第7話

 十歳。

 夢を視る。夜の海を揺蕩たゆたうように、月の小舟が流浪たびするように。

 ルイの隣でねむるとき、眼を閉じれば、只の屍のはずなのに、わたしは夢を視るようになった。

 内容はよく憶えてはいない。ただ、覚醒めざめたとき傍らに感じるぬくもりと同じものを、夢の中でも味わっているような気が、するのだ。熱い掌と、可懐なつかしい、いとおしい、こえ……。

 夢のとばりの向うで、黒い髪が揺れる。誰のものだろう。わたしが立っているよりも遠く、水底で揺らぐように、黒髪が揺れている。水面というよりは……鏡のようだが。

 とりとめなくからっぽの頭で夢を反芻していれば、無意識に喉元に手をやっていた。此のあたりまで、胸中で羽ばたく蝶のような落ち着かない気持ちがつかえて、あがってくるのだ。夢が泡になって、つぼみを泥の底から押し上げてくる。此の莟の名前は、恐らくは、愛。

 好きだからだろうか。

 だから、夢をも視るのだろうか。

 したいわたしが!

 十年もこの世に繋ぎ止められていると、腐りかけの脳に浮かぶ疑問は尽きない。海の泡のように日々の底から溢れてくる。

 生きていた頃のことはなにひとつ憶えていなかった。けれど、此の夢が、今はわたしを支えている。睿。あなたが知るかつてのわたしは、あの夢の中に居るのだろうか。

 風の強い夜だった。

 沢山の乗客が寝静まった列車は、見知らぬ鉄橋を渡っていく処だ。線路の下で、蝋をひいたような蓮の葉が、青い夜にほんのり耀いて視えた。

 睿と並んで腰かけた座席は、ふたつで向い合わせになって、背中合わせのところを壁で仕切られている。まるで箱のようで、少し己れの棺桶を思い出した。わたしの棺桶も、ふたりで入れればいいのに。そうしたら淋しくはないのに。

 わたしたちは長い時間をかけて、南の内陸部から、海沿いの街を目指していた。

 船に乗る、と睿は云っていた。わたしは船も、海もみたことがなかった。

「お嬢さん」

 むかいの席から喋りかけられたことに、暫時しばらく気づかず、何度めかの呼び掛けでやっとわたしかおを向けた。客室のように別けられた相席で、気の良さそうな老夫婦が我々の前には座っていて、其の良人おっとの方がわたしに話し掛けているのだった。

「おふたりで旅行かね」

 訛りが違ったけれど、そんなようなことを云ったのは解ったから、わたしはすなおに首肯うなずいた。好好爺然とした老人は、皺に埋もれかけた眼を更に細めた。

「そりゃあいい。わたしたちも、そうなんです」

あなた方も、夫婦か」

 彼等は笑ったまま肯定した。

 わたしが口を利けるようになって、睿はわたしを伴うことが増えた。話し掛けられてもぐにゃぐにゃせず、短く応えることができるから、少しの間なら露見しない。喋り方が少し可笑おかしくても、存外人は疑わない。

 老人の隣で、老婆が微笑んだ。二人ともよく似た地味な扮装いでたちをした、灰色の髪をした夫婦だった。老人が、わたしの隣に眼を遣る。

「旦那さん、お疲れのようで」

 わたしは隣に座る睿に視線を向けた。夜が更けた頃から、睿は壁にもたれて睡っている。真冬の獣のように、半ば以上白く染め変わった髪が、首筋に少し落ち掛かっていた。其の編んだ髪と同じくらい白い頰に、車窓から時折射し込む月光色の青い翳が踊っていた。浅い呼吸と瞼の隈が、未だ三十路と云うには奇妙すぎる外見をした、わが良人おっとのかんばせに病的な気配を漂わせていた。

 放浪とは、命を少しずつ落としていく旅なのだ。してや傍らに屍を伴うともなれば。

「お名前は」

 其の問いが、睿を見ながら発せられたもののような気がして、わたしは口を開いた。

ルイだ」

 答えると、老人は微笑んだまま「苗字はなんと」と訊ねた。

納蘭ナラン

 返すと、目許の皺が渓谷のように深まり、遂に老人の眼が見えなくなった。老婆が、膝の上で手を擦り合わせた。

 列車がまた、橋を渡る。鋼の車輪が軋む音が大きく響いて、古びた座席が跳ねた。まどの外には、水墨を流したような灰色の池が広がっている。その上に、枯れた蓮の茎が、幾何学的な模様をえがく。色の無い、冬景色だ。先刻の青い蓮はまぼろしだったのだろうか。車輪が跳ねる、列車の揺れが増す。

