第8話
夜半、鈴が鳴った。
外には、いちめんの闇。
何かが近づいてくる。音もなく、風だけが駆けてくる。喰らいに来たぞ、と囁く魔物のごとく。
睿は
泥に礫が落ちるように、見えない壁が揺らいだ。硝子の手前で跳ね返されたものが闇に沈み、そして、またぞろりと其の姿を顕した。
眼球のない鴉が、怨めしそうに此方を見ていた。睿は淡々と、その嘴が結界を破ろうと血を流しているのを観察しながら、口のなかで禁呪を唱える。
鴉がはぜた。体表が黒百合のごとくめくれあがり、墨でつくられたような臓腑が飛び散った。黒い血飛沫が窗にかかり、嫌な音を立てて蒸発する。
血のかかった、窗の縁に貼った札が、黒く腐って端から灰になる。消える前に新しいものに貼り替えると、睿は息を吐いた。舌の上の刺青から血の味がする。
憎い相手の、大切な存在を奪うという復讐方法を初めに考えだした者は誰だろう。
睿は、幾重にもはりめぐらされた、血と墨のまじないの中心部にいる自分の守るべきものを思った。入れ子細工の皇女。その空想は、蜘蛛の巣に捕らわれた蝶のようにも容易く転じた。
繭のなかで、怒り疲れて睡っている娘は、悪意に気づくこともない。泪の痕がついたかんばせは、胡桃の殻のなかで睡る子どものように薔薇色の火に満ちている。
──
高い声が甦り、睿は眉間を揉んだ。
娘が握りつぶした造花の菊が、床に落ちている。それを拾い上げて、化繊の綻びをそっと撫でた。耳の奥に、叫んだ娘の声がこだまする。
甘ったるい、弾けるがごとき、真紅の炎。
此れが、女の魂というものなのか?
黒い炎、つめたい影の魂をもつ者には解らぬ、生のきらめきだというのだろうか。
睿は造花を袂にいれ、ため息をついた。舒舒と語らうときの、水のようにさらりとした静かな佇まいが恋しかった。月、夜、銀色。彼女との対話はいつも、睿の魂によく馴染むその色に満ちていた。
遅い、と感じたのは、花畑をうねらす夜風が激しくなってからだった。娘の代わりに、あるじについて出掛けた舒舒の帰りが、遅い。
睿は娘を蜘蛛の獲物と例えたが、この上海の邸の広大な敷地内からその周囲の街までの道には、それこそ五色の蜘蛛の巣のごとく、睿の敷いた見えない術がはりめぐらされている。己れが紡いだ糸の砦から、するりと抜け出ていく舒舒の感覚を、そして、そっと其の糸に触れ、帰ってきたと伝える舒舒の感覚を、睿は憶えていた。本当なら、彼女だけを守る繭を作りたかった。紅や金銀や、いろんな奇麗なもので、彼女を鎧えたらと幾度も思った。
拳を握りしめる。その掌中から伸びた想いの糸が、ぐしゃぐしゃと絡まっていく。絡まる糸が夜闇をかき混ぜ、邸をかこむ黒の濃淡がうねる。眼下でのたうつ花の絨毯で、幾つも萼が落ちた。
自分は蚕だ。飼われる以外に生きる術を持たず、檻の中で血を吐き、白く曳く絲を繰り、いつか茹殺される。火はもう焚かれているのだろうか。
しりん、と鈴が鳴った。弾かれたように睿は顔をあげる。唯ひとすじ、紫の糸。
睿が舒舒のためだけに繰った一本だ。ふたりを繋ぐ唯一の、他の誰にも知られていないもの。まぼろしは黄昏の紫にきらめき、闇のなかに幾度も火花が散った。
戻ってきた舒舒を迎えに出て、睿は一瞬言葉を失った。影から現れた彼女の、死人のように青白いかんばせに、背筋を氷が滑り落ちたような心地がした。
舒舒の腕には、繃帯が巻かれていた。深く切れた傷口を縫って、兵士のように交差して巻かれた腕をとって、睿は問い質した。
「切られた」
弱々しくこぼした舒舒に、つい強い口調で「どうして貴女がこんな目に」と返してしまいそうになり、ぐっと飲み込む。分厚く巻かれた白に、指を当てた。睿はそれでもなお言い募りたくて、口をつぐんだ。人殺しに刃向かえる皇女は居ない。
「
自分に言い聞かすように、舒舒は呟いた。
「少しでも長く、お嬢様でいなければならない」
あたりの草木が
繃帯をなぞった腕が怒りで震えた。娘の傍を離れられない自分が憎らしかった。
不意に、舒舒は、睿の胸に額をおし当てた。ぎゅっと、睿の服をつかむ。
「怖かった」
いつでも伏流水のように落ち着いた彼女の声音が、初めて震えているのを聞いた。少女の声、十七歳の舒舒の声だった。
「生まれて初めて、運命に抗いたくなった」
ナイフを避けてはいけないと思ったとき、動けない身体に閉じ込められた心が叫んだと。
「このまま死ぬんじゃないかと」
鎖骨や胸骨がわかる、薄くて固い胸の奥で、心臓のあたたかい音がした。睿は、ゆっくりと舒舒の身体に腕をまわして、抱きしめた。
「会えなくなるのが怖かった」
気づいたら、こうなっていた、と舒舒は傷を見せた。襲撃者は護衛のものに殺害され、その血は熱かったと俯く。
「
睿にだけはその気持ちが解る。彼にしか解らない、森を追われた最後の
いつでも間に、見えない少女がいた。そうしていないと、いられなかった。
ならば、今ふたりだけのこのとき、自分達はどのような関係だといえるのか。
本当は解っていた。靄がかったままでいたかった。
