間章

日常:It's been a Hard Day's

 採用試験に合格し、メイドとしての毎日が始まった。


 館内の清掃や庭園の手入れが主な仕事だったが、『家』でも同じような仕事をしていたので、慣れない作業ではない。ただ、面積が広すぎて、作業に骨が折れるのが玉に傷。


 一応、ミュウは部屋を一つだけ借りてもらっている。彼女が目覚めた例の部屋だ。学業にも支障がない程度に色々あったのだが、何故か自分の通う高校の制服や教科書の一式まで揃っていた。


 仕事で分からない事は、とりあえず先輩である狗美にいろいろ聞くようにしている。いつの間にか「ミュウ様」から「ミュウさん」に呼び方が変わっていたが、別に気にする所ではない。いかなる疑問にも親身になって教えてくれる先輩で、事あるごとにミュウを助けてくれた。


 では、何が大変なのか。


 この日、ミュウはガレージで洗車することになっていた。


 ガレージは地下一階にあるのだが、ミュウの住んでた『家』くらい広い。コンクリートの壁と高級そうな石材の床が織り成す、無機質ながらも華やかな内装の室内に、主の保有する車が小さなモーターショーの会場よろしく並んで停車している。


 ただ、停まっている車がどれも――大きい。初見のSUVも氷山の一角でしかなかった。国産の高級SUV、軍用車を民営化させた外国製SUV、メイドがお抱え運転手を担う車をそのままSUV化させたような高級車、SUVレベルにまで巨大化したスーパーカー、荷台の形状からして明らかに他と異なるピックアップトラック……。


 一応、ミュウがイメージしてたような高級車もあった。巨大な車達に半ば追いやられる形で隅っこに停められていたが。


 洗車の仕方は、メイドリングに内蔵された手順書のおかげで分かっている。水がかからないよう、メイドリングにプログラミングされた命令の通りに一台ずつSUVを所定の場所へ自動運転させ、特定の掃除道具を使って一台一台綺麗に洗浄するのだ。


 メイドリングを使えば道具は用意できる。メイド服に瞬時に着替えられるように、滅却の相を召喚できるように、必要な掃除道具一式を自分の足元に取り寄せられるのだ。なぜそんな魔法のような挙動が出来るのかミュウは気になったが、開発者からは「お前の頭では理解出来んから教えん」の失礼な一点張りで突っぱねられた。


 自動操縦でSUVを外に出し、掃除する。……世の金持ちというのは、どうして靴を履き替えるが如く、高価な車両を何台も所持できるのだろうか。あまつさえ、一台毎に洗剤やコーティング剤だけではなく、使用すべきブラシ、その他点検項目に至るまで色々と違う。素人目にはどれも一緒にしか見えず、そこまでこだわる意味がミュウには理解できない。主に仕えるメイドとして、そういう考えじゃダメなのは分かっているのだけど。


 洗剤で汚れを流す工程は終わり、布巾でコーティング剤を塗り込む工程に入る。


 背の高い所を拭くため、腕を高く伸ばした次の瞬間だった。


「ひゃっ!?」


 素っ頓狂な悲鳴がミュウの口から飛び出した。突然、筆舌に尽くし難い奇異な感覚が彼女を襲ったからだ。胸辺りから。


「お前、狗美よりは小さいが、ボリュームはあるんだな」


「ご……ご主人……様……」


 唐突。背後から聞こえる声の主は間違いなく司山ヨシヒサ。しかし、巌のように落ち着き払った声とは裏腹に、その手はある種の軟体動物のようにうごめいていた。胸辺りで。


「うむ、ボリュームもさることながら、弾力も張りも申し分ない。それに……嫌がっている割には感度も良い。十代の身体も良いものだな」


 その感覚は、おのが神経の尽くを狂わす電流のようで、沸々とミュウの怒りの感情を増幅させるダイナモのようで、それでいて、百パーセント不快感だと主張する事も出来ぬものでもあって……。


