II

「学校、休むかと思った」

翌朝、昇降口で靴を履き替えていると古都が肩に軽く触れ声を掛けてきた。

「見た目、かなり目立つけど大丈夫なの」

彼女はわたしの脚に巻かれた包帯を凝視する。

「見た目だけ」

擦過傷が広範なのでその全てに包帯を巻かなくてはならず、スカートの裾から見える右脚はほとんど素肌が見えなかった。

「そう」

心配しているんだかいないんだか分からないような単調さで返した彼女は一瞬目を伏せる。肌は白いのに、切り揃えた前髪も、そのすぐ下の眉も、それから睫毛もみんな黒々して濃くて密だ。そのせいで眉と睫毛に挟まれた、まるく膨らんだ瞼がやけに白く映った。

「霜田さん、気付いてなかったと思うけど」

死ぬとこだったよ、自身の頰のような淡白さで古都は付け加えた。

「え? 」

「霜田さんが倒れたとき、すぐ後ろにトラックが走ってたんだよ。本当にきわどいところでトラックが避けてった。あのとき──」

淡々と言いかけて、古都は口を噤んだ。

「死んでたんだ」

「かもしれなかったって話」

おとなしそうな外見に反して、意外とストレートな物言いをする。

「なんであんな転び方したの」

「え、と」

瞬間わたしの頭の中であの青色が舞う。

「蝶、が」

そう、蝶だ。あの青い蝶が目の前に唐突に現れたりしたから。だから咄嗟に避けようとしてしまって。

「蝶? 」

古都は変わらぬトーンで微かに首を傾げた。頓狂な返答をしたわたしを茶化しもしない。いつもつるんでいる子たちの大袈裟な反応とずいぶんと違うので少し調子が狂う。あの子たちは何事も笑い事にして、深く考えないようにすることによって毎日を騙し騙し楽しげに過ごそうとしているのを、わたしは知っている。仕方ないのだ。そういう年頃なのだ。

じゃあ──古都が何事か続けようとした言葉は突然中断された。

あかり! 」

大きく叫んでわたしの腕にしがみついてきたのは、同じグループの沙奈さなだった。首に触れる猫っ毛がこそばゆい。

「どうしたそれ」

沙奈は包帯を見て大笑いする。彼女の相手をしている間にいつのまにか古都はいなくなっていた。


沙奈と一緒に教室に入ると、案の定いつものグループから怪我のことで騒がれて、心配されて、笑われた。わたしもそれを適当に笑いの種にする。女子校のこういう気怠くて緊張感のない空気はそれなりに楽だ。その不文律に従いさえすれば簡単に周りに受け入れられる。普段私にべったりな沙奈だけはなぜだか拗ねたような不機嫌な顔を見せたけれどわたしは上の空で、周りの騒ぎも沙奈の不機嫌もどうでも良かった。

頭の中で古都の言葉がくるくる回る。

──死ぬところだったよ。

──あのとき。

あのとき、何だろう。

あのときわたしが死ぬかと思った? もし死んでいたとしたら、どうしようかと思った? 物騒な物言いをした古都。その飄々とした空気感がわたしの中でずっと焼きついて離れない。その日の間じゅう、今までまったく注目していなかった古都を、絶えず目で追っていた。

見ていて初めて分かったことだが、古都はどこのグループにも属していない。それはちょっとした驚きだった。それがどんなに思春期の少女にとって異質なことかわたしたちは身を以て知っている。かといって浮いているとかいじめられているといった様子ではなく、とっつきにくい孤高さを纏っているわけでもない。誰とでも適度に喋るし、上手くクラスの空気に紛れ込み、昼食時も誰かしらと言葉を交わす。古都の存在感を今まで認識出来なかった要因はこれだったかと得心する。ただフラットに何処にも属さない存在なのだ。

古都はどこまでも自然体で透明で、そしてまっさらに自由に見えた。


放課後、自転車のことを思い出した。昨日は結局転倒の後親に迎えに来てもらって、自転車は古都が学校の駐輪場まで運んでくれたのだ。彼女に訊くと、ああ、と頷いた。停めた場所まで案内してくれるという。

