1章 美味しいご飯のある風景


「ただいま」

 老人、平野平春平ひらのだいらしゅんぺいが帰宅したのは午後一時になる手前だった。

 両手に中身の詰まったスーパーの袋を提げている。

「おーかーえーりぃ」

 土間と隣接している居間を見ると疲れ切って卓に突っ伏しているスーツ姿の女性と厚手のブラウスにジーンズ姿の青年。

「腹、減ったか?」

「お腹、空きました」

 女性が答える。

「待ってなさい。ご飯作ってあげるから」

 春平はスーパーの袋を土間につけた調理台に置いて鞄を居間の奥にある自室へ置く為、二人の前を通る。

 そこには紙に『自分の得意なこと』『自分の苦手なこと』などが箇条書きにされている。

 青年、孫の正行まさゆきが就職活動を開始するに当たり大学の就職課から『自己分析をしてきなさい』と言われたらしい。

「爺ちゃん、俺のこと、どう思う?」

 と、一週間前、晩酌している時に正行に真剣な目で見られたときは思わず半笑いになった。

 改めて問われると困る。

 大事な孫である。

 一人の人間として見ても魅力的である。

 不器用で物覚えが悪いのだが真面目で一生懸命で優しい、その上、日々体を鍛えている。

 ただ、心配している面もある。

 自己犠牲をいとわないところだ。

 この青年は、簡単に自分の命を投げ出す。

 他者のために生きるための努力を放棄する。

 自殺願望があるわけではない。

 普段は普通の青年だ。

 それが厄介事で【真面目で一生懸命で優しい】が、一気に裏目になる。

 応用力が無い。

 集中し過ぎて周りを見ていない。

 決断力に乏しい。

 そして、自己犠牲。

 どれもが、危うい。

 鞄を置いて、スーパーの袋と冷蔵庫から材料を出し、調理を始める。

 幸い、今朝作った味噌汁が残っている。

 ご飯もある。

 まずはスーパーで買ったものを冷蔵庫に入れ手を洗う。

 キッチンペーパーで手を拭く。

 買った鶏肉をまな板に出し、まずは両面にフォークで穴をあけていく。

 厚みのある部分は包丁で切り開いて厚みを均等にする。

 それから、大きめの一口大に切る。

 切った鶏肉をボールに入れ、塩胡椒、酒、醤油、チューブのニンニクとショウガ、水少々を入れる。

 それらをよく揉みこむ。

 よく混ざれば異物が入らないようにラップを張って放置する。

 冷えている肉を常温に戻すためである。

 天ぷら鍋を出して、油を注ぐ。

 準備が出来れば、後は揚げるだけなので手を洗い、炊飯器のご飯でお握りを握る。

「おと……春平さん、すいません」

 長谷川綾子はせがわあやこがあくびをしながら春平のいる台所に来た。

 パンプスを履いて調理台を挟んで向かい合う。

「いや、俺も少しストレスを抱えていたから、ちょうどいい気晴らしさ」

 春平は息子の別れた嫁に対して返答した。

「正行の手伝い、お疲れ様」

「いいえ、大したことでは……私からすれば秋水……さんたちと離婚しても変わらずお付き合いいただきありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそ」

 そう言いながら春平はお握りを作る手を止めない。

「私もお手伝いしましょうか?」

「いや、もうすぐなくなるので結構……で、正行と唐揚げで口論になったの?」

「あー、電話の件ですね……」

 綾子は恥ずかしそうに天井を見て、地面を見ていた。

「いえね、正行の自己分析を話していたらお腹が空きまして……『お爺ちゃんの唐揚げ美味しいねぇ』なんて休憩がてら雑談していたんですよ。そしたら、正行が言うんですよ。『あの胸肉の唐揚げ』って。私が『胸肉じゃなくってもも肉でしょ』なんて言っていたら言い争いみたいになっちゃって……」

「で、俺に電話したと……」

 さすがに春平も言葉を失った。

 それから、何故か笑いがこみ上げていた。

「あれ? じいちゃん、おかえり。朝から見なかったけど……」

 半分、夢の中の正行が台所にやってきた。

 おにぎりは既に握り終わった。

「老人特有の朝早く目が覚めて、街まで散歩していた……ただいま」

「おかえり」

 青年になったとはいえ、眠そうに拳でゴシゴシと目をこする仕草は、子供の頃とあまり変わりない。

「もうすぐ、飯にするからタオル持って庭先の井戸水で顔洗ってこい」

「……うん」

 正行は言われるがままに庭先に向かう。

 唐揚げのことは半分忘れているようだ。

「じゃあ、そろそろ揚げますか」

 春平はそう言うとガスコンロに火をつけた。

「あの、私、唐揚げを上手に揚げられないですけど……教えてもらえませんか?」

 おずおずと綾子が声をかけた。

「俺も上手じゃないよ」

「でも、私がやると破裂したり中まで火が通ってなかったり、逆に石みたいに固くなったり……」

「それは、準備の話だな」

「準備?」

 綾子が首を傾げる。

「何も特別なことはないよ。肉の厚いところは薄くする、温度差が出ないように常温にする、味付けで肉汁が出ちゃうから水で補う……そんな程度さ」

 そう言いながら春平は菜箸を熱した油の中に入れた。

 細かい泡が箸先から出る。

「これでちょうど、百八十度ぐらいかな? 入れるよ」

 春平は片栗粉を付けた鶏肉を入れていく。

「そうそう、鍋にも気を配ったほうがいい。フライパンぐらいの厚みのあるものなら温度調整もさして難しくないが、雪平鍋みたいに薄いとすぐに温度が変わるからね」

「はい」

 しばらく、春平は鍋の中を見ていた。

 それから、そっと中の鶏肉をひっくり返す。

「あまり触らないんですね」

「うん、最初の一分は絶対に触らない。破裂の原因になるから……」

「じいちゃん、居間、片づけておくね」

 顔を洗い、目を覚ました正行が言う。

「おう、頼む」

 そう言いながら春平は大皿に出来上がった唐揚げを置いていく。


 片付いた居間の一本杉を使った大きな食卓に大皿に乗った唐揚げが山のようにあった。

 春平たちの前には味噌汁とお握りを置いた四角い海苔皿がある。

 春平、正行、綾子は胸の前に手を合わせ言った。

「いただきます!」

 手づかみでお握りを食べ、唐揚げをつまみ口に運ぶ。

 やはり、体を動かして気が張っていたせいか味噌汁を飲むとため息を吐く。

 上座に座った春平の前で正行と綾子は猛烈な勢いで食べていた。

 彼らも疲れていたのだろう。

 十五分後。

 卓の上にある皿や椀の中身はきれいさっぱり無くなった。

「ごちそうさまでした!」

「お粗末様でした」

 しばし、放心状態になる。

「やっぱ、じいちゃんの唐揚げが美味しいよな……でもさ、じいちゃん」

「何?」

「色々な部位入れてない?」

「そうだよ。俺、最初に唐揚げを作った時、もも肉も胸肉も分からなかったからささみや皮だけとか……とりあえず買って全部混ぜて揚げた……その名残さ」

「でも、そのおかげで味に変化があって飽きませんね」

 綾子が言う。

「そう言っていただけるとありがたい」

 それから、三人で片づけて誰ともなく自分の好きな場所で昼寝を始めた。


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