邂逅:Girl Meets Master
「いやあああああああああああああああああああああああ!」
安仁屋ミュウは飛び起きた。
手汗の量が尋常ではない。
背中を伝う汗の感触が、怪物に刺された瞬間を思い起こす。
酷い夢だった。
悪夢にしては、実感がありすぎた。
そして、ここはどこだ?
普段なら、気が置けない間柄の同居人が一緒にいて、扉の向こうからは年下の子達の騒がしい声が聞こえていて、やりかけの宿題が卓の上に散らばり、自分の机の上にも将来のための雑多な勉強道具が置かれていて……。
けれでも、ここには何も無かった。高価そうな材木で作られた棚と、机のような何か。足元にある絨毯も『家』にあった黒ずんだものじゃなくて、足の触り心地からして全然違う代物。壁も所々カビが生えているどころか、もっと爽やかな香りすら感じられる。
ミュウは、全くの別世界で目が覚めたような感覚に陥っていた。これも、夢の続きなのだろうか。
そんなことを考えていた次の瞬間、部屋の扉が開いた。
「お目覚めでありますか。安仁屋ミュウ様」
ミュウの前に現れたのは、一人の女性だった。
思わず魅了してしまう程の美女だった。歳は、間違いなく自分よりずっと上。定規で切り揃えたような前髪と乱れ一つない艶やかで長い黒髪が、見る者に貞淑な大人の女性といった印象を感じさせる。切れ長の相貌が特に美しく、その目で見られると、同性なのにこちらの気持ちが少しざわついてしまう。
何より、その女性が身に着けていたのは、フリル付きのカチューシャに、袖のカフスが付いた紺色のワンピースの上にフリル付きの白いエプロン――メイド服だった。しかも、暗い色のコルセットを腰に巻いているからか、豊かな胸の膨らみが強調されて、より扇情的に見える。
突然現れた――しかも憧れの職業の人物の到来に、ミュウは半ば混乱状態になってしまった。そして、気が動転しすぎたあまり、まず最初に言ってしまったのがこれだった。
「あ、あの、あたしは大丈夫です。ところで、あなたは誰で、ここはどこですか!? というか、ここは現実ですか!!?」
(いや、何聞いてんだあたしっ⁉)
一瞬で我に返り、ミュウは自分の言葉が脳内で無駄に響き渡っているのを感じた。それが、顔を妙に熱くさせ、顔中の汗腺を嫌に刺激させているのも。
けれども、女性は何も気にしていないと言わんばかりに、淡々と答えた。
「わたくしですか? わたくしは、『くみ』と申します。狗に美しいと書いて、
平然と答えられるのも、それはそれで恥ずかしい。だが、それを置いておくにしても、答えを得られたら得られたで、また別の疑問が生じてくる。
「邸宅? あの、どうしてあたしがこんな所にいるんですか? あたし、家に帰ろうとしてた所だったんですけど……」
ミュウの言葉は途中から尻すぼみになったのは、悪夢の記憶が再び脳裏に過ったから。
「その答えは、後に分かります。わたくしがここに来た理由は、御主人様が貴女をお呼びしているからでございます。こちらに着替えがございます。部屋の外でお待ちしておりますので、お着替えをお願いします」
「は、はあ……」
かくして、狗美と名乗った女性は部屋を出て、ミュウは差し出された衣装に着替える。
部屋の中に姿見があったので、着替えがてらミュウは自身を恐る恐る眺めた。猫みたいだと賞される眼と外跳ねのショートカットが特徴的なミュウの顔が映る。しかし、寝巻を脱いで露になった素肌には一切の傷は付いておらず、ミュウは少しだけ安堵した。
(よかった。あんなのが事実だったら、変な跡とかついてるもんね。普通)
渡された衣装は、無地のフレアワンピースだった。けれども、下着もそうだったが、触れただけでなんとなく分かった。明らかに格が違う代物だ。サイズこそぴったりだったが、万札を直に押し当てられている感じがして、気持ち的にはちょっぴり肌に合わない。
かくして、部屋を出たミュウは、狗美に案内されるまま屋敷を移動する。
狗美の背中を追い掛けるだけで良いはずなのに、ミュウはあちこち視線を移さずにはいられない。
