第36話 水の都の汚水たち
「おい、スプーキー、無視してんじゃねぇぞテメェ」
そのだみ声は、場の空気を凍り付かせるのに十分な不快さを持っていた。
ごくりと、スプーキーが唾を飲み込む音が聞こえる。ここで俺が追っ払うのは訳ない話だが、さてさてどうしたものやら、と考えていると、スプーキーが俺を前面に押し出してきた。
「あっアデムの兄貴よろしくお願いします」
「……はぁ。まあいいけどよ」
俺は押されるがままにゴロツキの奴らと対峙する。
「おいおいなんだこのチビは」「ぎゃはは、言ってやるなよかわいそうだろ」「その割にはいい女連れてやがるじゃねぇか」
うーん、どうしたものか。後、俺は平均よりやや小さいだけだ、決してチビではない。
「あーアンタら。俺たちはこいつの知り合いなんだ、それ位で勘弁してくれないか?」
「あっ? なんだ? テメェに要は無いんだよ」「おらおら、そこの嬢ちゃん達だけ置いてどっかに行きやがれ」
ゴロツキ共はそう言って、アプリコットに手を伸ばそうとした。
「はいそこまで」
俺は、素早く一歩つめ、そいつの顎に掌底を決める。脳震盪を起こしたそいつは糸が切れた操り人形の様に膝から崩れ落ちる。
あーなんか懐かしいな。アプリコットに出会った時もこんな感じだった。
「なっなにし「ほいほいっと」」
続けざまに残る連中も黙らせる。これでこの場は一件落着なのだが……。
「おいスプーキー、流れでやっちまったけど、明日から大丈夫なのか?」
俺がそう尋ねると、スプーキーは鼻の下をこすりながら、「大丈夫だよ兄貴、これでも心得てるさ」とそう言った。
さてさて、まぁこいつがそう強がるなら、任せるしかないと思っていると、意外な所から声が出た。
「スプーキーさんでしたか、貴方はずっとこのまま暮らしていくおつもりですか?」
「カトレアさん?」
「いえ、差し出がましい事でした、忘れてください」
そう言って彼女は目を伏せる。カトレアさんのことなんてアプリコットの従者であること以外何一つ知らないけど、彼女は彼女で色々とあるのだろう。
そんな風にしんみりとした空気を、だみ声が吹き飛ばした。
「おい! テメェら何していやがる!」
ゴロツキを1人見たら1ダース居ると思え。そんな格言は無かったと思うが、なんだかわらわらと集まってきやがった。
流石にヤバイな、のしちまうのは訳ないだろうが、警ら沙汰になる。
「おい、スプーキー面倒だ逃げるぞ」
「あっ兄貴」
「ホテルまでは距離がある、適当に安全を確保しろ。
殿は俺がやる、適当にあしらっておくから、お前は先導よろしく」
はい、行った行ったとアプリコットたちを先に逃がす。まったく、神父様ならこんなゴロツキたちは近寄って等来ないと言うのに、オーラ的な何かが違うのか、貫録が足りないのか、背丈が足りないと言うのなら、困ったものである。個人の努力ではいかんともしがたい。
殺気を漏らす、これは警告だ、お前たちが相手にするのは一頭の魔獣、つまらないプライドを満たすには割が合わない事を知らせる。
「ぐっ、こっこのガキ! 何をガンつけてやがる!」
ありゃ、弱かったか? 人間相手の戦いは慣れてないので勝手が分からない。
「やんのかこの小僧!」
ありゃりゃ、考え事をしていたら、先鋒の奴と接敵してしまった。胸倉をつかもうと伸ばしてきた手をかわしつつ、背後をチラ見。よし、順調に逃げている。
「てめぇちょろちょろと!」
うーん、いい加減実力差を分かってもらえないだろうか?俺はそう思いつつゴロツキたちの接待を始めたのだった。
「あーもう、何でこんなことになるのよ!」
「チェルシー姉ちゃん! 動かすのは口じゃなくて足!」
スプーキーたちはバタバタと人気のない路地裏や、雑踏でごった返すメインストリートを交互に逃げていた。
「お嬢様、しっかり」
「はぁはぁ、わっ私は大丈夫」
アデムは人の悪意、あるいは虚栄心、あるいは強欲さ、あるいは彼らの暇さ加減を甘く見ていた。
「いたぞこっちだ!」
スプーキーが町の事を良く知っている様に、彼らゴロツキたちも同程度には熟知している。更には町の彼方此方から、卑しい笑みを浮かべた彼らの仲間が現れる。
キツネ狩りだ、しかも獲物は極上の一品。嗜虐心に満ち溢れた手があちこちから伸びてくる。
「ちっ、スプーキー何やってんだ!」
最初の一波を巻いたアデムが追い付き、後続を蹴散らすも、一旦火が付いたゴロツキたちを鎮火させるには甘すぎた。
彼らは既にアデムを見ていない、見ているのはアプリコットを始めとする柔らかそうな獲物だ。
「くそ! こいつ等魔獣以下の知能しかねぇのか! ぶっ殺す訳にもいかねーし!」
アデムの憤りは雑踏に溶けて消える。あるいはここが逃げ場のない、閉鎖された空間なら彼はゴロツキたちを十分にひきつける事が出来たかもしれない、しかし舞台は町全体、制限されたアデムの力にそこまでの魅力は無かったのである。
「きゃっ! あっあの! 通してください!」
そして、その逃避行は置いてけぼりを出すには十分すぎるものだった。
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