第16話 それぞれの正義
神の視界すら遮る煙に包まれながら、忘れ神は徐々に癒えていく指を眺めていた。
神を傷つけられる武装は限られる。何かしらの加工でもされた銃弾でもなければ傷はおろか、当たりもしないのが普通だ。
「ただモノではないようだがの」
はるか昔、自分を封印した陰陽師達には遠く及ばない。
思い起こせば痛むこれは、傷か、あるいは記憶か。
忘れ神は過去に意識を向けた。
神は自身の出自を覚えていない。
気づけば既に意識があり、当たり前のように人々から記憶を消していた。
妻を不慮の事故で亡くした夫。誤って子を殺してしまった父親。病気に苦しむ老婆。
辛い記憶、悲しい記憶、息苦しい記憶、重い記憶。
あらゆる記憶を忘却し、人々に心の安らぎをもたらした。
神は願いを叶える機構であり、そこに善も悪もありはしない。
それでも、自我を持っていた忘れ神は、自分は善の神なのだろうと信じていた。
人は不自由な生き物だ。短い一生に数多の記憶を持ちながら、それを自由にすることはできない。
経験の結晶が自己であり、それを自在に操れば、人は己を失ってしまう。
しかし、一つの記憶が自己を染め上げても、やはり人は己を失う。
なんと脆く、不完全な存在だろうか。
ならば、私が人を癒そう、その不自由な心に自由を与えよう。
記憶とは、よりよい未来を築く礎であり、正しく解釈すれば宝となる。
解釈を誤り苦痛に囚われた人間の綾を解くことこそ、忘却を託された神の在り様なのだ。
そう思い、そう願い、来る人々を救済していただけだというのに、突然忘れ神は罪に問われた。
曰く、人の記憶を操る怪しい魔物がいる。見目麗しい女の姿で人を惑わし、堕落させる。
それは忘れ神にとって全く身に覚えのない記憶だった。
故に、そのような考えを持つに至った人々の記憶を消して回り、忘れ神は事実だけを残そうとした。
しかしその行為は裏目となり、忘れ神の悪評に拍車をかけた。
今まで願いを叶えた者たちまで一緒になって、忘れ神に石を投げた。
対話もした、実際に力を見せ、身の潔白を示した。
それでも人々は、忘れ神のあらぬ噂を信じた。
そして陰陽師が呼ばれた。
忘れ神は絶望し、失望し、悟った。
誰も記憶という事実を見てはいない、人が見るのは記憶から生まれる真実だけ。
このどうしようもない生き物は、自ら好んで破滅に向かう愚物なのだ。
忘れ神は憂う、そして愛す、自分を生み出した人間を、記憶を顧みない愚か者を。
お前たちにはもはや記憶を扱う資格はない。
お前たちの願い通り、この世から苦痛を取り除こう。
苦痛が消えるまで、全人類の記憶を丹念に消してやる。
それこそ、人々の願いから生まれた、忘却の神の在り様。
「故に、今の苦痛は全て消えてなくなる」
忘れ神が地上に移動すると、そこには拳を向ける火花の姿があった。
神前でなお、小動もしない己を持つ稀有な少女。
苦痛に満ちた記憶を持つ人がいる。
「私は主を救おう、全霊をもって」
「来いよ、正義がお相手だ!」
少女の言葉に神は笑う。
正義、それは私もだと。
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