「その人が、あなたの旦那さんなのね」

 老婆が微笑んだまま、深い皺に挟まれた脣でゆっくりと問う。わたしはかくりと頷くが、彼等をほんの少し不気味に思った。

 瀟々ざわざわと窗の外が騒がしい。樹木の音か、それとも。

「お嬢さん。あなたのお名前は」

 紅い実が血しぶきのように窗を叩く。此れはなんの樹だったろうか。雪の似合う、血のように真っ赤な実だ。……花嫁衣裳のような。

 ぐぅらりと、頭蓋が揺れた。また列車が揺れたのだ。今度は曲がっている。窗の外を歪んだ紅の樹木が流れていく。ああ。血が欲しい。

 わたしは口を開き、血を啜る代わりに、名を告げた。

舒舒シュシュ

 紅を滴らせる器のように、老人の口が笑みの形に開いた。象牙色の、丸い歯。並ぶ其れの隙間からひゅお、う、……という夜風のようなおぞましい吐息が洩れた。そのくすんだ生臭い色をした脣が蠢いた。

 老人のかいなが音もなくしなり、その灰色の袖から蟲のようなものが飛び出した。叫ぶ間もなく其れがわたしの胸元に貼りつき、咽喉を潰されたように聲がでなくなった。

 黄色い札。肋骨を割りひらき、心臓を縛る痛み。此れは、わたしを屍に戻すもの!

 睿、と喚ぼうとした。その瞬間、瞼を開けた睿の暗灰色の瞳が、矢のように老夫婦を捉えた。

 今まさに睿の頚に針を突き立てようとしていた老婆の腕を上体を捻って避け、その動きで仕込み杖を抜いて突きの動作で手首をくるりと回転させた。同時に老婆が崩れ、その体の影から刃が老人の両頰を貫き、壁に縫い止めていた。睿の手首が返され、其の顎ががぱりとずれる。老人の首から血が噴き出し、咽喉で聲が泡になって血の池から溢れた。ぱっと散った臭いに本能的に舌嘗めずりしたわたしの腕を、しかし睿が掴んで、胸元に抱き寄せた。爪先になにかが当たって、見下ろすと、老婆の灰色の頭が転がっていた。その首筋を蹴飛ばす睿の靴先が、隠し刃の銀と血に光っていた。

「追手です」

 短く言った睿は、素早く老人たちの持ち物をまさぐって何かを確認していた。わたしには追手という意味が解らなかった。追われているのか、我々は。何故。いつから。此れまでも本当は?

 足元の血泥濘ちだまりに落ちた黄色い札が、瞬く間に赤黒く染まって、睿の靴にぐしゃぐしゃに踏まれた。

「素直なのはあなたの美徳ですが」

 はねあげ式の窗を押し開け、夜風になぶられる白い髪を押さえながら睿は低く囁いた。

「舒舒。人はね、若いのに白髪の男や、息をしていない女に話しかけたりはしないものですよ」

 彼は桟に足を掛け、走っている列車の外に身を乗り出した。止まり木に留まる鴉のような恰好で、黒い外套が翼のように激しい風にはためいた。長い腕を伸ばして列車の屋根に右手を掛けると、左手をわたしに向けて差しのべた。星の見えない夜の下で、不思議と睿の輪郭だけが菫色に燃え、どんな星より慕わしかった。

 その瞬間、彼の姿に重なり、落雷のように激しく一景あるけしき倒叙よみがえった。

 いちめんの花の匂いと、夜におおわれている。

 わたしは立っている。水ではなくて、鏡の前だ。鏡には女と、その後ろにはもう一人男が立っている。墨を流したような黒い髪をした、──睿だ。

 わたし自身が彼に向かってなにかを話しかけている。けれど、水の底のように自分が何を言っているのか解らない。

 哥哥にいさん、と聴こえたような気がした。

 彼は奇妙に表情がない。月が隠れて、星もなく、あたりは昏い。だから彼の顔は見えない。

 ひらり、と白が舞った。ふたつの世界にまたがって、雪が降っている。花びらに変わり、不思議な、どこか生々しい花の匂いが支配する。

 鏡のなかの睿が、わたしの頚に、なにかを巻きつける。其れから……。

 夢の反射は一瞬だった。まぼろしの稲妻が消え去れば、其所には愛しい男の姿しかなかった。たなびく白髪が銀や青や黒や、碎ける刹那のように燦めいた。

 桟を蹴った睿が、次の瞬間猫のように屋根にあがってわたしを引き寄せた。彼に引かれるままいっしょに跳べば、風に乗ったような爰地ここちして、ぐいと傾く屋根の上に引き上げられた。轟、と真正面から風とぶつかる鉄の車体がときの聲に似た音を立てた。

「この先、曲がるところで減速しますから、飛び降りますよ」

 わたししっかり胸に抱き込みながら、睿は目を細めて列車の行先を睨んでいた。礫のような夜風が頬を叩き、たなびく服と髪が蛇のようにお互いに絡まる。棺桶は、老夫婦の死体はどうするのだろう、と思ったけれど、其のときにはもう睿が「今、」と呟いていた。

 躰が浮き、黒い羽根に包まれたような気がした。爪先が空を躍る感覚はまるで地獄に堕ちていくようで、睿の躰の熱がなければ耐えがたいほどに死を近くに感じた。身のうちに巣喰う空っぽのでなく、ほんものの……存在の消滅!