「や、めて、ください……っ! やめてくださいって……っ!」


 道具なんて持ってられなくて、ミュウは抵抗する。とりあえず、この忌々しい手を下ろさせなければ。


「おい、お前は仕事中だろ? さっさと作業にかかれ」


 さわさわ。ゆさゆさ。ぐにぐに……。


「出来るわけ、ないじゃないですか! あっ! やめてくださいって!」


 先端をきゅーっ。


「ひぃやぁっっ!」


 思わず身体が仰け反った。


 頓狂な声を出してしまったミュウの耳元に、司山ヨシヒサがそっと口を近づける。


「お前、自分の立場を分かっていないようだな」


「た、立場って……、ご主人様こそ何をするんですか! 女の子の胸を触るなんて最低じゃないですかっ! まして、も、揉むなんてっ!!」


 顔を真っ赤にして口を尖らせるミュウ。一方、司山ヨシヒサは淡々としていた。


「お前、少しは自分の立ち位置ってもんを考えてみろ。お前は僕の何だ? 言わずとも解るだろう。お前は僕の専属メイドだ。給仕だ。腰元だ。奴隷だ。玩具だ。傀儡だ。つまり、僕はお前の事など、どのようにでも出来る。この件は、まだ最初だったから水に流してやろう。だが、次やったらどうなるか分かるな?」


 胸を弄られて真っ赤に染まっていたミュウの顔が、次第に青く染まってきた。要するに――。


「お前には住む当てはどこにもなく、僕の庇護が無ければ途端に飢え死にするだけの立場なのを忘れるな。その気になれば、僕はいつでもお前を手放せる。お前は僕の気まぐれの上に生かされているということを自覚しろ」


 それでもなお蠢く手。もう羞恥とか恐怖とかよくわからない感情がごちゃ混ぜになって、ミュウの頭が上手く働かない。


「分かったらさっさと仕事を続けろ。まだ洗っていない車は残っているのだからな」


 どれくらい経っただろうか。気が付いた時には司山ヨシヒサはいなくなっていた。満足したのかどうかは分からないが、ミュウにはそんなのどうでもよかった。ただ、乾いた布巾を握りしめることしか出来なかった。