広い。床や壁の雰囲気から察するに洋館の類のようだが、敷地内に噴水のある中庭があったり、迷路のような庭園が見えたり、廊下の壁に高そうな壺や絵画が置かれていたり――ゴージャス、ブルジョワ、豪華絢爛……この雰囲気を表す言葉は数あれど、それら全てを掛け合わせても、まだまだ足りないような感じさえする。ミュウにとってこの館は、別世界の何物でもなかった。
やがて、狗美はとある部屋の扉の前で立ち止まる。
「こちらが御主人様のお部屋になります」
まずミュウにそう言った後、狗美は扉を叩き「狗美です。安仁屋ミュウ様をお連れに参りました」と一言。すぐさま「入れ」という低い返事が返ってきて、狗美はドアノブに手をかけた。
ミュウは自分の鼓動が少しだけ高まるのを感じた。『家』どころか学校よりもずっと広い家に住んでいるなんて、この屋敷の主は、一体どんな人物なのだろうか。
中に入ると、自分がいた部屋よりも一回り広い空間の奥に高級そうな机が置かれており、その奥に誰かがいた。背景の窓を見ていた彼は、狗美とミュウが入ってきたことを感じ取ると、ゆっくりとこちらに振り向いた。
若い男だった。
すらりとした長身を豪奢なスーツで包み込んだその顔は、まさに眉目秀麗と言って良い。整った黒髪の映える爽やかな風貌は、大人の男としての風格を十二分に醸し出していた。
(やば……、マジで好みかも……)
男と目が合った。黒縁眼鏡のレンズ越しに注がれる視線に、胸の鼓動が更に高まる。落ち着いた眼から伝わる王子のように荘厳な雰囲気。顔に熱い何かが込み上げて来るのを感じ、ミュウはすぐさま目を逸らした。この感覚は何だ? これって俗に言う、か行お段音に始まりあ行い段音に終わるあの……。
「ふん。こいつが僕の館を汚した挙げ句、今までずっとぐーすか寝てた馬鹿女か。なんて阿呆みたいな面してやがる。目覚めても変わらんな」
即、冷めた。
冷やした鉄のような声と共に吐き出されたのは、明らかな侮蔑。初対面の場で、いきなりそんな事を言う人間がどこにいるだろうか。こんな男に気持ちが傾いた少し前の自分を、ミュウは思いっ切り叱咤した。
「まあいい。お前には用がある。ここに座れ」
男が指示したのは、高級そうな机の前にあるテーブルを挟むように配置された椅子の一つだった。逆らう理由など特にないので、ミュウはそこに座る。慣れない高級椅子の感触が、身分不相応の身体をゆっくりと包み込み……
「『失礼します』も無しか。礼儀も特に知らんとは、阿呆なのは面だけじゃなく中身もか。どうやら、寝ても覚めても本当にしょうもない馬鹿らしいな、お前は」
――むぅっ!
いきなりの罵倒。凹むというより、なんだか腹立つ。人を罵るとか本当に有り得ない奴だ。顔だけは最高なんだけどなぁ、と本気で思う。
「まあいい。馬鹿には何を言っても同じだからな。別段気にする事では無い。僕にも、馬鹿が相手だとしても、しなければならんことがある」
引き続き美貌とは対極の言葉を吐き出し続ける男は、眼鏡の中心を中指で押し上げると、机の上にある書類を手にした。そして、ミュウをちらりと一瞥した後、彼女の反対側に座る。
「まずは自己紹介から始めよう。僕の名は、司山ヨシヒサ。司山グループは知っているか? いや、お前程度の脳味噌の人間なら、司山ソーシャルサービスとかいうメイド専門の人材派遣企業の名前を言った方が伝わりやすいか? 僕は、そこに属する者だ」
いちいち癇に障る喋り方をする男だ。司山グループが、運輸、工業、福祉、保険など、様々な事業を展開する一大企業グループであり、特にメイド事業を担う司山ソーシャルサービスの規模に至ってはグループの過半数を占めるほど巨大であるという話は、メイド業界に憧れていたミュウは既に知っている。というか、「みんな知ってます!」と声を荒げて反論したいくらいの常識だった。
「ええと、あたしは……」
「僕はお前も自己紹介するよう命じた覚えはない。お前ならこの履歴書だけで十分だ。道理に暗い馬鹿は黙っていたまえ」
――むぅっかぁっ!