 だが、幻想は瞬きより早く消え失せた。列車から飛び降りたわたしたちは、真っ赤な実が揺れる樹木のなかに墜っこちた。拡げた腕のごとき枝が緩衝し、人骨を折ったような音が耳許でした。衝撃にがたりと躰が折れ曲がるのを、頚に絡んだ睿の腕が止めた。その感覚にふと先程視た幻影を重ねる。花の匂い、黒い髪、わたしの頚に巻きつく、睿の……。

 湿った地面に転がっていると、目の前に真っ赤な実も、転がっているのに気がついた。死んだ人の頭のように無防備。おそろいだ。

 雪が降り始める。頬にかかる雪を、睿が拭う。起きられますかと訊かれて、ぎこちない動作で起き上がると、頚のあたりから少し歪な音がした。

 わたしの頚。

 夢の温度が消えない。熱が、白い頚を灼いている。

 あれが、わたしの生前の記憶なのだろうか。

 あの老夫婦は、我々の昔のことを知っていて、それであんなことをしたのだろうか。追手というのはなんなのだろう。違う、とは、なにが違うのか。

 点々と、白い雪で斑になった黒土に、真っ赤な実は落ちている。降る雪ごしに、ぼうっとその色彩を見つめていると、睿がわたしの手を引いて、何処かへ歩きだした。わたしはそのままついていく。主人ルイが行く先が、僵尸わたしの行く先だから。

 その背を見ながら、あれ、と思った。黒土を覆う雪のように白い髪に、血が飛び散っている。降る雪ごしにみた景色と同じ色に、変なきもちになる。せかいと睿が重なっている。わたしの濁った眼球にうつるのは、せかいが先か、睿が先か。

 まぼろしかもしれない。

 わたしの視ているこのすべてが。

 魍魎かいぶつの四肢を折り砕いて積み上げたような木立から脱け出ると、荒野へ続く線路が、巨大な獣の背骨のように皓々しらじらと光っていた。あたりは、まるで屍ばかりだ。列車の外のせかいは夜台はかばに似ている。

「睿」

 線路を歩きながら、わたしは睿の袖をぎゅっと握った。睿が振り返ると、白と黒の髪が雲のようにたなびき、黒い外套もやはり、鴉の羽根のように翻った。蒼白いかんばせに、暗灰色の瞳。わたしを優しく見つめる、無彩色の愛。わたしはそれがつらい。いつまでも睿が、冬のせかいで凍えているようで。

 此の隣に、色彩を足したい。彼に幸福の血を与えたい。

「次の街についたら、紅が着たい」

 わたしの詞に、睿が一瞬、足を止めた。

 無音の雪。

 彼が振り返る。見上げるわたしと、視線が絡む。無彩色、純な愛。

 睿が、不意に、泣きそうに微笑んだ。

「紅、ですね」

 手を撫でられる。一本一本の指を、掌を、妾がそこに居ることを、雪の人形でないことを、彼は熱以て確かめる。

「ええ。そうしましょう。あなたにはよく似合うでしょうね。次の街についたら必ず。舒舒、あなたの好きな色を撰んで。いっとう奇麗なのを誂えましょうね」

 其の聲にわたしは確信する。現が夢でも、夢が過去でも、わたしにはなにひとつかかわりない。睿がわたしを愛している。そのことさえ永遠であるならば。

 喩えどんなに惨くとも、睿が居るせかいは幸福だ。

 そう想わせてくれる、唯ひとりだ。

 雪のなかを闇に向かって歩みながら、わたしは睿の手をそっと握り返した。

 わたしは睿のためにここに居る。

 からっぽの屍に残されているのは、つめたい血ばかりだから。夢の語るやもしれぬ真実の一片を、閉じ込めるための空虚に滴る紅を、あなたのためにいかしたい。魂の代わりとなる炎を、仮初めでいいから纏いたい。なにもないのなら、焚き火となって、雪の夜もあなたを照したい。