  ★★★


 時が経ち、冷静さを取り戻してくると、乾いたスポンジが水を吸い込むが如く、だんだんイライラとした感情が募ってきた。


「全く! ご主人様は本当に最低なんだから!! せっかく顔が良いっていうのに、あんな性格じゃ台なしだって! どうにかなんないのかなあ、あのエロい性格」


 その夜、ぷんすか頭から蒸気をまき散らして、ミュウは大声でぼやいていた。自分の来ているエプロンを脱ぎ、軽く畳んでカゴの中に入れる。


 ミュウは今、館内にある大浴場(もちろん、男湯と女湯に分かれている)の脱衣所にいた。


「こら、ミュウさん。たとえ近くにおられないからとて、ご主人様の悪口を申すのはいけませんよ」


 ミュウを窘めながら、狗美が脱衣所に入って来た。


「そんな! 事実じゃないですか!? 間違ったことじゃないです。人の仕事中に胸とか触ってくるんです! もう、何度も何度も!」


 ミュウは噛み付くように答える。狗美も女性だ。間違いなく司山ヨシヒサの被害に長らく遭っているはずだし、嫌がらないわけが無い。が……


「それは大変よかったではありませんか。ご主人様に何度も身体を触られるという事は、それだけかなり気に入られているということではありませんか?」


 呆れたように首を振りながら彼女の口から出た言葉は、ミュウの期待するものとは大いに反していた。


 拍子抜けして何も言えないミュウを尻目に、狗美はてきぱきと自分の衣服を脱いでいく。エプロンを外してカゴの中に入れ、ワンピースを脱いで、靴下や下着も脱いでいき……。


「い、いやでもですよ? お尻とか胸とか触られるんですよ? 普通に、普通に考えて、そこ触られるのは嫌じゃないですか!」


 左右の拳をぐっと握り締めたまま、ミュウは反論する。信じられなかったのだ。女性である狗美が、そんなことを言うなんて。


 一方の狗美は、そんな声などどこ吹く風。同性ですら尻込みさせてしまうほどの煽情的な裸体をさらけ出しながら、とんでもない事を言い放った。


「ご主人様のスキンシップが喜べないとは、まだまだ未熟者のメイドでございますね」


 ショックとはまさにこの事を言うのだ。


 未熟者と書かれた分銅が脳天を直撃したような衝撃と、狗美に理解して貰えないという失望感のダブルパンチに、ミュウはいよいよ目眩をもよおしてきた。


 狗美は風呂場へと入っていく。手ぬぐいのタオルを準備したまま、その麗しき裸体を隠そうともせず。


「あ、待ってください!」


 ミュウもすぐさま自分の服を脱ぎ、狗美の後についていく。


 浴室の中へと入る。むあっとする湯気の感覚が、ミュウの身体を包み込んだ。


 大浴場と呼ばれているだけあって広い。床や壁は清潔感溢れる白で統一されており、何かの動物を思わせる彫刻からは、泉のようにお湯が湧き出ていた。


 温水プールのように広い浴槽の前にしてミュウは飛び込みたくなってしまったが、我慢。それ以上に、彼女にはやらなければいけないことがあるからだ。


(えっと、狗美さんは……)


 いた。浴室の隅で身体を洗っているではないか。真珠のような柔肌で泡を纏ったかと思いきや、それをシャワーで豪快に洗い流している真っ最中だった。


 ミュウは早速その隣に座る事にする。やはり、あの狗美の反応が信じられなかった。何かの間違いとしか考えられない。


「狗美さん。常識的に考えておかしくありませんか? 胸とかお尻とか触られることのどこがいいんですか。セクハラとして訴えてもいいと思うんですよ」


 だがしかし、狗美から出たのは嘆息。そして、爆弾発言。


「常識的におかしいのは貴女ですよ、ミュウさん。胸とかお尻とか触られるなんて、とても気持ちいいではありませんか」


「え、えぇ……!?」


 ミュウはそれしか言えなかった。そんな彼女をよそに狗美は話を続ける。西瓜を思わせる大きな乳房を、細い腕を交差させて隠しながら。


「今日、私も胸を触られたのであります。庭の掃除中に声を掛けられたので応答したら、喋りながら私の胸を触ってくれたのです。上から揺らしたり、大きく揉みしだいたり……嗚呼、あの時の感触、今思い出すだけでも……」


 頬を朱に染め口元を緩め、何かに陶酔したかのようにうっとりと。嗚呼、この人、その時の感覚をまた反芻して楽しんでいる!


 ついに両手を頬に当て、「嗚呼、ご主人様、もっと」と呟く始末。ミュウはたまらず叫んだ。


「狗美さんの裏切り者っ! 同じ女の人なら、分かってくれると信じてたのにっ!!」


 力一杯叫んでいた。一番理解してもらえると思っていただけに、残念な気持ちでいっぱいだった。


 だが、そんなミュウに、狗美は眉間に皺を寄せて語気を荒げた。


「裏切り者とは何ですか! メイドたるもの、ご主人様からのスキンシップは喜んで享受するものです。それがなんですか貴女は。そこ触るなんてありえないだの、信じられないだの、と! メイドとして非常にあるまじき態度であります。改めなさい」


 完全な叱咤。胸の二房が、彼女の威圧感を高める。


 言っている事は分かるが、納得など出来るわけがない。結局、ミュウは素直に「はい」とは言えず、「そんな……」としか返事が出来なかった。


 やがて、広い湯舟に浸かりながら、ミュウはその場で体育座り。


 まさか狗美があんな人間だったとは。せめて愚痴り合えるのだけでもよかったのに。そう考えると、風呂場であるはずなのに、溜め息が出てしまう。


 狗美は今、ミュウとはちょっと離れた位置で、リラックスした状態で浴槽の縁に寄り掛かっている。細身の身体に似合わぬ豊満な胸を堂々とさらけ出し、なんとも気持ち良さそう。


「狗美さん。あたしはずっと、我慢し続けなくちゃいけないんですか……?」


 意気消沈した声色で、ミュウは狗美に問う。狗美は顔だけをこちらに向け、いつも通りの冷静な様子で答える。


「当然です。というか、我慢という言葉は今後控えるべきです。心配なさらずとも、じきに気持ちよくなっていきますよ」


 そう微笑む狗美の姿に、ミュウはガックリとうなだれる。そんな事は絶対に有り得ないだろうと。


 主のセクハラもさることながら、その一番の悩みを先輩に共感してもらえないことがこんなにも辛いとは。過酷な現実に、ミュウは打ちひしがれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る