第9話

 むせかえるほどの紫丁香花ライラックの匂いが立ち込めていた。洋風のクローゼットの扉が開け放たれ、部屋中に色鮮やかな衣裳が雪崩れていた。

 カクテルドレスやイブニングドレス、外国の客のための豪奢な旗袍チーパオや、絹や紗、緞子の滝……。

 その中央で、豊かな花弁を留める蘂のように、娘はぽつんと座っていた。腕を垂らして、心ここにあらずというように、声をあげてしまいそうな色彩のカスケードをぼんやりと俯いて見つめている。

 衝立越しに、ルイは娘の様子を探っていた。突然部屋に入ってきた父親が彼女になにかを告げたあと、かれこれ二時間はこうしている。

睿哥ルイにいさん

 呼びかけられ、睿は座り込んだままの娘の方を見た。長い付き合いで、隔てるものなど関係なく、彼女がどうしているのか睿にはわかる。

爸爸パーパが、わたしを国の外へ遣るって」

 睿は思わず衝立に手を当てて呼び掛けた。

「あなた、国はおろか、この邸の外へ出たこともほとんど無いでしょう」

「うん。でも、爸爸はもう決めたと言うの」

「留学ということですか。また、急な」

「そうよ。小魚を、金魚鉢から海へ放り出すようなものだわ!」

 娘はわっと衝立を無視して、睿のほうへ飛び付いた。蕭洒な飾りが倒れ、はっと睿は両腕を出す。

 あんなに外に出たがっていた娘が不安で取り乱すのを、睿は抱き止めながら、その背を撫でていいものかわずかに躊躇った。恋人とよく似た娘は、よりぬくもりを求めるように睿の胸にすがりついた。

哥哥にいさんも一緒よ」

 子どもじみた言葉とは裏腹に、その声は驚くほど低く、昏かった。睿は慄然として、思わず娘の黒髪から手を離す。

「……嘘。爸爸は、未だ決めていないと云っていたわ、哥哥をわたしと一緒に行かせるかは」

 そうは云いながらも、娘の語調は一転して諦めきってしまったように静かで弱々しく、父から可との答えが返ってくるとはまったく信じてはいないようだった。無理もない。目の届かないところに行く愛娘に、わざわざ年近の、それも、孤児で呪いつかいの男を同行させるはずがない。

 睿は考えをめぐらせた。娘が上海を去れば、此の邸に縛りつけられた自分はどうなるのだろう。変わらず自分で編んだ繭のなかで、緩慢に茹で殺されるのを待つのか、それとも別の血腥い道を示されるのか。自分に選択権が無いことは明らかだった。そして……。

舒舒シュシュは、あなたと一緒ではないのですか」

 最も気がかりなことを口にした瞬間、ぱりんと水晶の割れたような音を幻聴した。

 娘は、今にも割れてこぼれそうな宝石の泪の眼で、睿を見上げた。その白いかんばせには、雪でこしらえたうさぎのような儚い青い影がやどっていた。

「なんでそんなことを言うの?……」

 漆黒の睫毛が震え、その先端からはらりと夜露が落ちた。人の血と同じ温度のそれは、睿の手の甲を濡らした。

「舒舒を連れていってしまっては、可哀想でしょう……」

 言葉を次げず、睿は娘のぐらつく体を支えた。可哀想、可哀想に。可哀想なのは、この娘だ。遠くない将来、繻子の靴を脱がされて、いばらの森へ、裸足でひとり旅立たなければならない。

 だが、舒舒。

 恋人が浮かんだ。名前が、姿が、声が、愛した記憶が、ほどけて糸となり、睿の心に巻きついてあたためた。舒舒も、行かないのかもしれない。微かな希望に少し心臓の音が柔らかくなったのを、娘は敏感に悟った。その肩が緊張し、震える首筋が朱に染まる。ぱた、ぱた、と熱い泪の粒が、睿の胸や腹に滴り落ちた。

 娘は睿の胸を繰り返し叩いた。やがて頬や頭も構わず叩き、左頬を強く張られたとき、睿は鉄の味を感じた。指に絡んだ彼の黒髪が、無惨に引きちぎれた。

「どうして皆、わたしを弄ぶの? 愛している、大切だと云っておいて、何もかも嘘。月がわたしに教えるわ! ずっと閉じ込めておいて、本当のことは何ひとつ見せないで、馬鹿にしているわ、爸爸も……哥哥も! わたしは目を持ってるの、真実を見るための目を。皆はわたしをどうしたいの? わたしは匣にいれておいて、遊びたいときに取り出すおもちゃの人形なの?」

 娘の嵐を甘んじて受けながら、睿は舌の上の血の味が、ゆっくりと口蓋や舌の裏に広がっていくのを感じていた。ひどく悲しく、苦々しい思いで。

 この娘も囚われているのだ、と脣を噛む。

 硝子匣のなかの人形。溢れかえる衣裳と、不自由を与えられ、花の盛りを闇の奥で過ごさなくてはならない。どんなに声をあげて燃えようと、覆いのなかで瞬くばかり。

 皆、人形だ、と睿は嘆息した。

 自分はきっと、手足をもがれた蚕のからくり細工。糸を繰って呪うのが取り柄だけど、その首にもまた糸が巻きつき、逃げることは許されない。

 舒舒は操り人形だ。睿と同じように、その首には糸が巻きついている。違うのは、睿は流浪の民であり、慈悲に背けば明朝にでも首をはねられる孤児ということと、舒舒は、妾腹であれども確かに実子であり、社交界の造花を演じる愛しの娘の人形ひとがたということ。

