Ⅲ
脚の傷が癒える頃には、わたしと古都はすっかり打ち解けていた。
何か特別なことをするでもなかったけれど、共に時間を過ごし、話をする機会が自然と多くなった。気がつけば今までのグループとは随分距離が開いてしまっていたけれど、却って解放された心地だった。わたしは日々、ただ古都と自分の世界にいた。見慣れた薄い景色みたいにどうでも良かった古都は、どうにか話をしたい古都になった。
放課後になると、古都は決まって部室であのさなぎの絵を描き進める。いつのまにか美術部員として馴染んでしまったわたしはいつもそこに居てその進捗を眺めていた。
古都は執拗に自分の描くさなぎに何枚も薄く複雑な膜を重ねていた。あんなに覆われて、あのさなぎ──あの古都は無事に羽化出来るのだろうか。
一年はあっという間に過ぎ去り、夏に差し掛かろうとしていた。
古都と過ごす日々は幸せであるのと同時に常に恐ろしくもあった。
この関係は──この場所の、この環境の、この年齢でしか成り立たない。
こわれる期限は一年後と明確に決まっている。
どうしてこんなにも難しいのだろう。不変は難しいのだろう。
わたしには足りない。
わたしは、もっと、
「いこ」
放課後のステージバック製作を途中で切り上げて古都はいかにも身軽そうに立ち上がった。今年も美術部は文化祭でステージバックを披露する予定なのだ。古都が立ち上がった途端にわたしの目の前にぬめやかな肌をした脚が現れる。どういうわけか直視出来ず、目を逸らして古都に倣って立ち上がる。貧血のせいか、くらくらと立ち眩む。
わたしには足りない。
わたしは時間が足りない。
膨大な時間を詰め込んでおける場所があるのなら、わたしはもっと、もっと、ギュウギュウに詰め込むのに。そしてわたしの人生分めいっぱい、古都との特になんでもない十七歳の時間で満たしてしまうのに。
そう思ったら不意に涙が出そうになった。
何だろう、これは何だろう。
嬉しいのに、嬉しいだけではないような、幸せなのに、幸せだけではないようなこの感じ。言葉では決して説明出来ないこの感じ。
古都と別れて校舎を出ようとすると、灯、と誰かに声を掛けられた。振り返ると沙奈だった。最近付き合い悪いじゃんと沙奈は粘着質な笑い方をする。
「何、いつの間に美術部員になってんの」
「駄目? 」
「なにその言い方」
面倒だなと思った。古都と近しくなってから、ずっと彼女が不満そうにわたしを睨んでいたのには気が付いていた。知っていて無視をした。
「灯ってレズなの」
私の言い方が癇に障ったのか、沙奈は焚き付けるように言い放つ。一瞬で古都との関係を揶揄しているのだと知れる。
「うける」
「ちがう」
思わずかっとなって言い返したけれど、それがどれ程信憑性のある返答と受け止められるだろう。なんで沙奈にそんな事を干渉されなければならないのだろう。
「灯はさあ──」
何事か続けようとする沙奈を無視して、わたしは躊躇なく踵を返し立ち去った。
帰りのすかすかの電車に揺られていたら、泣けて来た。
──灯ってレズなの。
ちがうのに。
むしろ逆なのに。
わたしは古都と付き合いたいなんて少しも思わない。
ただ、一緒に居て。わたしと一緒にいない時は孤独に寂しく過ごしていて。
だって、あんなものを見せられたら、たまらない。あの古都のさなぎの、剥き出しの内側を見せられてしまったら。
わたしは開いてしまう。古都にだけ、自分の液状を見られてしまう。
女の子は性的な目でわたしを見ないから。わたしをそのままわたしとして見てくれるから。だから手放しでお互いを開放できるのに。
わたしたちはおんなのこ。不安定なおんなのこだ。
だからこそ眩しい。愛しい。儚い。まだ大人ではない、女ではない。飾りっ気なさが受け容れられるぎりぎりのさなぎの年齢。
そうしたら、許して。私たちの不安定と幼さを許して。
涙を拭って目を上げると、視界の隅に青い一片が舞うのが映った。舞っていたのは自転車の私を倒れさせたのと同じ種のいつかの蝶だった。何かのはずみか車内に紛れ入ってしまったらしい。無防備な舞い方をしていた蝶はふいと腕を伸ばして包むと私の手の中に難なく収まった。てのひらに小さな蝶を閉じ込める。美しく
私はふわりと空間を作っていた両の手を静かにぴたりと隙なく合わせた。
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