第2話 地下室の人魚姫
そこは寂びれた街だった。
都心から電車で一時間ほど、地方都市と言えば聞こえはいいが、内実は眠るための居を置くベッドタウン。昼間は人通りがなく、生気のかけらもない。
逆に、夜ともなれば多少は活気づく。とりわけ街唯一の歓楽街は賑やかだ。酔っ払いが管を巻き、電球だらけの看板が頭上でひしめき合い、笑い声が響いている。
ここは一種の幻想なのだろう。
明るい笑顔に垣間見える素の表情。そこには疲弊とか退廃とか懐古とか、そういう身を重くするようなモノが滲んでいて、何かを忘れようとする意志のようなものを感じ取ってしまう。
だから、本当のところは、右を向いても左を向いても、陰気、陰気、陰気のオンパレード、つまり、正義たる私に、こんな街は似合わない。
好き好んで来たい場所ではないのだが、残念なことに、日本に帰ってきた理由はこの先にある。
薄汚い裏通りをずんずん進み、ひと際細い小道に折れ曲がると、水色のレンガの壁にぶつかった。壁には木の扉と淡く光る看板が埋め込まれている。発光する文字列は『人魚の酒場』。
扉の先は、いきなり階段で、下っていくと、青白い光に照らされた長い通路が続いている。通路は蒸し暑い夏の夜だというのに、死体の肌みたいに冷たく、きっと深海の底はこんな感じなんだろうと、通る度に夢想する。
階段を下りた先には木製の重厚な扉があり、開くと頭上で呼び鈴がなった。
「いらっしゃいませ、火花様」
「よう! 久しぶりだな火花! 元気してたか!?」
「会いたかったよ火花ぁ! 今度はどのくらい長くいるの? 一緒に暮らさない? というか結婚しよ!」
三者三様、それぞれ歓迎の言葉をかけてきた。カンナに至っては何を言っているのか分からない。
「セバスに正樹に、カンナ、久しぶり! というかなんで二人ともいんの?」
「爺やに連絡をうけて取るものも取らずやってきたんだよ!」
「いやあ、二年もあってないから流石に死んだと思ったぜ!」
正樹が肩に腕を回してきて、頭を乱暴にかき混ぜてくる。
「ははは、死ぬわけないでしょ私は正義だよ」
「抜け駆けするな肉だるま!」
カンナが正樹の股間を容赦なく蹴り上げた。正樹、轟沈。そのまま流れるように抱き着いてくるカンナ。
「心配してたんだよ! 何度も何度も連絡したのに返信してくれないし、ありえないけどもしかしたら! って……」
「悪い悪い、スマホが壊れちゃってね、しかし相変わらずちんまいなーカンナは、うりうり」
「んー、極楽」
「お、おい、クソガキ、ここだけは鍛えられねぇんだぞ!」
「どうせ役立たないでしょ」
「んだとこらぁ! 犯すぞこのまな板娘!」
「誰がまな板だ! 筋肉星人!」
「ゾンビ!」
「ゴキブリ!」
二人がそれぞれ武器を取り出し喧嘩をおっ始める。
「はっはっはっ! 元気がいいなぁお前ら!」
「火花様、主は地下でお待ちです、こちらのカギをどうぞ」
乱闘を始める二人をしり目に、セバスは貝殻の模様があしらわれたカギを手渡してきた。
「センキュ」
カウンタを軽く飛び越し、酒の瓶の並ぶ棚と棚の間に張られた緞帳を潜る。
その先にはまたもや階段があり、階段を降りると広く長い廊下が続いている。
廊下の両脇には扉が三つずつ、それから最奥に一つ。すべての扉には何かしら海にまつわる模様が描かれていて、海藻、灯台、魚と見送って、貝の描かれた最奥の扉にカギを差し込んだ。
扉は音もなく開き、薄暗い部屋が目の前に広がる。肌に触れる空気の流れから、上下左右に広大な空間だとは分かるが、それを証明することは出来ない。
なぜなら、この部屋にある光源は、大きな水槽一つだけなのだ。
暗闇にぼんやりと浮かぶ水槽まで歩き、水槽の前に置かれた豪奢な椅子に腰かける。
水槽の主を鑑賞させるシンプルで強力な舞台装置。アクアリウムを育てる飼い主と、飼われる魚、いったいどちらが主役か?