 この浮き世で、人形でない生き方など、もはや残されてはいない。



 はるか遠くの山裾まで焦がすような庚申薔薇チャイナローズの絨毯が、邸の花畑に敷かれている季節だった。

 花のなかに佇む睿の、長い上衣の裾には漣のぬいとりがされ、長い黒髪は相変わらずサテンのリボンと一緒に編まれて、その背に垂れていた。

 そんなに背が高くなければ、女に見えると邸の小間使いに揶揄われたことを思い出す。

 うつむいていた睿は、不意にある方向へ顔を向けた。その指先が、伝わってきた感覚をいとおしむように微かに動く。はりめぐらされた彼の術に、愛しい相手の指が触れた。

 彼が糸の術のことを話したら、蜘蛛の巣にかかってしまったのだな、と舒舒は笑う。わたしは睿の獲物だ。かわいそうな蝶は、あわれ蜘蛛に食べられてしまう、と睿の長い手足と自分のそれを絡め、優しく踊る。

 今晩の舒舒は、ドレスから着替えて屋敷から抜け出してきたようだった。花畑を小鹿のように駆けてくる、紫の長上衣を着た姿は紅楼夢の時代の女中のようで、年齢にあわせた黒繻子のイブニングドレスを着ているよりも、ずっとしなやかで軽やかに見えた。そのまま、あずまやで睿が広げた腕のなかにふわりと飛び込んだ。花に蝶がとまるように。

 ふたりがいるあずまやは、真っ赤な夕焼けの湖に浮かぶ小舟のようだった。

 睿の胸元の服を、遠慮がちに握った舒舒は、睿がくすくす笑っているのに気がついて見上げた。彼は背で組んでいた手を前に持ってくると、その掌の上には花の冠があった。瑞々しい茎の青さに、先刻まで彼はこれを編み続けていたのだろうことがわかる。

「睿は本当に器用だ」

 舒舒は微笑み、何もかもわかっているように膝を軽く折る。薄紅の庚申薔薇チャイナローズの輪に、白銀にかがやく針槐の花房を垂らした冠を、舒舒の額に載せる。舒舒は幸福そうにくすくすと笑みをこぼし、揺れた冠から花びらが落ちる。

「こら、笑わない。…世が世なら、貴女は皇后ですよ」

「それならあなたは皇帝だ、葉赫那拉氏の末裔よ」

 睿は苦笑して、恭しく跪く真似をする。

「御手を」

 舒舒は睿に手をとられ、そのままじゃれるように彼の腕に自分の指先をすべらせ、ひたりと体をあわせた。社交ダンスとは少し違う形で、もっと南で好まれる、恋のダンスに似ていた。ふたりは蝶の真似をするように二、三歩ステップを踏んで、黒髪をひるがえしてくるりと回った。絡んではほどける指先は蝶の羽ばたきとよく似て、つぼみの開花から花が散るまでを早回しで見ているように神秘的だった。

 どちらからともなく動きを止め、音もなく腕をおろす。見つめあったまま、ふふ、と笑った。

「夫婦とはふしぎなものだ」

 あずまやの椅子に腰かけて、睿の膝を跨ぐと、舒舒は体を寄せた。布がしゃらしゃらと擦れ、肉が柔らかくその奥の骨と一緒に融け合おうとする。

「家族なのに血は繋がっておらず、交わりを赦される、こんな奇妙なものがあるだろうか。親とも、児とも、同胞きょうだいともちがう。家族として愛している、其れは確かだ。しかし、この心は、触れたいという欲望はどうしたことか。之は火だ。炎だ。人の身では御することは不可できない」

 純粋だが率直な物言いに、微かに睿は顔を赤らめた。舒舒は睿の胸にこめかみを押しあてたまま続ける。

「遠く離れていると不意に火花が此の胎の奥で爆発する。心の底からと想う。その激しさときたら、洪水か、雷雨か、これは何だ? この身のうちで業火が燃え盛るようだ。母が死んだ夜も、こんな濁流が心を呑み込むことは無かった、こんなことが在っていいのだろうか、あなたと出逢って、まるきり、わたしは獣のようだ」

 白いうなじに、薄紅の花びらが落ちた。黒い髪を優しく指でどけると、皮膚に覆われた頸椎の波を撫でた。ここに、くちづけをするのが好きだった。

 睿は舒舒の頭を抱くと、耳元で囁いた。

「貴女と全く同じことを、私も感じているのですよ。夜毎に貴女が恋しい。無慈悲な闇の帳を見るたび、隔つ世界よ燃えてしまえとすらねがう。ねえ、舒舒。私は氷の人形では無いのです、貴女が最もよく知るとおり。

 人の云う愛はもしかしたらこのような形ではないのかもしれませんね。しかし、貴女が獣というのなら、私もきっと獣でしょう。私たちは……同じだから。

 舒舒、自分たちが、道を外れていると思いますか。人の云うことなど関わりがありますか。此処は月の土地、私たちはふたりきり、滅びゆくだけの生き物です。民のいない国の、皇帝と后。それでよいではありませんか。

 火は燃える、何をせずとも、心はかれるのです。抗って何になる、我が身のうちから目を背けて何になる。

 舒舒、私の愛しい人。この炎こそ魂でなくて、いったい何だと云うのです」




 ねえ、私の愛しい人。

 もうすぐ終幕かもしれない。あなたと私だけが最後のつがい。

 けれど、我々はこれきり滅びるとて、なにがどうなると云うのです。

 あなたは私の火。

 あなたは私の炎。

 あなたこそが、この世にたったひとつの、私の光。

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