公民館の夜
小学校に入学したての佑樹にとって、公民館は探検するのに十分な広さだった。
今日は、お母さんが所属しているコーラスグループの練習についてきた。
公民館へ来る途中に寄ったコンビニで買ったおにぎりとカップラーメンの夕飯は、普段、健康に良くないと遠ざけられている分、佑樹にとってはご馳走だ。
塩辛いカップラーメンを啜り、包装がうまく剥けなくてぼろぼろの海苔を巻いたおにぎりをスープにつけて食べた。佑樹は「なんておいしいんだ」とひとりほっぺたを押さえて感動していた。
しかし、夕飯を食べ終わると、退屈しかなかった。眠りにつこうとも、ママさんコーラスの不協和音が耳障りで目も閉じられやしない。
佑樹は、こっそりと部屋の外に出た。お母さんは大きな口を開けて歌に夢中で、佑樹のことなんか目にも入りはしなかった。
真っ暗な廊下、非常誘導灯の緑色の光がぽつんと照っていた。
佑樹は生唾をゴクンと飲み込んで、廊下に一歩、足を踏み入れた。ひんやりとした廊下の感触を足の裏に感じる。
ドキドキと高鳴る胸を押さえながら、佑樹は探検を開始した。
抜き足差し足で廊下を進み、片っ端からドアノブを回した。しかし、どれも鍵がかかっている。
「つまらないー」
佑樹は、頬を膨らませ、次のドアノブに手をかけると、ガチャリとノブが回った。
ドアを身体で押して中に入る。
20畳ほどある広い部屋だ。明かりがついている。
その部屋は夕方は子供の遊び場として開放されており、ボールや積み木がひとかたまりで隅に寄せてあった。「誰もいない。この広いお部屋は僕のモノ」佑樹はバタバタとおもちゃの山に駆け寄り、ゴムマリを乱暴に蹴った。
弧を描いて飛んだマリは掃きだし窓のカーテンに当たり、地面を二度小さく跳ねた。
佑樹は、すぐさまマリに駆け寄り、今度は思い切り投げた。しかし、手を離すのが遅すぎて、マリはてんてんと床を跳ねた。
佑樹の足をなにかが触れた。振り返ると、さっき、マリを受けたカーテンがひらひらと動いていた。ひらひらといつまでも動くカーテンから佑樹は目が離せなかった。佑樹にはなにがおかしいのかいまいち理解は出来なかったが、マリを受けてから大分経つのにカーテンは揺れ続けているのだから違和感を感じるのも無理はない。
「誰だ」
佑樹は誰かがいてカーテンを揺らしてイタズラしていると思ったのだ。カーテンをむんずと掴み、ぐいっと引いた。
短く切りそろえた前髪が佑樹のおでこをくすぐる。
「なーんだ、開いていたのか」
なんてことはない、少し開いた窓から風が吹き込み、カーテンを揺らしていたのだ。
「まったく、戸締まりはしなきゃだめなんだよな」
やれやれと佑樹は窓を閉めた。
外は真っ暗だ。ガラスに佑樹が写っている。
佑樹は、とっておきの変な顔をした。我ながら、すばらしい変顔だとクスクスと笑った。今度は、かめはめ波を出すかっこいい自分をチェックしたくなって、構えた。
「か~め~は・・・」
ガチャリとドアノブが回る音がして、佑樹は中腰のまま止まった。
ガラスに写ったドアがそっと開き、佑樹のお母さんが半分、顔を出して佑樹を見ていた。
怒られる。佑樹は恐怖で振り返ることも出来ず、背中に広がる汗を感じていた。
「佑樹、ここにいたの」
怒鳴るでもなく、かといって優しくもなく、感情を感じられない声でお母さんは佑樹の名を呼び、半開きのドアから部屋に入ってきた。
「わるいこねー」
お母さんは、転がっているゴムマリを手に取り、てんてんとつきはじめた。
てん、てん、てん
地面とてのひらの間をゴムマリが跳ねている。
佑樹は、あまり怒っていないようだし、振り返ろうとしたのだが、地面に引っ張られるような重みを感じて身体が動かない。鏡に映るお母さんは佑樹のことなど見もしないでマリつきに夢中だ。
「この子はもう落ち着きがないんだから」
てん、てん、てん
「さっき、おにぎりをラーメンに浸していたのも見ていたのよ」
てん てん てん
ゴムマリがあまり跳ねなくなってきた。お母さんはマリに合わせて腰を屈め、マリつきをやめない。
「寝る前はトイレを済ませておきなさいって何度言っているのに・・・」
てん てん
「あの時だって、夜中に起きて・・・」
てん てん でん でん でん
軽い音がどんどん低く硬質なモノに変わっていった。そして、石を床に叩きつけるような音が佑樹の耳をつんざく。
「わたし、久しぶりにお父さんに抱かれていたのよ」
どすん どすん どすん
「女が必死で拝み倒して、抱かれる気持ちなんて佑樹には理解できないわよね」
お母さんは、抑揚ない声で淡々と佑樹を攻める。
謝ろうにも声が出ない。恐怖で目を瞑ろうにも瞼がピクピクと痙攣するだけで閉じることも出来やしない。
既にマリとは呼べない何かを叩きつける音にぐしゃぐしゃと液体が滴るような音が混じる。
「佑樹、佑樹、ねえ、佑樹」
お母さんがマリつきをやめ、ガラス越しに佑樹を見た。佑樹は目を合わせまいと、視線を下に送る。
佑樹は見てしまった。
お母さんが、スイカを抱えるように両手で包んだそれはゴムマリではなく、佑樹の生首だった。
右こめかみ辺りがクレーターのように陥没し圧迫された右目からは、眼球が少し飛び出して、歪んだ口元から、血がポタリポタリと板張りの床に落ち、目地に沿い流れ、それをせき止める様に桃色の脳味噌がぼたりと落ちた。
「・・・お前さえいなければ!」
耳元でお母さんの怒鳴り声がした。
お母さんが、佑樹の生首を床に叩きつける。
「ごめんなさい!」
ふっと、体が軽くなり、佑樹は大声で謝りながら振り返った。
振り返った先には、お母さんも、ましてやぐちゃぐちゃな佑樹の生首もいなかった。そこには、ゴムマリしか無かったのだ。
「ああ・・・ああ」
佑樹は辺りをきょろきょろとしばらく見回し何もいないことを確認すると、その場に座り込んだ。
ふっと気が抜けた。
「だからトイレは済ませとけって言っただろう。」
声の方を振り返ると、ガラスの中の佑樹が満面の笑顔で、ズボンを濡らす佑樹を見下ろしていた。
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