第10話

「もし孕んだら、どうする」

 そう呟いた舒舒は、手足を投げ出して、華奢な体を月光の海に浸していた。彼女は、その青銀色のひたひたとした輝きが、何かの啓示であるかのように、腹を撫でた。

 傍らで、首筋にまといついた後れ毛をまとめていた睿は、腕を下ろすと、自分の着ていた上衣を彼女にやわらかくかけた。百合の透かしが入った黒の漢服は、夜には少し肌寒い素材で、刺繍がつめたい青に輝いた。

「貴女の望むように」

 耳元で囁いた。舒舒は、注がれた蜜の残り香に酔った眼で、夜と恋人を見つめて微笑んだ。女の微笑だった。

わたしにできるだろうか」

 白い胸を押さえて、舒舒はぽつりとこぼした。彼女は紛れもなく女になったが、未だ十代であった。勿論、睿も。

わたしは、善き母になれるだろうか」

 睿は、舒舒が髪に飾った紫水晶をつまんだ。水を孕んだようなこの輝きは、もう後戻りはできない証明だ。この関係すら、赦されるのかわからない。子供など尚更だろう。

 けれども、ここまで歩めたのだから、後悔しないだろうと思った。

 睿は舒舒が体を起こそうとするのを助けて、上衣ごと彼女を抱き込んだ。安心して身を預けた恋人の、貝殻のような耳に語りかけた。

「母は、十七で私を産みました。彼女は善き母だった。児の私が云うのだから、間違いないでしょう」

「…睿の母のはなしは初めてだ」

「ええ。彼女は私が十になる前に死にました。潮風で病んでしまって」

 ちょうどそのとき、二人の足元で渦を巻く小さな風が吹く。花を散らすそれに、舒舒は瞬きをした。

「……わたしの母も、孕んだ後に何があったか此の上海を去り、十代でわたしを産み落とし、寒村で肺病にかかって死んだ。柴を背負ったまま、夜道で倒れていた。わたしは公共食堂から白湯を貰って帰る途中で、母の屍を見つけた。泣きながら戻った家には役人か、それとも女衒か、知らない男が居た。わたしは、母を埋葬することもできず、裸足のまま高粱コウリャン畑をぬけて、線路を伝って南へ逃げた」

 睿は、舒舒を抱いたまま、黙って聴いていた。舒舒を抱く腕がもう少し長ければ、彼女を暖めるゆりかごを編めるのになどと思った。

「……わたしはなしは終り。睿」

 首を少しめぐらせ、優しく垂れた眦が悪戯っぽく睿をとらえた。睿は微笑み、どこから話しましょうか、と舒舒の目を覗きこんだ。

 ふたりの爪と似た色をした花びらが、指先をかすめて空を転がっていき、睿は、ぎゅっと舒舒の指の間に自分のそれを重ねあわせて握り込んだ。どこかへ飛んでいく花は、夜の帳に、銀色に見えた。

「……父は、道士でした。それほど真面目に修行をしていたわけではなく、周りからは幻術使いの変わり者という風に見られていて、最初は母からもあんな変人のところへ嫁に行きたくないと拒まれたとかなんとか」

「ふふ。睿も変わっているものな」

「そうですか? それは…なるほど……あと、そうだ、父は詩を書いていましたね」

「詩?」

「よく覚えてはいませんが……短いものです。花の下や、月夜に、二胡を弾きながら吟うのですよ。今の中国語ではありませんでした。旧い言葉です」

 舒舒は睿の胸にこめかみをあて、黙って聞いていた。睿も、その黒髪の青く艶やかな頭をなでながら、抑えた声で続けた。

「全てを覚えているわけではありませんが、それほど酷い歌詞だったはずはありません、母が私に聴かせたのだから。ですが、何かが気に障ったのか、父は役人に目をつけられ、私たち家族は故郷を追われました。元々、少数民族ということもありましたし……。

 父は私が五歳の或る夜、北京の花の下で、顔を焼かれ、手足に釘を打たれて殺されました」

 淡々と語る彼の胸中で、今もざわりと囁いた音を、舒舒だけが聞いていた。…

 睿にとって、竹の花、銀の雨、原始の記憶の次に鮮明に甦るのは、その夜の出来事だ。

 廃墟になった四合院の中庭で、青い夜には眩いほどの白い花が、銀に輝いて咲いていた。怒号と罵声、人の骨や肉が破壊される音に似つかわしくない、はらはらと舞い落ちる花びらの白さを憶えている。自分と母の躰にはりついた父の札は燃えるように熱く、濃い血の臭いがした。

 道術を使って姿を隠させた妻子についてけして何も洩らさぬため、父は舌を噛みきった。葡萄棚の下、椅子の陰で、睿は母に抱きすくめられて何も見ぬようにと、しかしそれでもその景色は睿の記憶に鮮明に残っている。夜、花、血。父の黒い髪に火が放たれ、釘を打たれた手首が切り落とされるのを見た。

