の人間の言葉とは思えないよ」
少し叱る様子の西東さん。
「いいんですよ西東さん」
僕が男の余裕を見せると、
「ごめんねいるか君、この人頭悪いから」
「おい!」
皀さんが突っかかり、それを軽くあしらった西東さんは、
「あと『西東』じゃなくて『北南』でいいからね? 悠ちゃんみたいに」
「じゃあ僕もあっ君でいいですよ」
「いいの?」
「やっと認める気になったか……全く、
誤解しているようなので「皀さんはだめですよ」と付け加える。文句を言う皀さん。どうやら部長と似ている人間はそう少なくないらしい。
ここは先ほど西東北南さんが言っていた西の海岸。辺りには椰子の木が斜めに垂れており、夕日の沈む様子が神秘的らしい。
北南さんの芸(?)が終わったのち、僕たちはひと泳ぎして汗をかこうという話になったのだが、所長は悠さんと話がしたいそうで、五条さんもそれに付き添った。ナースやメイドさんたちは本来の職務に戻ったらしく、結局残ったのは僕と北南さんと皀さんの三人だけだった。それぞれ一旦自室で着がえ、それからこの浜辺に戻った。
さて。すでに正午を回っているため太陽はちょうどこの海の真上にあることになる。はっきり言って眩しいが、それもまた醍醐味なのか。
「さあ、日焼け止めも塗ったことだし、海に入ろっか」
ワンピース型の水着を身に着けた北南さんが言った。
「せいぜい溺れ死なないことだな、ははっ」
ビキニの皀さんが言った。
あんたは溺れているというより自惚れている。
とはいえ。
やっぱり見てて悪いものじゃないな。あと、こうして全身を見て改めて思う事だけれど、
色白の北南さん、日焼けした皀さん。年齢も性格も違い、同じなのは性別とその美貌くらいしか見当たらないのに、どうしてこんなに仲が良いのだろう。
んー。
オトコのタイプが同じ、とか?
違うかな。
そこまで細かいことは僕にははかりきれない。ましてや女心なんてもってのほかだ。秋の空なんて言うけれど、僕は宇宙の真理を解き明かす方がよっぽど簡単だと本気で思っている。
嘘だ。
まず宇宙の真理ってなんだ。
そもそも心が読めないなんてのは女性に限らず人間全体に言えることだろう。
「ほーらあっ君、はーやーくぅ」
海の方から皀さんがわざとらしい口調でからかう。
「――ドクター・コロッソ!」
勢いで殺すぞを言いそうになったが、ギリギリで言い留まった。
昔はよくEテレにお世話になったものだ。ドクター・コロッソの意味が分からない方は『超能力ファミリーサンダーマン』で検索。
はい。
「てか、あっ君、水着持ってきてたんだー。泳ぐ気満々だね」
北南さんが問う。
「! ……ええ、まあ念のためです」
「ふ~ん……」
まさか冒険家でもないのに懐中電灯や小型ドリルも持ってきていることは内緒だ。
用心深い性格、と言えば聞こえはいいだろう。
僕はわざとらしく指をぽきぽきと鳴らすと、皀さんたちのいる方へと向かった。
「あ、あったか」
さすが南の島だ。暖流なのだろう。
「やっぱ関東の海とは違うなあ」
独り言を言いながら、さらさらな砂の上を歩いて行く。
底がだいぶ深くなったところで僕は足の裏を浮かせた。外から目視すると、さきほどまで光の揺らめきが見えていたはずの砂地はどこにもなく、ただ海藻が密植しているだけだった。
「おーいあっくーん!ここに面白いものがあるぜー」
「早く来なよー!」
「――っはーい」
彼女たちに言われるままに、軽く水中で足をうごかしながら沖へ進んでいく。
「なんですかー?」
僕が問うと、
「これだよこれ」
と、皀さんが海中を指で示す。何だろうと一瞬思っていると、中から北南さんが上がって来た。
髪についていた海水がきらきらと飛び散る。
「? 何か見つけたんですか」
「これよこれ」
北南さんが海中から取り出したものは――ナマコだった。
しかも大きく、ごつごつした黒いヤツ。
うわぁ。
別に僕はナマコを差別なんてしたくないし、そもそも同じ地球の民である以上仲良く友好的にしたいと思う、そもそも人は見た目で判断するなとは人間界では言わずと知れた言い習わしであり、ならばその用語は他の生物にも適用されても僕はおかしくないと思う、だから僕は見た目とか評判だとかで差別なんてしたくないし、差別自体やりたくもない、というかナマコってのは漢字では海の鼠で海鼠で、何でそれを今言ったのかというと特に意味はなくて、それからナマコは中華では高級食材として有名で、バターなどで和えると美味だそうで、だからその、有難みがあるというかその、ナマコのおかげで頑張れる人もいなくはないのだろうけど、でもいつか食べてみたいとも思わないし、えっと、その、つまり、
どうやったって生理的に苦手。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」
色々可愛げを探してみたものの、やはりキモイものはキライ!
