メイド・メイド・メイド
バチカ
第零章
序章:End of Wanna Be
赤黒い液体が、まっさらな廊下を汚すように、長く長く続いている。
蛍光灯だけが冷たく照らす赤黒い軌跡を追っていくと、何かを担ぐ一人の女性の姿へと辿り着く。
赤黒い何かは、その女性が担ぐ『それ』から溢れ出ていた。
赤黒い何かは、女性が身に纏うフリル付きの純白のエプロンを赤く染め、その下に着こむ暗い色のワンピースに容赦なく染み込んでいく。
けれども、『それ』を担ぐ女性は、何も意に介していない。単調な足取りで歩む女性の表情には、最初から感情の類があったのかどうかすら疑わしくて。
やがて、女性の目の前に一つの扉。
女性を感知して開いたドアの中にあったのは、一台の――大型のライトやら作業台やらが設置された手術用のベッド。
部屋の天井に取り付けられたカメラは、担がれていた『それ』が女性の手によってベッドの上に丁寧に置かれる一部始終を、しっかりと映していた。
『御苦労だ、
床を流れる冷気のような声が部屋のスピーカーから流れて来ると、狗美と呼ばれた女性は、その場で丁寧に御辞宜をして去って行った。
★★★
——数時間前。
傾いた陽の光が町を朱に染め、帰路に就いた者達を乗せた列車が高架を走る頃、安仁屋ミュウは錆びついた自転車を漕いでいた。
ミュウが通る道路の横で、自立起動のゴミ箱が道端に落ちたチラシくずを求めて走り回っている。上を見ると、ドローンの宅急便がマンションを目指して飛翔している。どれも普段から見掛ける光景。
目の前で信号が赤になって自転車を停める。一の字とYの字が交差したような五差路。ミュウの住む町の住民なら誰もが知る有名な『
ふと、ミュウは向かいの通りに人影を認めた。
髪の長い――たぶん女の人。顔は見えない。Y字の右枝に当たる通りを右側から横断している。ちょっとこっちを見た気がしたけど、像がおぼろげでよくみえない。
右枝を渡り終え、今度は左枝を渡る所に差し掛かり――ミュウの目の前を車が横切って――消えた。姿が、消えた。電柱の陰に隠れたとかそんなのではない。本当に、文字通り、消えた。
また、だ……。
思うのは、それだけ。
同じような光景は、これまで何度も見てきた。
人影を見たかと思いきや、何事もなかったかのように消えてる。さっきの女の人だけじゃない。老人、子供、はては猫や鳥。いろんなのがいた。
場所だって、交差点だけじゃない。近所の橋やトンネル、旧校舎や神社でも同じような光景は何度も見てきた。
でも、このことを友達に伝えても、返ってくる言葉は大体同じ。
「ええ~っ? もしかして、ミュウって幽霊見えんの!?」
果たして友達の答えは本当にそうだろうか。ミュウはそうだとは思えない。幽霊にしては実体がありすぎる。でも、実体にしては去り方が不自然すぎる。
ミュウには何だか分からなくて、友達も見えないから分からなくて、結局、何も発展せず有耶無耶なまま終わってしまう。
だから、目の前で起きた一連の出来事は、ミュウにはありふれたひとつの光景としか思っていない。
というか、そんなもんなんかより、ミュウには関心のあるものがある。メインストリートのビルに埋め込まれた巨大スクリーン――そこで大々的に放映されていた宣伝だった。
映像の中にいたのは、フリルの多い白いエプロンに黒地のワンピース――メイド服を着た若い女性。そんな女性が、料理や掃除といった家事の一つ一つを精練された所作でこなしているかと思いきや、主人を襲う暴漢や家屋に忍び込んだ泥棒を果敢にも退治するなど、画面狭しと言わんばかりの大活躍。
その展開の後、「あなたのために、世界のために、
「いつまでそこにいるの? ひかれちまうよ!」と女の声で注意されて、ミュウは我に返った。無人バスの客室にいた初老の女性から何か言われるまで、宣伝に見入ってしまっていたようだ。
今の時代、メイドは少女達の憧れの職業となっていた。
