もしも「高齢者の運転免許更新を劇的に厳格化する法案」が提出されたら

「正気か?」

 胃の底を抉るような太田孝蔵の一声で、その話は終わりになるはずだった。

「正気です」

 水島健太のオウム返しに、会議室はしんと静まり返った。

 誰かがぽつり、

「またあいつか」

 とつぶやいた。

 人脈と財力と胆力、あらゆるものを皮膚の下に詰め込んだ巨漢の太田と、枕で票を稼いでいるとの噂が絶えない細身の水島による、激しいにらみ合いはおよそ三秒間ほども続いた。屏風絵にでもしたらさぞ映えただろう。

 水島は太田から視線を切り、一同に向かって、

「二〇〇〇年頃から交通事故全体の発生件数は減り続けている一方で、高齢ドライバーによる事故の比率は年々……」

 と、法案の説明を続けた。

 そこへ、

「おい……おい!」

 太田の声が割って入る。一度目は控えめに、二度目は刺すように。

「勇気だけは評価する。だが却下だ。席へ戻れ」

「理由を説明してください」

 ばん!

 太田が分厚い掌で机を叩く。

 しかし水島は怯むどころか、ますます闘志を漲らせる。

「高齢者の免許を剥奪するわけではありません。本当に運転をする技能があるのか、今より精密に、頻繁に調べるべきではないかと申し上げているんです」

「噛み合わんな。こちらは席へ戻れと言っているんだ。席があるうちに」

「却下の説明していただけるまで僕はここを動きません。歩行者は交通ルールを守って青信号を渡っていたのに時速百キロ以上の車が突っ込んできたんですよ? 事故後にドライバーを裁いても遅いんです」

 頬を紅潮させる水島を見て、俺にもあんな頃があったな――と、この時室内の数名、あるいは大半が思っていた。

 太田が少し、声のトーンを落とす。

「お前の言う通りにすれば大勢の高齢者が免許を失う。一万や二万では済まないだろう」

「安全に運転をする能力がないのですから仕方ありません」

「生活が不便になる」

「人の命より利便性が大切だとおっしゃるんですか?」

「じゃあ水島、今すぐ自分のスマホを叩き割って窓から投げ捨てろ」

「関係ないでしょう、そんなことは」

「それぐらい不便になるということだ。ある日突然。しかも自分はまだ安全に運転する能力があると思っている。到底受け入れられない」

「では高齢ドライバーが人を轢くのは仕方ないとおっしゃるんですか?」

「そうだ」

 水島が目を見開く。

「本気ですか太田先生?」

「交通事故は毎日起きている。高齢化が進んでいるんだから高齢ドライバーによる事故が増えるのも当たり前だ」

「当たり前だと看過できるんですか? 対策が必要です」

「どうしても事故をなくしたいなら車そのものを廃止する法案でも出したまえ」

「そんな無茶苦茶な……!」

 水島が過熱していくのに対し、太田は逆に威圧感を潜めていく。今や優しげですらある。

「役者が違うな」

 誰がつぶやいた。

「事故は起きる。異論はあるか?」

「いいえ。事故は起こります」

「では、我々は誰を守るかという話だ」

「歩行者です」

「違うな」

「違う?」

「いいか。我々が守るべきは高齢者だ」

「……おっしゃる意味がよくわかりません。福祉と交通は分けて議論すべきでは?」

「なあ水島君、この国で投票に行っているのは誰だ?」

「有権者、でしょう、それは」

「浅いな。質問の本質を見極めろ。この国で投票を行っているのは高齢者だ。五十代以上が過半数を占めている。我々が与党たりえているのは高齢者に支持されているからだ」

「……」

「SNSで騒ぐ若造どもやマスコミではなく、我々は我々に票を投じてくれた人々に報いなければならない。よって、高齢者が暮らしにくくなる法案など出せない。わかったか?」

「それが、立法の役割ですか?」

「そうだ」

「全ての国民が住みやすい世の中を作ることではないんですか? 路上では年齢に関係なく歩行者が弱者です。高齢者を加害者にさせないためにも――」

「いい加減にしろ水島。そういうのは野党の仕事だ」

「国民の命を守るのに与党も野党もないはずです!」

「なあ水島君」

 と、温厚で通っている中井総一郎が割って入った。

「仮にその法案が通ったら、僕もテストを受けさせられるわけだが――」

 どっ、と笑いが起こる。誰もが内心思っていたことだ。この部屋の半数は齢六十五を超えている。

「おっしゃる通りです」

「まぁ僕らは滅多に自分でハンドルを握ることはないからいいんだけどね。田舎は無理だよ。わかってるだろ。田舎では車がないと生きられない」

「確かに、その課題はあります。しかし――」

「車がなくても困らない社会を作ることが先じゃないかな? 不便じゃなくなれば自主返納も進むよ」

 そうだ! と誰かが合いの手を入れる。軽い拍手が起こる。

 が、水島はなおも食い下がる。

「自主返納を促す制度づくりは現に行われています。しかしそれだけでは不十分だから提案しているのです。制度が整うまでに一体何人の犠牲者が……」

「君は今、いくつだっけ」

「四十八になります」

「若いねえ。ご両親は?」

「おかげ様で、健勝であります」

「君のご両親は返納したの?」

「……いえ、まだ」

 瞬間、会議室は爆笑の渦に包まれた。尖った枝や石などを含み、中心にいる者をなますにするような渦であった。

 笑いの波が去るのを待ち、中井が柔らかく言う。

「まずご両親に返納させなよ。話はそれからだ」

「うちの親と、法案に何の関係があるんですか」

「返納の話はしたことあるの?」

「ありませんが、しかし」

「そういうことだよ。老人の運転は怖いとみんな思ってる。でも自分の親に免許を捨てろとはなかなか言えないんだ」

「……」

「ご両親と話をしてから出直しておいで。あるいは、党を移ったほうがいいかもしれないね。真面目な話、そのほうが君のためになると思う。今度相談に乗るよ」

 太田が苦笑しながら、

「優しいなあ中井さんは」

 と言った。

 水島は手元の資料に目を落とし、肩を震わせ、遺族たちの表情を思い浮かべていた。


(了)

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