 あのときの父は、二十五にもなっていなかったはずだ。

 父の骸にすがり、共に死にたかったろう母は、幼い息子を抱いて後も見ずに逃げた。裸足の母の腕は少女のそれのままで、痩せ細った睿の体ですら折れてしまいそうなほどだった。

 けれど、彼女は逃げ延びた。愛するものと、その子のために。

 舒舒は、すり、と、優しい獣のように睿の胸に寄り添った。心臓の音を探りながら、指を重ねる。その細くとも確かな手の感触に、睿はなにより命を感じるのだった。

 死をも恐れぬ愛とは何か、と思うことはある。なにより愛する人を失ってなお守ろうとするものは、愛から生まれるものであろう。だが、それが何なのか、影法師のように生きていた睿にはわからなかった。……同じように昏いみちを生きてきた、舒舒と出逢うまで。

 彼女と出逢って、その問いは意味をなさなくなった。ことばで答えが出ることはなく、今腕のなかで脈打つこの火花が、きっと正体であろうと知れる。

 どろどろ燃えて融け合った愛が、産み落とす熱を、命を捨てて守る心は決まっている。

 ……離れまい。

 いつかこの手が切り落とされる日がこようと、心はけして離れまい。

 この花の海に嵐がこようと、ばらばらに吹き散らされようと、この命あるかぎり。

 ……否、死んでも離れまい。

 命の繰り糸で、ふたりの魂を縛ろう。死がふたりを別たぬように。……永遠に離れないように。

 睿が内心でそう呟いている間に、ふっと、花散らしの風が吹いた。ふたりの黒髪が絡まりあい、……舒舒の真っ白なうなじに、紫の花びらがまとわりついて、火のように揺れていた。……



ルイは、わたし爸爸おとうさんみたい」

 睿は、せっかく丁寧にいれていた茉莉花茶ジャスミンティを勢いよく溢した。黒塗りの卓の上に描かれた花の上に、薫りのよい池が広がる。

「……何か悪いことを云った?」

 心配そうに舒舒は首を傾げる。耳の高さでわっかにした三つ編みが可愛らしく揺れた。

「い、いえ……確かに可能性としてはありえなくもない程度の外見的年齢差はありますが……爸爸…なるほど……」ショックのあまり、額を押さえながら布巾を手に取る睿の頭を、立ちあがった舒舒はよしよしと撫でる。表情に乏しいかんばせで、それでもじっと睿の目を見てゆっくりとこう言った。

わたし、睿が爸爸だったら素敵だと想う。睿、子どもを抱抱だっこしてるのが似合うもの」

 でも、睿はわたしの旦那さまだから。と、目頭を押さえながらお茶と灰を拭き取る睿の首に手を回す。長身の彼女の腕は、夫の細い体に抱きつくには充分だ。その皮膚の温度は濡れた布よりなおつめたい。

「……睿、小児こども、好きでしょう」

 陶器のような指で睿の頬をなで、舒舒は少し切なげに呟いた。

 睿は、その指に自分の指を絡める。その温度の差を確かめ、丁寧に指先を包む。乾いた爪をやわらかに湿らせると、舒舒の額にくちづけた。

「世の中には子のいない夫婦など幾らでもいますよ。それより舒舒、布巾を洗いたいので、一度放してもらえますか」

 舒舒は数秒ほど動かなかった。だが、猫のように額を睿の首筋にこすりつけて離れた。小さな二人用の卓の周りを回って、台所へ向かう睿の背を追う。数歩も要らずに、食卓、流し台、椅子、とすべての家具に触れられるこぢんまりとした部屋は、香港に来てすぐに借りたものだ。清潔で、シンプル極まりない部屋のそこはかとない異質さの正体は、舒舒の大きな棺桶だ。昏く大きな地獄への門のように、暗がりでどぉんと横たわっている。

 この柩で、舒舒は屍にもどる。中には、睿が花をいつも敷き詰めてあって、全身にあたたかい花びらが触れながら意識の遠くなっていくさまは、ひどく心地よいようでいて、おそろしいのだ。それは繰り返される、死の追体験であるから。

 けれど、柩の外側には、愛する人がいる。微かに伝わる熱と重さを、花をかき分けたつめたい指先で触れた布と板越しに感じとることができる。このいびつな八角形の棺桶は、睿自身がねむるときに、背を預ける支えでもあるのだ。