可憐さと貞淑さを併せ持ったメイド服の良さは言わずもがな、職人芸とも賞賛される家事の巧みさ、美しさすら感じられる主人への絶対的な忠誠、周囲の者に安らぎを与える優しさ、そして、時には脅威に対して勇敢に戦うかっこよさ……メイドの持つ特徴の全てが、理想の女性像として、少女達の憧憬の的となっていた。そしてそれは、ミュウも例外ではない。
でも、
(なれるわけないよね。あたしが、メイドだなんて)
メイドになれるのは、ほんの一握りだけだ。
メイドたるもの、優れた容姿、豊かな教養、聡明な頭脳、優れた体力だけではまだ足りず、細やかな気配りや心遣いといった素養まで求められる。それら全てを身に着けられる者など、そうそういるわけではない。メイドへの道は高く険しいのだ。
メイドへの憧れはある。「なれたらいいな」なんてヤワなもんじゃない。「なりたい」って思っている。けど、今の自分が実際になれるかと訊かれれば、ちょっと答えに窮してしまう。
(だって、あたしは……)
やがて、ミュウは人気の少ない郊外へ。高層ビル群を通り過ぎ、中心街の喧騒も届かない。あるのは、雑木林のある公園と戸建てが何件か。ここに、ミュウの住んでいる『家』がある。
が、この辺りに来てから、ミュウは妙な胸騒ぎを覚えていた。そもそも、あんな場所から黒い何かが立ち込めているなんてことがあったか? 弟分が悪戯で燃やしたものにしては、量が多い気がするが。
「……!」
予感は、最悪の形で的中した。
ミュウの住んでいた『家』が、大火に包まれていた。天の光を遮るほどの黒煙のおかげで、業火がより鮮明に彼女の網膜に焼き付いた。『家』と命を丸々呑み込んだ炎の化け物が陽光に代わり地上の光と化す様は、希望を蹂躙した悪逆の徒が世の支配者となった瞬間のようにすら感じられた。
だが、ミュウを愕然とせしめたのは、火事だけではなかった。
燃え盛る『家』の前に、見知らぬ男が立っている。後ろを向いているため素性は分からないが、わりと背丈のある人物だということは分かる。その男の両手は、ぬめりけのある何かで真っ赤に濡れていた。さらに男の足元には、ミュウの知っている誰かの頭と思しき何かが。
ミュウの気配に気付いたのか、男が振り向く。そいつはミュウを見るや否や、剃刀で切っただけのような眼を更に細め、鼻髭を生やした口の両端を嫌らしく釣り上げた。
「お前が、最後の一人か。待ってたぜ」
男がミュウに近付く。恐怖のあまり、ミュウは自転車ごと転倒した。ミュウへと徐々に近付く度に、男の姿が人間から遠ざかっていく。
「なに、怖がるこたあねえ。見た目と違って、いたぶる趣味はねえからよ」
ミュウの目の前にいたのは、あらゆる虫を搔き集めて作られたような巨大な怪物だった。
鋭利な刃を宿したカマキリの腕。無数の脚が蠢くムカデのような長い胴体の先端にはハサミムシの尾を彷彿とさせるハサミ。全身は固い外骨格に覆われ、背中からはバッタを彷彿とさせる一対の羽。スズメバチのような複眼と単眼がぎろりとこちらを睨み、鋭い歯が剥き出しになった口器からはクワガタムシのような大顎が長く伸びていた。
魑魅魍魎――ミュウの脳裏に、教室でまことしやかに囁かれていた噂が過ぎる。
(怪物……!? 聞いたことあるけど、本当だったの?)
最悪のタイミングで、ミュウは都市伝説が真実であると知る。
だが、今はそんなことよりも――恐怖のアラートが、竦んでしまった全身に鞭を打つ。抜けそうになる腰をなんとか持ち上げ、足の裏を必死にアスファルトにくっ付けて、立ち上がって――とにかく、ここから逃げなくちゃいけない。
「たす……、だれか、助けて……!」
走る。住宅街に誰もいないとか、警察や消防隊がまだ到着してないとか、そこまで意識がいくわけがない。
とにかく、今は走るしかない。それしかない!
「へえ、ビビってるわりには、走って逃げる余裕が残ってるとはよお。面白えじゃねえの」
怪物の嘲笑うような声が背後から聞こえたのは分かった。
硬い何かが、柔らかい何かを貫いた音がしたのも分かった。
だが、その硬い何かがキマイラの前足で、柔らかい何かが自分だと理解したのは、自分の視界が真っ赤に染まった時だった。
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