反して舒舒はか細い声で喋りつづける、堰を切ったように止まらない。溢れる黒い水、赤や紫を押し流す黒い水。銀色の月、あの透明な輝きが胸を切り裂く刃に変わる。
「これまでは怖いなんて思えなかった」
「誰の顔も思い出さなかった」
「怖い」
「死にたくなくなるのが、怖い」
「あなたを思い出すのが、」
睿は低く、獣のように呻いた。
躰の奥の水が、どろりと濁っていく。蓮の咲く泥の海のように広がって、躰を焙るように満たしていく。
黒、赤。血に似た、熱くて、甘ったるい、生々しい炎。千変万化するその切片が、さまざまに彩をうつす。火、蜜、……慾。
恋。
睿は舒舒を力の限りかき抱いた。
月が白かった。
夜は青かった。
黒い髪が、ふたつの河が流れ込むようにたゆたい、ひとつの闇の色をした海になった。あずまやのなかでは、満開の月下美人が溢れて、音もなく秘めやかに囁きあった。氷のような花びらがすべてを覆い隠していた。
裸足は冷たかった。上海の夜風は背に爪を立て、淫れる吐息を震えさせた。闇に、あたたかな水が落ちた。
人は火だ。まばゆくその身を灼き焦がす、血の炎。いちめんに燃え広がる、命の熱情。
「月には、なにが棲んでいると想う」
掠れた声で舒舒が呟いたのは、月が沈む頃だった。花が揺れる音はさざなみに変わり、嵐は過ぎ去ったあとのように、花びらの白瀚がゆらゆらと煙めいて揺れていた。月下美人は花を閉じていた。
舒舒の髪に触れながら、睿は返す。
「…玉兎の話ですか」
衣擦れよりも微かな会話は慣れたもので、舒舒は髪を梳く睿の指に、そっと自分のそれを添えた。
「……月に棲めればいい。つめたくて、さびしくて、何もない
睿は、舒舒の指に指を絡ませ、あずまやの下から、夜空を見上げた。朝はまだ遠い。けれど確実に近づいてきている。砕けた月は花畑に散らばって、仄かにきらめきが残るだけとなっていた。
「ふたりで」
睿は背後から舒舒を抱きしめ、耳元で応えた。舒舒はその腕に躰を預ける。彼の黒髪が垂れ落ちてふたりの髪が混ざりあうことに、背徳ではなく安らぎを感じた。
どれだけ嵐が吹き荒れようとも、世界は変えられない。死はふたりに影となって張りつき、運命は血のなかを巡っている。ならば今此のときだけは、甘い夢を視よう。
生きたまま亡霊となった者たちが棲まうべき処など、とっくに失われている。
この世に居場所がないのなら、この世の涯てまで逃げてしまおう。
睿は髪紐をほどいた。いつも自分の髪を編んでいたそれは、驚くほどするりとほどけた。まるで今がその瞬間だというように。
赤い花房のついた、小さな紫水晶。
母の唯一の形見だった。
いつか愛する人に贈るように、唯一遺した魂の欠片だった。
揺れる
「わたしの傍にいて」
声は、ふたつ重なった。振り返った舒舒は、濡れた瞳で微笑んでいる。互いの首に腕を回し、額をふれあわせた。
わたしはあなたの恋人。
この世でたったひとりの同胞、この魂を共有する唯一の火。
どこへ行こうとも、心は離れまい。あなたがいるのなら、どんな地獄も耐えてみせる。
そしていつか、ふたりで月に棲みましょう。
「睿」
魔都の夜であった。月は白く、不夜城の灯りが目映かった。
「睿」
窓辺で本を読んでいた舒舒が、顔をあげて呼ぶ。帳を季節のものに掛け換えていた睿は、「少し待って」と声をかけて、仕事を終えてから舒舒の傍らに寄って座る。
「
舒舒は、月明かりを頼りに眺めていたらしい、逆さまになった中国のおとぎ話集を指差した。僵尸の脳は、長い文章を読むようには出来ていない。睿は本をひっくり返しながら、その挿絵を見た。嫦娥奔月と題されたその頁には、漢服を着た美しい娘と三日月が描かれていた。
「此の
舒舒の長い爪が、俯き加減の女の顔を指した。睿は頤に手を当て、「嫦娥です」と答えた。
「嫦娥は、たしか弓の名手、后羿の妻で……諸説ありますが、これはどのパターンでしょうね……ああ、この流れ……」
本文を斜め読みした睿は要約した内容を、既に書物から興味を失いつつある舒舒に教える。その昔、十の太陽が人々を苦しめていた時代に、九の太陽を射落とした英雄、后羿の妻であった嫦娥は、后羿が西王母より賜った不老不死の妙薬をひとりで飲み干してしまう。その理由は諸説あるが、結末はひとつだ。
「彼女は、夫と永遠に離れ離れになって、月でひとり暮らしているのです」
ふうん、と頬杖をついた舒舒は首を傾げた。長い黒髪が垂れ落ち、赤い飾り紐が揺れる。
睿はそのまま本を閉じ、彼女の額を撫でて前髪を整えてやる。青白くてつめたい肌に、月光が冠を添えていた。
舒舒の真っ黒な瞳が、純な闇をたたえて睿を見つめる。
「
灰色の脣が、子供のように微笑む。十五年変わらぬ容姿の、変わらぬ微笑みだった。
「ええ。………ええ、私も、私もそう思いますよ、舒舒。
あなたさえ居てくれるのなら、他のどんな地獄にだって耐えられる」
睿は舒舒の髪を梳き、髪飾りに指を絡ませた。赤い花房のついた、古びてもなお美しい
花嫁衣裳と揃いの紅は、月下で、燃え立つ火のように鮮やかだった。
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