冥刀:Lord of Ink Road

 瞬く間に形勢はミュウの守勢へと傾いた。


 右からの切り上げ、左からの切り上げ、踏み込んで袈裟斬り——キノコエスケピの斬撃が容赦なくミュウを襲う。


 確かに、メイドリングは冥界の歪みからの悪しき干渉を退ける。しかし、胞子の凝集を解いて吹き飛ばすことは出来るが、爪や刃のような物理攻撃は別だ。それらは現世でも有り得る事象だから、メイドリングが防げるものにカウントされない。


 脛を狙った斬撃からの頭部を狙った横薙ぎ――かがんだ頭上を刀が通り過ぎる。その感覚を猫耳より感じた瞬間、ミュウの背中から嫌な汗が。


 反撃に転じたい。けど、今一つ踏み込めぬ。メイドリングから脳内に送り込まれるステップワークを使えば、刀の動きに合わせて打撃を与えるのは多分不可能じゃない。だけど、その後がダメ。どう考えても、反撃で斬られる構図しか見えない。


 そうこう考えていたら、背中は壁。それに気付いた時には、キノコエスケピの蹴りによりミュウは転倒された。ミュウの視線の先には、切っ先をこちらに向けたキノコエスケピが。


(やばっ!)


 身を転がして回避。途中、何か柔らかいものを突き刺したような嫌な音がした。その方向を見てすぐに理解した。菌糸に覆われていた犠牲者のひとりに、キノコエスケピの刀が深々と刺さったからだ。


 キノコエスケピが刀を引き抜くも、その傷口からは血は出てこなかった。生前の人物がどんな者であったかはミュウは知らない。ただ、そんな人物が単なる菌糸の苗床にされてしまった事実は、ミュウにとって気分の良いものではない。


「ちょこまかと……。いい加減に、くたばれ!」


 立ち上がるミュウの目の前で、キノコエスケピに新たな動き。


 手前で大きく円を描く動作に合わせて、周囲の胞子が刀へと収束していく。ビスやパイプなどの備品やら壁のトタンやら巻き込み、切っ先が天を向いた時には、キノコエスケピの刀は身の丈をも超える胞子の刃へと巨大化していた。


「な、なにそれ……!」


 ミュウがリアクション出来たのは、かろうじてそれだけ。


 ぬぅん、という掛け声——ただ振り下ろすのではなく、自重と遠心力も乗っかった薙ぎ払い。


 胞子はメイドリングで防げるが、共に凝集された金属片の奔流は防げない。


 凄まじい一太刀だった。


 ミュウはかろうじて避けられたが、は無事では済まされなかった。


 中央にあった犠牲者と菌糸の巨塊は真っ二つになった。切り口から胞子とも体組織の欠片とも分からぬ無数の粒子が切り粉の如く吹き出し、根本じゃない方が床に無残に落下した。


 そして、壁。ミュウは始め、なんともないと思っていた。周囲を見てすぐに分かった。壁の景色が微妙にいる。壁や床に付着していた犠牲者ごと、キノコエスケピはまとめて真っ二つにしたのだ。


 ミュウの直感から導き出される結論はひとつ――この建物は、もたない。


 ミュウの視線が上下する。キノコエスケピの刀を見た後、メイドリングがあるだろう首元へと視線を落とす。


(まずい。とにかくあの刀を何とか出来るの、メイドリングにないかな? ご主人様って昔から壊素怪火をなんとかしてきた人なんでしょ? そういうのなきゃおかしいよね……?)


