第12話 夢の終わり
その日、師匠は赤いコートを私に手渡すと、「お別れだ」と口にした。
私にはその言葉の意味がよくわからなかった。
場所は大陸のただっぴろい平原で、背の高い草が風に合わせて音を立てていたのを覚えている。
お別れと聞いて、私が初めに思い浮かべたのは、別行動という意味だった。当時十二歳になった私は師匠の仕事を手伝い初め、場合によっては数日別に行動することがあった。
だから、今回もそうなのだろう。
のんきな私に師匠は重ねて言った。
「お前に教えることはもう何もない、お別れだ」
今度は意味を理解した。
けれど、頭が、心が納得しなかった。
私は師匠と会ったときからそのときまで、どれだけ辛くても涙を流さなかったのに、その時だけは幼子のように泣きじゃくり、師匠に縋りついた。
師匠のいない世界なんてありえない、私に悪いところがあったら何でも直すから、どうか、どうかいなくならないで、そんなことを泣き叫びながら口にした。
でも私の願いは届かなかった。師匠はいつもの微笑をたたえ、私の頬を一撫ですると「セイギの街を目指せ」とだけ言って、私の意識を刈り取った。
次に目が覚めると、平原は夜だった。
静かな、静かな夜だった。
空には人工の明りに汚されていない、手付かずの星々が浮かび、視界一杯に瞬いていた。
私はそんな空を眺めながら、のどが嗄れるまで泣いた。
師匠と出会ってからの生活は、それこれこそ星のように輝く思い出だった。師匠は私のすべてであり、一生このまま過ごすのだろうと、なんの疑いもなく思っていた。
帰ってきてほしかった。嘘だといってほしかった。もう一度あの柔らかな微笑みを私に向けて、頭を撫でてほしい。他にはなにもいらない。また会えるのなら、この命だって差し出そう。
泣いて、泣いて、泣き続けて、夜が明けた。
師匠は戻ってくることはなかった。
明けの太陽が夜を追いやり、空の色を変えていく。
その光景に合わせるように、私の心は思いのほかすんなりと切り替わった。
泣いてどうにかなるのなら、私は今までだって何度も泣いただろう。
けれど現実は、自分で動かなければ何も変わらない。
師匠は言ったのだ「セイギの街を目指せ」と、ならば目指さなければ。
どこにあるかなんてわからないけど、目印はある。
なら、どこにだって行ける、進める。
私はぶかぶかの師匠のコートを羽織り、歩き出した。
それから、私の旅は始まった。
セイギの街を目指す、セイギの道を、私は歩き出したのだ。
「その道はどこに行きついたんだい」
真っ暗な世界に声が響く。私の前には師匠がいて、昔のままの微笑を浮かべながら、私の頬を優しく撫でてくる。
「私がセイギの街を目指せといったばかりに、君はこんなに傷ついた」
「しかしそれも、もう終わりだ」
「お疲れ様、君は見事セイギの街を見つけ出した」
「もう休んでもいい、君は成し遂げたのだから」
「これからはずっと一緒にいよう、また旅をしよう」
「成長した君となら、もっと遠くまでいける」
「さぁ、私の手を取って、行くよ、火花」
ぁあ、何度夢見たことだろう。
探し当てたセイギの街には師匠がいて、私をねぎらい褒めてくれて、私の大好きな微笑を湛え、私を旅に誘ってくれる。
昔のように旅をして、私たちはずっと一緒に生きていく。
それはなんて幸福な夢。
「火花、さあ、はやく、手を取って」
「ぁあ、わかってる、これは夢、幸福な夢、私の描いた理想そのものさ」
「だけど知ってるぜ」
「セイギの街なんて、どこにもないってな!!」
私は拳を師匠に突き立てた。温かな臓物の感触、むせ返るような血の匂い、今や身に沁みついたセイギの色。
「ヒ、ヒバナ……?」
「世界中を回って分かったよ、セイギの街なんてどこにもない、あるいはすべてがそうだ、どこの村もどこの街もどこの国も、己のセイギを貫いている」
「師匠が私に目印をくれたのは、目指す過程が正義になるからだ」
「だから、この道がどこに行きつくかなんて意味はない」
「私が正義であること、それだけが重要なんだ」
「どこの誰だか知らないけどね、礼をいうぜ、ありがとう」
「一時とはいえ夢を見れてよかったよ、最高にいい気分だった」
「けれど、夢は夢、私の現実を返しな」
「…………なんだ、バレてしまったか」
師匠の姿をした何かは私の腕を自ら引き抜くと、ひどく冷たい声で語り始めた。
「主ほど強固な意志を持った人間を、私は見たことがない」
「記憶にまで意思が通っているとなると、さすがの私でも夢に侵入するほかなかった」
「拍手を送ろう、主はまさしく人を越えた人、時代が合えば英雄になれたであろう」
「しかし、ここで道は途絶える、悪く思うなよ、赤い少女よ」
「なに、お互い様だ!!」
渾身の回し蹴りを放つ。師匠の頭が粉々に消し飛び、胴体だけがゆらゆらと揺れている。
だというのに、どこからともなく声が響いた。
「私は主の記憶を観た、それは幾重にも織り込まれた鉄が如く、また燃ゆるマグマのように重く熱かった」
「己を正義と定義し、体現するその在り様、誠美しく敬服に値する」
「しかし、なんと悲しいことかのう、その壮絶さが主を縛っているように思える」
「故に、私は主を救おうと思う」
「はは、なに言っているか全然わかんないね」
「続きは現世でしよう」
師匠の体が指を弾くと、視界が一瞬で切り替わった。
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