 舒舒が、僵尸として覚醒めざめてから、常に傍らにあるのはこれと、睿が季節ごと、祝福のように降らせてくる衣裳を容れるための匣だ。

 夫と、柩と、むせかえるような紫丁香花ライラックの香りが立ち込める衣裳櫃だけが、舒舒の旅の記録だ。

「こら、くっつかない。動きにくいでしょ」

小児こども

「まだ言いますか。私は本当に、不満なんてありませんよ。それに、言ってしまえば、貴女が子どものようなものですので」

「酷い」

「そう思うのなら、出した本は片付けるように。あと、お腹がすいても私を噛まないこと」

 首筋の歯形を示して言う。舒舒はかちかちと牙を鳴らして、はあいと返事をした。それから、いとおしそうにその痕を見つめて、薄紅のそこに頬を寄せた。ひたり、とつめたい皮膚の感覚に、睿の布巾を絞る手が止まる。

わたし、睿の妻で、子なのね。………」

 睿はほんの少し、舒舒の方に首を振り向けた。彼女は目を細めて、睿の体に腕を回した。わずかな筋肉の動きや血の巡りが、皮膚を介して伝わってくる。これが命。自分を生かす魂。睿の濡れた手が、舒舒の手を包み込んだ。とろとろと流れ込んでくる血のような愛に、躰がどれほど冷えようとも、からっぽの胸で火は赤々と燃え続ける。

 この火が続くかぎり。

わたし、睿が望むなら、妹でも、姪でも、姆媽おかあさんでも、なんにだってなる。憶えておいて、睿。わたしの魂。

 わたし、永遠にあなたのものよ」




哥哥にいさんって本当、爸爸おとうさんみたい」

 ふくれっ面で、娘は、蝶々柄のスカーフを巻きながら言った。睿は平然と「哥哥と言っているじゃありませんか」と、象牙のブローチを渡す。娘は十八になろうとしていた。花も羞じらう、とはまさにこのこと、というような春めいたかんばせは、眼の形を除けば舒舒とよく似て美しかった。しかし、その着飾るための美貌を目にする者は少ない。

「口煩さがってこと! 爸爸じゃなきゃ姆媽おかあさんみたいよ」

 睿は黙っていた。母を早くに亡くした自分もそうだが、娘も母親というものを知らない。彼女は夢をみる。知らない世界、友達や、母親や、花嫁の。

 娘と、背後についた睿が広い部屋を出ると、廊下に並ぶ黒服の男たちは頭を垂れる。大股で歩きながら、娘は唇を尖らせた。

「急すぎるわ、留学の説明なんて」

「急ではありませんよ。半年後ですから」

 香木の飾られた漆喰の壁に、二人の影がゆらめいている。黒い花崗の廊下を歩く足音は揃っていて、そこに可愛らしくも火花のような娘の声と、穏やかさを崩さない睿の声がかさなる。

 幾つめかの曲がり角で、不意に娘は立ち止まった。迷路のように広い邸のなかで、ちょうど東側に面した窓のある廊下に出る手前だった。窓越しの霞んだ青空に梅の枝がのび、どこへいくのかわからぬ風が、その若い枝を揺らしていた。

「……ずっと、向こうで暮らすのかしら?」

 睿は、そうだろうと思いながら、返事をしなかった。彼女がそれを望んでいないことがわかるからであった。

 大学も、就職も、恋愛も。あの部屋に用意された娘のトランクは重たく、まるで世界がひとつ入っているようだった。

 きっと、彼女の父親はそうさせるつもりなのだろう。この国にいるかぎり命を狙われ続ける小鳥を、籠のなかに閉じ込めるのは憐れだとして。

 だが、慣れ親しんだ空気と、音楽と、愛を捨て、誰が愛してくれるかもわからぬ異国の地へ旅立つことは、幽閉よりずっと理不尽な運命に感じられるのではないか、と睿は思っていた。己をなじった娘の涙と、手の熱を覚えている。所詮は飼い殺しの蟲である自分は、あまりにも無力に過ぎるのだ。

 立ち止まった娘は、窓からじっとなにかを見つめていた。睿は隣に並び、その視線をたどると、そこには河を隔てた向こうの、花に埋もれたあずまやがぽつんとぼやけた陽光に白く浮かび上がっていた。

「舟みたいね」

 溢した娘の言葉に、睿は頷いた。こうして見ると、あずまやは花の海にゆられるたよりない小舟のようだ。

「わたしも、やっと舟に乗るの」

 娘は窓から視線をはずさず、瞼がかなしげに少しおりた。睫毛が震え、ちらりと、潤んだ黒い瞳が睿の方を見ようとして……また、花の海に落ちていった。

「……いつか、わたしは、遠くで誰かを愛するようになるのかしら?」

 代わりに、言葉だけが投げかけられた。

 睿は一歩、彼女に近づいた。しかし、隣に並ぶことはしなかった。問いへの答えはひとつしか知らず、そしてそれ以外を言う権利も、睿にはないと思われた。

「ええ」

 その瞬間、風が吹いた気がした。邸の紅い窓が不吉に鳴り、ぶわりと、前に立つ娘の黒髪が、水中の墨のように広がり……輪になった黒髪の中心から、死人のように真っ白なうなじがのぞいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真っ赤な人形 しおり @bookmark0710

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る