もちろん、全てを整えてもらえる魚が主役に決まっている。
この部屋は、そういう場所なのだ。
「ほんと、悪趣味だよね、あんたは」
縦横三メートルほどある水槽の、砂利の敷かれた底に鎮座する大きな貝殻。その貝殻がパカリと開き、人影が飛び出てきた。人影は勢いよく水面から出ると、水槽の角に腰かけ、濡れた髪を背中に回す。
「美しさを独占するのは罪よ、だからこうしておすそ分けしてるんじゃない」
「はいはい綺麗綺麗」
適当に拍手を返すと、美貌の主は不満顔で水面を叩いた––––––自分の尾で。
七海を統べる人魚の情報屋こと、ロミア・マーメイド、彼女こそ、私を遥々大陸から呼び寄せた張本人である。
「思ったより元気そうで良かったわ」
「よく言うぜ、港でヤクザ者と戦わせておいて」
「その件はありがとう、お客様に頼まれちゃってね」
「今度は事前に言ってくれよ」
「あら、あなたは正義なのだから、言わなくてもやってくれるでしょ?」
「当然、で、遥々大陸から私を呼んだってことは、ついに見つけたってことだよな、《セイギの街》を」
「正確には可能性ね」
ロミアは一枚の紙をよこしてきた。防水仕様の紙面には、つるつるとした文字でたった一文が書かれている。
『誰もいない 助けて』
「……って、なんじゃこりゃ」
「存在しない街から届いた手紙のコピーよ」
「存在しない街?」
「正規のルートで届いたものではないわ、落ちてきた凧を拾ったら付いてたの、気になったから、当時の天候や、風の流れ、紙の材質などから、場所を特定したわ、そうしたら不思議なことにね、山があるだけの場所に、街があったの」
「七海の情報屋も陸に上がったら、その程度ってわけ?」
「ふふ、分かっているくせに、それはありえない」
その言葉に嘘偽りはない。この女にかかれば、今この瞬間に地球の裏側で羽ばたいた蝶の数だって分かるだろ。
ロミアの情報網は海も陸も関係なく、空にだって及ぶ。ありとあらゆるところに潜むロミアの手先が、彼女という海に情報を流している。手先は人とは限らないのだから、常人に隠し事など無理だろう。
噂では、ロミアは紀元前か生きているという話だ。全知全能が神ならば、きっとロミアは地上で最も神に近い。
そのロミアが、知らない街?
「あなたの師匠があなたを待つと言った《セイギの街》は、私の知る限りにはもうないわ」
「だからこの世にない街こそ、《セイギの街》の可能性があるって?」
「まあ、紅は預言者めいた人間だったから、実は将来できる街なのかもしれないけどね?それで、どうしようかしら? 私としてはぜひ向かって欲しいのだけど」
「助けてと言われたなら、助けるさ、私は正義だからね」
「そう、なら持っていきなさい、住所が示す付近の地図よ」
地図を受け取り、退室するため椅子から立ち上がった。用がなければこんな薄気味悪い場所には一秒だっていたくない。
「最後に一つ、聞いてもいいかしら?」
「お茶の相手ならお断りだけど?」
「あなたの正義は師匠を見つけるための手段? それとも信念?」
「……何が言いたいんだよ」
「予感がするの、あなたは近々選択を迫られる、一生は無数の選択と奇跡の連続で成り立つものだけど、普通は意識できる選択なんてそうそうないわ、けれど、あなたには、それが訪れる」
「なにそれ、師匠の真似? 似てないんだけど」
「そうね、久しぶりに会ったから、彼女を思い出してしまったのかもしれない……気にしないで、ただなんとなく、そう思っただけ、頑張りなさい、正義さん」
「はいはい、適当にやっとくよ」
(神に近い人魚の忠告なんて、笑えないっての)
(けど、それだけ、可能性があるってことだ)
(……師匠、今度こそ)
「んじゃ、さようなら」
「ええ、さようなら」