「あとあっ君、下、見てみて?」
「え――」
可愛げに言われたので反射的に見てしまったが、海底には気づかないうちに大勢の『ヤツラ』が!
「ぐあああ……………………―――――――――――――――――――――――――――」
気を失いそうになった。
「おいおい、それでも男かよ」
嘲笑う皀さん。
騙したな!
「これはいわゆる私の心理学的作戦。ナマコを容易に素手で触ることで、ギャップ萌えを狙ったの」
「ひゅーひゅー、北南ちゃん、萌えー!」
何が萌えだ!
燃え尽きるわ!
やはり心理学者というのは本人も心理がおかしいのだな、と納得した。
その後、別の場所に移り、ゴーグルを借りてシュノーケルを楽しんだ。が、僕にはナマコがプチなトラウマになってしまったため、これではせっかくの珊瑚礁や熱帯魚たちも存分には楽しめないと思い、早々に屋敷に戻ってしまった(この道中、僕はサンダルに入り込んだ砂にずいぶん苦しめられた)。
そしてその後、屋敷に戻り、服を着替え、リビングに向かった。
「おやおや、これはこれは。いるか君ではありませんか」
「いやいや、ぐっすり熟睡してしまいましたよ――って少年ではないか」
「あ、どうも」
透き通るような白に艶めく壁、高級感あふれる出窓、豪勢なシャンデリア、大理石の床とペルシャ絨毯――そしてその上に乗せられた長方形の黒いテーブルに、宇田川悠と五条笑がいた。
「早かったわね少年――あの北南ちゃんと葵ちゃんは?」
「まだ泳いでますけど」
「そう」
五つの椅子を連結させた簡易ベッドから起き上がり、背伸びをする五条さん。身長が二メートル以上あるので、椅子を五つ使わなくてはならないのだろうが、はっきり言って行儀が悪い。
「悠さんは所長と何か話したんですか?」
「うん。話に花を咲かせたよ。――それで今は仮眠をとってる」
白いレースの上の、蝋燭立ての横の皿に置いてあるブドウを一粒口に含むと、――半ば皮肉な様子で――どうでも良さそうに悠さんは言った。
「…………」
「…………」
「…………」
なぜか皆が沈黙した。
先ほどの暢気な雰囲気が嘘だったのかのように。
今のこのどろどろとした不快な空気が地獄のように。
…………。
しばらくして、一人が口を開いた。
「あのね少年」
五条さんは言う。
「あの人は、かなり、ヤバイよ」
かなり真剣に。真正面から僕を見て。言う。言った。
「…………」
「…………」
予想だにしなかった言葉に驚きを禁じえず、少しの間戸惑うように沈黙してしまった。
「……え、ちょ、ちょっと待ってください――冗談でしょ?」
「違う」
首を振りながら即座に否定された。
「いるか君、あの人は、自分の慢心のためだけに、嵯峨野君を研究――『監禁』しているんだよ」
悠さんが言った。
「え――そんなまさか……あれは彼女の嵯峨野君への愛じゃないのか⁉」
僕は抑えきれなくなり、つい本音を叫んでしまった。
「違うね――そんなの、話していればすぐにわかることだよ――あれは彼女のエゴでしかない」
窓からこぼれる日の光が、悠さんの眼鏡のレンズに反射する。
五条さんも、目が髪に隠れて、表情がよくわからない。
そんな……まさか。
じゃあ、昼の宴会に嵯峨野蓮が参加できないと知った時の、あの表情は何だったんだ⁉
あの心配そうな表情は、一体何だったんだ⁉
あれも……『違う』――のか?
「慢心、エゴ、自我……もっというと自慰だね。あんなのはオナニーしてひとりで気持ちよくなっているのと大差ないよ」
五条さんはにべもなく言うと、困ったように頭を掻いた。
「失礼します」
「‼」
いきなり別の声がしたのでびくっとなったが、それはメイドの伊地知さんだった。さきほどいきなり泣き出したことを恥じる様子は一ミリも見られなかった。
どうやらたった今部屋に入って来たようだ。変わらずメイド服を着て、お盆を手に持っていた。
「嵯峨野様がいるか様をお待ちのようです」
伊地知さんは無表情に言った。
「‼」
さらに驚き。
まさか彼に会えるとは……。今日の昼の時点でとっくに諦めていたのに。
「……ほら」
口が半開きのまま固まっていた僕の背中を、五条さんが押した。
「直接訊いてみなさいよ、嵯峨野蓮十七歳が、ここにいて本当に幸せか否か」
「…………」
悠さんも頷いていた。
「こちらです」
と、伊地知さんは踵を返し、部屋のドアを開けた。
「何か困った事がありましたら、大声で私を呼んでください」
「…………」
「私は嵯峨野様の部屋の外で待っていますので」
「……はい」
その返事を聞くと、伊地知さんは黙って廊下を歩き始めた。
もちろん僕も、それに続く。
あまり気乗りはしなかったが。
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