 メイドリングを発動。使えそうなものはどれだ? パッと目の前に映ったのは――。


 甲高い音。


 衝撃。


 矢櫃やびつ工業の倉庫の壁の一部が、内側から爆ぜる。


 舞い散る粉塵から何かが飛び出した――ミュウだ。

 

 敷地の外まで背中から飛ばされるも、ミュウは地上に着地する。ずざざ……と、勢い余ってアスファルトに轍が残る。


 ミュウは荒ぶる呼吸を整えていた。危なかった。もし手にしている『これ』が無かったら、壊素怪火からの斬撃を真正面から食らって真っ二つになっていただろう。


 改めて『これ』を見る。


 日本刀だった。


 柄の組紐は滅却の相である炎のような淡い緋色で、白い鮫皮との対比が映える。白金色の目貫は、やたら巨大な犬歯を有した猫科の動物のようで、菱に巻かれた組紐の隙間から今まさにこちらへ狙いを定めている。


 鍔は炎にもデフォルメされた猫の頭部にも見え、赤くメッキされた縁や装飾部の光沢が美しい。同じようなデザインの金具が、縁や鍔の裏、柄頭にも施されている。


 最も目を引くのが、全体の三分の二を占める刀身。地上での操作に適した先反りの形状で、身幅が広く切っ先に至るまで身が詰まっているかのよう。峰側は一本の棒樋が通り、乱れた刃文と帽子の模様は燃え盛る火炎を彷彿とさせる。


 そして何より、真っ黒! 焼き入れの模様を除いて切っ先まで全てが真っ黒! 炭を付着させたとかいうレベルじゃない。断面まで黒いのでは、と思えるくらい真っ黒なのだ。


 ミュウは、この刀の名を


 刀の茎だけではなくメイドリングにも刻まれている。


 この刀の名は、冥刀、スミ首領ドン


(いや、なんだその名前!? すみろどん? どこかで聞いたことあるけど、なんかのダジャレ!?)


 次の瞬間、工場の方から再び爆音。キノコエスケピが飛び出し、ミュウの手前に着地した。壊素怪火の背後で、半壊した工場から胞子が流出しているのが見える。


(なんかヤバそう。これ、放ってたら絶対に良くないよね? 早く何とかしなきゃ。……あれ?)


 ここでミュウは、自分の構え方に気付いた。肘を曲げ、柄を顔の近くに寄せ、切っ先が天を向く構え方は、八相と呼ばれる。しかし、ミュウはこの構えを知らない。剣道こそ体育で習ったけど、こんな構えなんて教わってない。


 まただ……。知らず知らずにやっていた。あたかも、何年も何十年も前から、そんな構えてやって来たかのように。だから、ミュウは分かる。この後どのように身体を動かすべきなのかも。


 先手必勝。踏み込んでの袈裟、横薙ぎ、一回転してからの袈裟、突き、再び袈裟斬り。


 空を切る音、刃と刃がぶつかり合う音、工場裏の路地で、ミュウとキノコエスケピの剣戟が繰り広げられる。


 両者一歩も譲らぬ斬り合いの最中——キノコエスケピの前蹴りがミュウの腹部に当たった。後方へ吹っ飛ばされるミュウ。その僅かな隙の合間に、キノコエスケピの頭部より舞い散る胞子が、路上に散らばる僅かな砂礫をかき集めて刀へと収斂する。


 横薙ぎ。塀だろうが家屋だろうが軌道上に存在するモノを尽く断つ斬撃。ミュウは刃を立ててガードするも、体勢を大きく崩された。メイドリングは胞子の凝集を解きこそすれ、鞭のように叩きつけてくる砂礫は防げない。痛みに顔をしかめるミュウの目の前で、キノコエスケピが切っ先をこちらに向ける。


 刺突。もはや閃光。刀身を横に向けた平突きが、構えの崩れたミュウ目掛けて襲い掛かった。


 甲高い音がした。咄嗟に刀を操作したおかげで突きの軌道が微妙にずれ、間一髪のところでミュウは直撃を免れた。通り過ぎたキノコエスケピの背中が見えた。続いて、足元が焦げているのが見えて、次に自分のメイド服の一部が切れているのが見えた。湧き立つのは恐怖——というより別の感情。


(やったな……っ!)


