第3話  正義の目覚め

  師匠は容赦のない人だった。

 年端もいかない私に、人の善も悪も余すことなく見せつけた。

 病に効くと吹聴し、女児の子宮を売買するブローカー。自身の死期を悟り、見知らぬ子どもに日銭を渡して眠りについた浮浪者。未開の村に独自の宗教を広め、銃を握らせテロを起こした教祖。誰も来ない廃村の墓地を一人で守り続ける老人。

 師匠はそんな人たちを指さしては「これは正義か」と私に問うた。

 私が「悪だ」と答えて、師匠が「そうだ」と言えば、その人を師匠が殺し、師匠が「違う」と言えば、対処を私に一任した。

 私は「違う」と聞くたびに心臓が跳ね、よく考えて生かしも殺しもした。

 一方、師匠は迷うことがなかった。まるでこの世全てを見通した賢者のように、全てに初めから結論を持っていた。

 ある日私は、「師匠は正義なんですか?」と訊いたことがある。天秤のごとく善悪を判定する師匠は、私には正義そのものであるように見えたのだ。

 しかし当の本人は、いつもの微笑を浮かべ「これは正義か?」と自分を指さした。

私は「正義だ」と即答したが、師匠は予想外にも「違う」といった。

 私は戸惑った。

 私の正義は師匠なのに、師匠は自分を正義ではないという、それでは私の正義は正義ではなくなってしまう。

 けれど、そんなことはない。

 だって、私は、正義なのだから。

 本気で頭を抱えて悩む私の手に、師匠の大きな手が覆いかぶさった。不思議そうに見つめる私に、師匠は優しく語り掛けるように言う。


「君の正義と私の正義は違う、私だけじゃない、みんな違う、けれどやっぱり正義は一つだけなんだ、だから君は悩んでいる、そうだろう?」


 当時の私は、師匠が何を言っているのか、あまり理解できていなかった。

 しかし、今はその意味を身に染みて理解している。

 結局、人は、自分を正義とみなすのだ。どれだけ人道に外れようとも、どれだけ聖人君子であろうとも、自分が正義だという本能には、誰一人も逆らえない。

 だからこの世には正義がはびこり、互いの手を汚しあう。

 私はそのことが、たまらなく悲しかった。

 人は正義から逃れられない、しかし人は善にも悪にもなるものだ。

 正義でない自分に、人は苦しむ。自己矛盾の苦痛に延々と耐えながら、人は生きていく。

 私は思った、絶対的な正義があれば誰も苦しまずに済むのに。

 誰かに正義を押し付けられれば、みな自由に生きられるのに。

 転じてその考えは、人々の内なる声を私に幻聴させた。


 お前が正義をやればいい。


 それは、全身が震える体験だった。

 おかしな話だ。自分は正しいと思いながら、誰も絶対的な正義になろうとは思わらない。誰かが誰かを救ってくれる。誰かがどこかで悪をくじいてくれる。そう思いながらも、自分は正義だと信じている。

 ああ、ほんと、気持ちが悪い。

 子供の前で信号無視をすることも、金に困って人を殺すことも、みな一緒、誰もが正義であることを面倒臭がっている。

 自分は正義だと信じながら、人は他の正義であることを諦める。

 気持ちが悪い。浅ましい。かっこ悪い。

 誰もが自分の腹底に正義を隠して、一人でそれを眺め密かに笑う、そんな様子が思い浮かび私は吐いた。

 それは違う。私の求めた正義ではない。

 なら私の求める正義はどこにある?

 わからない、わらからない、けど––––––––

 私は、やはり正義にしかなれないのだ。

 気づいてしまえばもう止まらない。私はそうできている。そうなるようにしてある。

 私がなろう。絶対の正義に、誰もが正義を押し付けられる強靭なる正義に、この私がなってやる。

 全人類を私が裁く、私だけが裁く。お前らはみんな、悪でいい。

 でないと、この世に私の望む正義なんて––––––––


 自分の正義を見つけた翌日のことだった。

 師匠は『正義の街を探せ』とだけ一言残して、私の前から消えた。

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