むしろ向こうが自己紹介したらこっちもすぐに返すのが礼儀でしょっ! 怒鳴り散らしてやりたくなったが、相手が相手なだけに我慢する。
というか、ちょっと冷静にならねばならない。履歴書をちらりと見やりつつ、こちらを品定めするように見てくる目の前の男は、司山グループに属する人間だと名乗った。しかも、苗字がグループと同じ『司山』ときた。この人物は、誰がどう考えても佐渡島グループの重役だ。ともすれば、社長か会長クラスの人間なのかもしれない。そんな人間に怒鳴り散らすような失礼なマネをしない程度の常識は、流石にミュウも弁えていた。もっとも、目の前の人間が、とてもそんな人物とは思えない人間性ばかり発揮しているのが問題なのだが。
「安仁屋ミュウ……だったな。年齢は17。身長は155で体重は58。貧相な見た目の割には随分とあるな。小中高一貫で司山学園グループ関係の私立高に通い、両親は生まれた時からおらず、小学校に上がる前から
椅子にもたれて履歴書を眺めながら、司山ヨシヒサは呟くように言う。全部自分の事だった。どこからそんな情報を仕入れて来るんだろうと、ミュウは思わず疑問に思った。
だが、他人に知られたくない事まで喋っているからか、ただでさえ溜まっていた不満が、更に火薬のようにミュウの中に溜まっていく。自分の領域に勝手に土足で歩き回られている気がして、不快で不快で仕方がない。
「――下らんな」
思い掛けぬ一言に、ミュウは愕然とした。司山ヨシヒサは履歴書を卓の上に放り投げると、また汚い言葉を吐き捨てる。
「つまらんナリをしとるから、せめて、その他で面白いもんでもあればいいと思ったんだが……下らん。司山の施設育ちであの学校通いなど他の人間でもある話だ」
(下らないって……)
膝の上に乗せていた手が、ぷるぷると震えていた。人を罵るだけでは飽き足らず、プライバシーの事を全て調べてそれらのダメ出しまでするなんて。最早ミュウの目には、その男の美点が全て見えなくなっていた。
爆発寸前の怒りを必死で抑えるミュウをよそに、男はさらにとんでもない事を言い放つ。
「まあ、その施設もお前ごと、
「ええっ!?」
思わず叫んだ。怒りの爆発は、驚愕の形で別方向に炸裂してしまった。ミュウは衝動的に、その場で立ち上がっていた。
司山ヨシヒサは、涼しい表情で座ったまま、ミュウを見上げていた。
「なんだ? まさか忘れてしまったとでも言うまいな?」
「いや、そういうわけじゃ、ないんですが……」
認められなかった。あんな悪夢としか言いようの無い出来事が、現実だと信じられなかったのだ。出来ることならば、今すぐくだらない夢オチとしてくしゃくしゃに丸めこんで、忘却という名のごみ箱に押し込めてやりたくなるような記憶だった。
「あの出来事は、本当だったんですか?」
「ああ。現場に出動した狗美が報告してくれたぞ。ムシエスケピに襲われ、例の施設が炎上、その場にいた全員が殺害され、最後にお前が背中から一突きにされて即死した。狗美の尽力虚しく壊素怪火には逃げられてしまったが、幸いにもお前はバラバラにされずに済んだ。で、僕は狗美に命令してお前を回収し、蘇らせた。以上だ」
司山ヨシヒサは淡々と答えた。ミュウの視線が狗美へと移ると、彼女はただ、事実ですよ言わんばかりに頭を下げるのみ。
本当だった。
本当だったんだ。
みんなも、あたしも、本当に……。
気が付いた時、ミュウの尻には椅子の感覚があった。
「どうやら落ち着いたようだな。たかが資料読んでるだけだというのに、身体を震わせるわ、急に跳び上がるわ、阿呆なばかりか落ち着きも無いんだな」
本当に口の悪い人だ。もはやその程度しか思えなくなっていた。
「……でも、どうして、あたしを蘇らせるようなことをしたんですか?」
「お前に質問をする権利はないし、僕がお前の疑問に答える義理はない。……と、言いたい所だが、実は理由は色々ある。そのうちの一つが、お前をメイドとして雇うためだ」
「……え?」
「阿呆な面して聞き返すな。お前を、僕のメイドとして雇うためだ」
ミュウは我が耳を疑った。目の前の人が、自分をメイドとして雇う? 暴言の濁流の中で突如として煌めいた一筋の話に、今でさえ混乱している感情の処理が余計に追い付かなくなっていた。