 ミュウは駆ける。ジャンプして塀を走り、そこから跳躍——振り向いたキノコエスケピが気付いた時には、ミュウは渾身の力で刀を振り下ろしていた。


 くぐもった声がキノコエスケピから漏れた。間髪容れず、ミュウは更に斬撃を繰り出す。いくら甲冑のように硬化したキノコに覆われている壊素怪火とて、袈裟に逆袈裟に斬撃を食らえばひとたまりもない。しめの胴――墨路首領の黒い軌跡が一枚の帯の如く壊素怪火の腹部を通り抜けた時、キノコエスケピは初めてその場に膝を付いた。


 忘れちゃいけない。メイドリングより『冥歪滅却の法』を起動。滅却の相である猫耳と尻尾付きの火の玉がミュウの隣に生成された。やり方は分かってる。これを墨路首領の――


「おのれ……! 奴を押さえつけろ!」


「え? はっ? なんで!?」


 キノコエスケピが何か叫んだと思いきや、路地や家屋の陰から飛び出した何かが一斉にミュウの身体を掴んだのだ。嫌なオブジェクトの類だったらすぐさま墨路首領で払い除けたい所だったが、ミュウはするのを躊躇った。なぜなら、


 ミュウの動きを押さえつけていたのはだった。老人が上半身を腕ごと押さえ、反対側を浮浪者が押さえ、別の男と老婆が足元を掴んでいた。いきなり現れた住民達の突然の挙動に驚くミュウだったが、生気を感じられない彼らの目を見て何が起きたのか理解した。


(もしかして、あの壊素怪火の胞子に操られてる!?)


 押さえつける膂力は強く、武装メイドで強化されたミュウですら振りほどけない。しかし、ミュウの仮説が正しくて、胞子が壊素怪火由来のものであるなら、如何に対処すべきかは推察できる。


 というか、なんとかしないと、今まさに目の前でキノコエスケピが胞子による巨大な刃を再び生成しているではないか! 胞子と砂礫を凝集した巨大な刃が、袈裟の軌道で身動きの取れぬミュウ目掛け、操られた住人ごと――


 ……硬いアスファルトに、刀による一筋が深々と刻まれている。


 ミュウは尻もちをついていた。


 そして、住民達は皆、その場にいなかった。


 目論見は大当たりだった。


 キノコエスケピが刃を振り上げる最中、ミュウは滅却の相たる炎を操られた住民の周囲に高速で這わせていたのだ。滅却の相は住民達の意識を奪う胞子だけを焼き払った。正気に戻った住民達は、キノコエスケピの禍々しい姿を目の当たりにするや否や、怯えてどこかへ走り去ってしまった。


 立ち上がるミュウは、怒りに眼を見開いていた。怯え逃げ惑う住民達の後ろ姿に、工場にいた成れの果てと殺された自分の家族達の姿が重なったからだ。


「町の人まで勝手に駒にするとかナシにもほどがあるでしょ!」


 叫ぶや否や、刀を振り上げて疾駆——黒い帯の如き軌跡を画いて、墨路首領の刃がキノコエスケピの傘状の頭部へと振り下ろされる。


 刹那、どぱぁん! と、爆ぜる音がした。


 キノコエスケピの頭部から、おびただしい量の胞子が噴き出したからだ。


 顔面からまともに浴び、ミュウは後方へとたたらを踏んだ。これだけの胞子を食らえば、メイドリングの加護があるとて平然といられるわけがない。視界を奪われ、ミュウは激しくむせ返った。


「優先順位を変える。おめえは後回しだ。俺のやるべきことを先にする……!」


 即座に滅却の相がミュウの周囲を高速で回る。飛び散る胞子を焼き尽くし、ミュウの視界と呼吸器官を回復させていく。


 最後の胞子を口から吐き出し、やっと前を向いたミュウだったが、ここでやっと先ほどキノコエスケピが呟いていた言葉の意味を理解する。


 キノコエスケピが――いない!


「……嘘でしょ!? あいつ、どこ行ったんだ!」

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