第17話 死闘と証明

 忘れ神の周囲に半透明の液体のようなものが生じ、手の形状を取ったか思うと、間髪入れず火花の頭上に降り注いだ。

 火花はそれを横っ飛びに回避。触手の落ちた場所にあった石畳が見る見るうちに歪んでいき、最後にはぽっかりと黒い球体が現れた。

 立て続けに迫りくる触手をかいくぐりつつ、黒い球体を見定め、気づく。

 360度どこから見ても球体に立体感がない、それは完全なる円だった。

「光すら当たっていない? ……記憶か、お前、私の認識を奪ってるな?」

「察しが良いな、ではこれが人に当たればどうなるか想像がつくだろう!」

「私が私でなくなるってところだな!」

 口とは裏腹に火花が触手を打撃すると、触手が霧散した。火花は殴った方の手を軽く振るってみせる。赤光を放つ右手の拳には傷一つない。

「まあでも、全部こいつで砕くから気をつけな」

「神の御手を消すだと? その手、この世のものでないな?」

「あんたは原始的概念らしいが、これも相当だぜ、せいぜい逃げ惑えよ、神様!」

 火花の体が爆ぜる。無数の触手が快音と共に次々に消失する。触手は火花の追おうとするも、姿をとらえきれず、無残に打ち崩されていく。

「化け物め」

「あんたにゃ、言われたくないね」

「ならば、これはどうかの」

 触手と化していた液体が、ゴムボールほどの大きさに分裂し、四方八方から火花に向かって射出された。

「うっとうしい!」

 火花はまるで小さな台風のように飛び交う球体をかわし、殴り、無力化する。しかし、流石の火花でもすべてを捌ききれず、球体の一つが足に直撃した。

 その瞬間、火花に衝撃が走る。何か記憶が奪われた。しかしそれが何かは知ることができず、不快な空白が自己に生まれたことだけ知覚した。

 正樹の援護射撃でカバーされながら、火花が一旦忘れ神から距離を取った。

「どうかの記憶がなくなる感覚は、力を分散している故、少しの欠落で済んでおるだろうが、実にすがすがしいであろう?」

「……はん、とことんいい性格してるじゃないの」

 このままではじり貧だ。あの球体を全て捌くことはできない。残る手は犠牲を払っての特攻か、それともチャンスが来るのを忘却の檻の中で待つか。

 どちらにせよ、賭けになる。

「いいねぇ、賭け、イチかバチか、それは正義の十八番だよ、ありがとよ、巨悪、久々に燃えてきた!」

「頭でも沸いておるのか」

「全身グッツグッツさぁ!」

 火花が地面を割ってスタートを切った。おびただしい量の球体が無作為に空間を走り抜け、周囲一帯を忘却の檻と化す。しかし火花は止まらない。忘れ神に狙いをつけられないように、縦横無尽に駆け抜け、翻弄する。

 当然、無事では済まない。火花は着々と記憶を失っていた。三日前の夕飯から、師匠に買ってもらった服のことまで、どうでもいい記憶から、大切な記憶、あらゆる記憶が平等に焼け焦げていく。穴だらけの記憶はやがて火花を崩壊させるだろう。いや、常人なら既に自我崩壊してもおかしくないほどに、火花は傷ついていた。

 それでもなお、火花が正気を保っていられるのは、彼女の生きざまこそ正義であったからだった。

 正義が叫ぶ。記憶の中のすべてが、正義を語る。火花はそれしか知らない。それだけできている。

 絶対なる正義と決めたあの日から、火花は既に人を辞める覚悟を決めていた。

 いや、いつから正義であるのかを問われれば、火花はこう答える。

 生まれてからずっと、人は正義なのだと。

「なぜだ、なぜ、そうまでして立ち向かう、人は楽を求める、己を手放し、他者に委ねれば幸福が手に入るというに、なぜ自ら痛苦を背負う、私は主の記憶を観た、主が知るところを私も知っている、主は人を呪っている!」

 己の大切なものを傷つけながら、人に絶望しながら、それでもなお神に挑む少女を理解できず、忘れ神は叫んだ。

「主の正義は師匠へ見つけるための手段であり、人を救うためのものではないではないか! 私は人を救済する! 邪魔をするな歪な正義よ!」


「御託はそれだけか」


「⁉」

 宙に浮かぶ忘れ神の背後に、火花がいた。

「人を救うだと?」

 神は言った、火花の正義は歪だと。

 人を救わない正義。ただ正義の存在を証明する正義。

 それは確かに歪だろう。

 火花は笑う。

 歪、結構。我欲、結構。

 火花が拳を大きく振りかぶる。

「救えるわけねえだろうがよ!」

 人は救えない。救いようがない。理想は遠く、叶えることはできない。指先の甘皮さえ届かない。それは幻であり、形ある嘘でしかない。

 だけど、それでも、

「私は! 正義だ!」

 主張する。虚勢する。ここに正義があると声高に叫ぶ。

 たとえそれに中身がなくとも、誰もがそれを正義と認めるまで、火花は自分を名乗るのだ。

 火花の拳が忘れ神の心臓を背後から突き破り、空中に朱を散らした。

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