 疑問を抱くよりも、したいことがたくさんある。

 いまのわたしは、あなたの花嫁だから。

 わたしは屍。

 わたしは僵尸。

 魂のない、あなたの人形はなよめ



―夢見ごこちのあの頃を覚えておいでか。

―覚えてゐてもどうなると仰有るのです。

─ヴェルレエヌ 斎藤磯雄訳「感傷的な対話」





 そして、今。

 十五歳。

 血と硝煙のにおいがする魔都、香港で、わたしは睿と、洋鬼ヤンクイを狩っている。

 此の半島では、黒幇マフィア洋鬼ヤンクイが激しく対立していて、互いに鎬を削っている。理由はよく知らないが、何でもやはり、愛が発端らしい。悲劇は大抵、愛が成すのだ。

 洋鬼ヤンクイは狩ると灰になってしまうが、其の灰を睿はお茶に入れる。残ったものを黒幇に渡して、報酬を貰う。故郷は遠く北、ことばも、文化も異なるが、今まででいちばん、安定した生活だ。

 三年前、大陸から船にのって、海を航った日。

 朝焼けに真っ赤に染まる海を見つめながら、埠頭で睿はわたしを抱き寄せた。潮風は口蓋に触れると鉄と同じ味がして、胎の奥に滴り落ちていった。

 毛先だけ墨に漬かったように黒い、長く伸びた睿の白髪がゆらゆらと煙のようにたなびいて、わたしの頚に絡みついた。

 匣の無数に積み重なったような街の影で、わたしを抱いたまま、睿は誰にも聴こえぬよう、耳許で囁いた。

「やっと此処まで来ましたね」

「睿。ここが、此の魔都が、睿の目指す場所か」

いいえ。──まだ、最終到達地点ではないのです。まだ、あなたは冷たいのだもの。

 ……殺しましょう。舒舒。あなたからすべてを奪った奴等は、何処にだって居るのです。好きなように、あなたが狩りをしたいと云うのなら。夜はあなたのものです。

 でも、此れだけは憶えていて。あなたは永遠に、私が守るから」



 安普請の居民楼アパートの一室に、追手の眼を逃れて密然ひっそりと棲みついた我々の荷物は少ない。巨大な棺桶と衣裳櫃だけだ。

 十五年、睿がわたしに与えてきたものを仕舞ってある衣裳櫃はたくさんの服で溢れていて、殺すたびに増えていく気がする。真っ赤な花嫁衣裳、赤すぐり色の外套、紅絹の夜会服、朱色の襟飾り、我々が流した血が匣の底から溢れて、染め変えていくのだ。

 夜になると、睿がわたしを起こす。そうして、何もない晩は出掛けたり、窓辺でほんを読んだりする。けれど、狩りの晩は。

 街が騒めく。狼の夜だ、嵐の月だと。昼夜がくるりと反転すればそこは魍魎の舞台、鉄色の風にのって、さあかたきを殺しに行け、と。

 どんなに粧し込んでいても、そういうときはあの服を着る。魔都に来て、海を越えて初めて誂えた、世界でいちばん憧れていた真紅。

 葡萄酒色の夜会服を脱ぎ、黑苺の耳飾りを外して、貂の襟巻きをとる。慣れ親しんだするするとすべらかな絹の音がして、目を開ければ鏡のなかには──真っ赤な花嫁衣裳!

 婚礼とは此のような爰地だろうか? 垂れ落ちる紗と大輪の牡丹が冠に飾られ、ぐんと頭が重たくなる。睿の細い指がそっと飾り房をなでると、漣の音がしてちらちらと赤が光った。

 鏡のなかでふたりの影が寄り添う。白黒のなかに咲く真紅が、わたしの望んだものだった。

 睿、わたし良人おっと、黒い外套に、白い髪の花婿。蒼白いかんばせのなかの暗灰色の瞳は甦った夜からわたしだけを視ている。

 彼が何れ程のものをわたしの為に棄てたのか、理解していない心算ではない。

 わたしの為に生きる、わたしの主人。

 だからわたしも、彼の為に死んでも生きるのだ。僵尸に、獣に、鬼になる。たとえ此の身がどうなろうと、彼の幸せこそがたったひとつ、わたしの未だ亡びぬ理由。

 それが愛というものだから。

 その真っ赤な愛だけが、空っぽの人形わたし舒舒わたしたらしめているのだから。

 魂はない。だが、愛はある。

 わたしは屍。

 わたしは僵尸。

 愛でいっぱいの、あなたの人形。

 あなただけの、真っ赤な、血の人形。

 見えるだろうか、互いの頚に絡まる互いの髪が。白と黒の混ざりあった綜紐くみひもはけして解けない。此れを辿っていった先が、わたしたちの求め続ける終焉しあわせだ。

 地獄に堕ちるときも、永遠にあなたと共に。




 今ではもう私たちのどちらが犠牲者なのか判然としない。たぶん互いが互いの犠牲者なのだろう。

─アンナ・カヴァン『氷』

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