「家も身内も失った帰る当てのないお前に、拒否権は無い。お前に残された運命は、僕のメイドとして働くか、ここで逃げて野垂れ死ぬかのどちらかだ。馬鹿なお前でも、どちらがマシかは分かるだろう? まあ、どうやらお前は元からメイド志望らしいからな。願ったり叶ったりだろう」
自分がメイド志望だったのは事実だ。それに、眼前の男が嘘をついているようには見えなかった。まさかこんなタイミングで夢が叶う時が来るとは思わなかった。相も変わらず口の悪い彼の下で働くのかと考えると、少し気乗りはしなくなるが。
「まあでも、使えない人材だったら困るからな。試験はさせてもらおう。内容は、面接と実技だ。面接の設問は二つある。まず一つ目」
司山ヨシヒサは一息つくと、黒縁眼鏡の縁を中指でぐいと押し上げる。そして、ミュウの目をじっと見ながら口を開いた。
「お前の全ては、あの怪物によって永遠に喪われた。お前は、そいつらを倒してみたいと思わないか?」
「え?」
メイドのお仕事のイメージからあまりにもかけ離れた質問に、ミュウは思わずきょとんとしてしまった。
ミュウは、あの忌々しい記憶を再び脳裏に映してみた――生まれ育った施設を壊し、共に過ごした仲間達を殺し、挙げ句の果てには自分まで殺した怪物の姿を。
――大切な日常を奪った奴らが憎いか?
当然ながら、答えはYESである。もうみんなには会えない。正直まだ実感こそ湧いてはいないが、本当の本当に事実であるならば、あの怪物は間違いなく不倶戴天の存在だ。倒さなければならぬ。
だが、もし再び奴と対峙した時、自分はその復讐心を保ったまま、奴と戦う事が出来るのだろうか? あの時自分は、無力なまま恐れおののいていただけではないか。
「倒せるなら、倒してみたいとは思いますけど……」
ミュウから出せた答えは、そんな曖昧なものだった。
「よし。つまり『メッタメタにぶっ殺したい』だな。そう結論付けよう」
「え? ええっ?」
さらりと言い捨てた後、司山ヨシヒサは別で用意していた紙に万年筆を走らせる。
「では、二つ目だ。お前はお前の両親について、どこまで知っている?」
間髪入れずに次の質問がやって来る。これは全く知らないので、「何も」と答えた。物心つく前から施設にいたのだ。本当の親の顔など分からない。自分にとっての親は施設の人達だけだった。
「成る程。やはり無いか」
一言呟き、またもやさらさら。
やがて司山ヨシヒサは椅子から立ち上がると、再び黒縁眼鏡を中指で押し上げ、口の端を釣り上げた。
「ご苦労。試験は終了だ。面接試験は合格としよう。さて、次は実技試験だ。お前がどれだけ使えるのか、僕が実際に見てやろう」
実技試験と言われ、真っ先にミュウの脳裏に過ったのは、料理や掃除といったメイドが実際にしそうな仕事の数々だった。正直、それらは自信がある。どれだけ『家』で率先して行い、子供のみならず大人からも頼られてきたと思っているのか。
だが、面接試験で出した設問があの意味不明な二つである。到底、予想だにしていない内容なんだろうな。と、ミュウは不安に思う。
一旦、卓を離れて机に移動した司山ヨシヒサが持ってきたのは、輪っか状の何かだった。ミュウにはバングルのように見えた。
「受け取れ。使い方は後で教えてやる」
「わっ!?」
鮮やかな放物線を描き、それは男からミュウの手へと移る。
金属らしい光沢を放つ輪っかだ。ルビーのような宝石らしきものが中央に嵌め込まれており、隅っこには『Shiyama Technical Research Institute』と書かれた文字が刻まれている。
「さて、場所を変えるぞ。そいつを持って僕について来い」
机の書類を整理しながら、男が指示をする。「あ、はい」と答え、とりあえずミュウは、フレアワンピースのポケットに入れておく事にした。
面接試験をした後、次は実技試験。司山ヨシヒサは自分が使えるか調べ、可能なら雇うと言っている。確かに、自分は怪物(彼はエスケピと呼んでいた)の襲撃によって何もかも失い、目の前の男に縋るしか道はない。だけど、彼は自分に何をさせようというのか。
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