ロミアの部屋の扉を後ろ手に閉めて、私はぼんやりと棒立ちになる。
(ようやく、師匠の手がかりを見つけた)
(幾度となく、偽のセイギの街に向かい、そのたびに失望した)
(それもようやく終わるかもしれない)
師匠と出会ったのはもう十数年前のことだ。
戦争に巻き込まれて両親を亡くし、難民となった私は格好の商材だった。
どこにでもいるような大人が、家と身分を用意してくれるといい、私は、齢五歳にして五十も上の男性にもらわれることになった。
わたしはただ、これは違うと感じながらも、嫌らしく私の肌を撫でる老体の言うことを聞くしかなかった。
親がなく、金がなく、力もなく、人であったというだけで、私は使われ死んでいくのだろう、そう悟っていた。
何も珍しい話ではない、同じ境遇の人間はごまんといる、歴史をたどれば同様の境遇の死体で星ができるに違いない。
だから、そう、納得すればよい。
ただそれだけなのに、ただそれだけが私にはできなかった。
秘所に触れようとした老人の手に噛みつき、指を解体、私の首に手がかかり、そして、私は叫んだ。
「これは違う!」
その一言が、私の運命を変えた。
次の瞬間、私たちのいた部屋の扉がはね跳んだ。
今でも克明に思い出せる、鮮烈な赤のコートを羽織り、蹴りの一つで豪奢な扉をおしゃかにしたその人は、かっこいい笑みを浮かべて、救いの言葉を口にした。
「正義の心が聞こえた」
その一言を聞いた時、私は両親が死んでから初めて涙を流した。
両親が死んだのも、私が売られたのも、私が死ぬのも、全て仕方のないこと。あきらめて、受け入れて、あるがままの現実に身をゆだねることが正しいと思いながら、私は納得などしていなかった。
ほんとうはそんな現実に唾を吐きかけ、理想を、真実をこそ、私は望んでいたのだ。
それが、正義なのだと師匠の一言が気づかせてくれた。
老体は慌てふためき、護衛を呼んだ。しかし誰も来やしなかった。師匠は既に家中の護衛を一人残らず殺していて、そして老体をも拳の一突きで容易く屠って見せた。
返り血で真っ赤になった手を、師匠は私に向けてきた。
「正義にならないか?」
ああ、その手こそ、私が求めたものだ。
何者にも屈しない、正義の人。
その手をとるのに、迷いなどなかった。
無意識に見つめていた手から視線を外し、一階に戻った。
「お疲れ様です、火花様」
「あいよ、相変わらず、あの女は変わらんね」
鍵をセバスに返し、レッドアイの用意されたカウンターに腰かける。別にこっちの嗜好を教えてはないのに、そのチョイスはドストライクだ。ロミアもたいがちだが、それに仕えるこの執事も得たいが知れない。
「火花様にふさわしいものを、用意させていただいただけですよ」
「そういうところが、得体が知れないんだって……で、結局どっちが勝ったの?」
バーの店内は嵐でも過ぎ去ったかのような有様だった。ひっくり返されたテーブルの上に正樹が大の字に倒れ、壁にはカンナがもたれかかっている。どちらも肩で息をしていて、満身創痍の有様。
「はぁ、はぁ……この脳筋ゴリラ、死ね」
「て、てめぇこそ死ね、モヤシ女」
「ハッハッハ、ホント仲いいなお前ら」
「「誰が!!」」
「あー、それで、火花どーだった? セイギの街は見つかりそうか?」
「行ってみないと分からない、今度は存在しないはずの街だとさ」
「なんだぁそれ? 面白そうじゃねか! 俺も連れてけよ!」
「ちっ、ねぇ、そんなゴリラは檻にでもぶち込んで、私と行こうよーヒバナぁ」
「いいぜ、ただし、来るなら二人でだ、仲良くしろよ」
「「当然」」
二人はにこやかにお互いの武器を相手に向けた。
「はぁ、こいつらは……」
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