「カゴがね、ちょっと歪んじゃってた。たぶん前輪も。乗り続けるのは危ないと思う。電車で来たんでしょ。帰りもそうすれば? 」

停めたわたしの自転車を前に、古都はカゴを触ったり前輪を浮かし回したりして単調な声で説明する。

「そうする」

古都はそうしなね、と言った後朝のようにあっさり去ろうとした。

「どこ行くの? 」

思わず声を掛けたのはどうしてだったか。今日一日の古都の振る舞いの不思議さを観察していたせいか。古都は背中越しに振り返って控えめに眉を上げた。

「来る? 」

質問の答えになっていない、と思いながらも言われるがままにつられて頷いてしまっていた。強引さはかけらも無いのに、何故だか気がつくとふわふわと古都に素直に従ってしまう。

着いたのは今まで行ったことのない、薄暗い教室だった。

「部室」

美術部、必要最低限な単語だけを発するのが古都らしい。私たちのほか誰もいない室内をてきぱきと動いて何やら絵を描くための準備を整える。古都が運んできたキャンバスはやけに大きかった。

「文化祭が済んで、共同のステージバックが終わったからやっと個人の絵を進められるんだ。だから進捗は遅いよ」

無造作にイーゼルに立て掛けられたそれは、油彩のようだった。なにやら薄い膜のようなものが幾重にも重ねられていて、中心にいくほど混沌としている。

最初、それが何なのか分からなかった。

それをどういうものとして位置付ければいいのかも分からなかった。

けれど、どうしてこんなにも衝撃を覚えたのだろう。古都の絵は、他の人の絵とどこが違うのだろう。

「──美大とか、目指してんの? 」

「え? 」

古都は綺麗なソプラノでからからと笑った。

「なんで。目指してないよ」

「こんなにすごい絵を描くのに? 」

「すごくないって。すごいなんて言われたこと、一度もないよ」

嘘でしょう、と思わず漏れて、それを聞いた古都は再び可笑しそうに笑った。

わたしは人知れず戦慄を感じていた。古都はなんでもないような扱いをするけれど、私の内面は震えるようだった。こんな風に感じたこと、今までにない。こんなにも途方にくれて、私の内容物全てをぐるぐる混ぜられて思わずうずくまるような。それでも何度でも見たくなるような。

これを目の前にいる同い年の少女が描いたのだ。

「さなぎ」

これさなぎだよ、古都は前後逆に椅子に腰掛けて、背もたれに肘を乗せる。

「何の」

「わたし? 」

語尾が何故か疑問形だ。

思春期はさなぎみたいだなって思ってさ、描いてみたのと古都は肘の上に顔をうずめた。

「大人になる一歩手前ってこと? 」

「そうだけど、表現したいことはもっとちがくて」

霜田さんはさ、蝶はどうやってさなぎから成虫になるか知ってる、との唐突な問いにわたしは言葉に詰まってしまった。

わたし、反抗期なの、反発してんの、と古都は構わず続ける。

「めんどくさい奴なの」

何を言ってるんだろうと思う。どうして古都は突然こんな話を始めるのだろう。

「思春期はこれからの人生の土台を作る時期とか言われるけど、わたしはそんな綺麗事信じない。本当は思春期は、何もかも打ち壊す破壊の時期なんだ」

「破壊? 」

破壊だよ、と珍しく攻撃性のある顔でこちらを見る。

「蝶の完全変態はさ、さなぎの時ぐちゃぐちゃのどろどろになって、もうなんの形もない液体になって、そのくせ何事もなかった涼しい顔で、完成された綺麗な成虫になって出てくるんだよ」

そのさなぎみたいに、わたし達は今の時期一旦すっかり破壊されるのと平気で言う。

「だから本当のわたしは今どろどろのぐちゃぐちゃ。──みたいな事かな、表現したいのは」

──霜田さん、死ぬところだったよ。

わたしはなんとなく今朝の古都が言わんとしていた意味を悟り、阿呆のようにしばらくぽかんと古都とその背後にある得体の知れない絵を眺めた。

「馬鹿みたい」

そう誤魔化したら、古都も笑った。

なんなの。なんなの。

泣きたいのとも違う。ため息が出るのとも違う。

ただそこにある訳のわからない何かに強引に引っ張られて、何かを耐えるような、噛みしめるような。痛みのような。

そんなものがそこにある。

古都の中にある。

彼女の、飄々としているように見えて本当は何かとてつもない熱を秘めているさまが垣間見えた気がして、見えたらもうどうしようもなかった。


どうしようもなくなった。

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