第7話
十歳。
夢を視る。夜の海を
内容はよく憶えてはいない。ただ、
夢のとばりの向うで、黒い髪が揺れる。誰のものだろう。
とりとめなくからっぽの頭で夢を反芻していれば、無意識に喉元に手をやっていた。此のあたりまで、胸中で羽ばたく蝶のような落ち着かない気持ちがつかえて、あがってくるのだ。夢が泡になって、
好きだからだろうか。
だから、夢をも視るのだろうか。
十年もこの世に繋ぎ止められていると、腐りかけの脳に浮かぶ疑問は尽きない。海の泡のように日々の底から溢れてくる。
生きていた頃のことはなにひとつ憶えていなかった。けれど、此の夢が、今は
風の強い夜だった。
沢山の乗客が寝静まった列車は、見知らぬ鉄橋を渡っていく処だ。線路の下で、蝋をひいたような蓮の葉が、青い夜にほんのり耀いて視えた。
睿と並んで腰かけた座席は、ふたつで向い合わせになって、背中合わせのところを壁で仕切られている。まるで箱のようで、少し己れの棺桶を思い出した。
船に乗る、と睿は云っていた。
「お嬢さん」
「おふたりで旅行かね」
訛りが違ったけれど、そんなようなことを云ったのは解ったから、
「そりゃあいい。わたしたちも、そうなんです」
「
彼等は笑ったまま肯定した。
老人の隣で、老婆が微笑んだ。二人ともよく似た地味な
「旦那さん、お疲れのようで」
放浪とは、命を少しずつ落としていく旅なのだ。
「お名前は」
其の問いが、睿を見ながら発せられたもののような気がして、
「
答えると、老人は微笑んだまま「苗字はなんと」と訊ねた。
「
返すと、目許の皺が渓谷のように深まり、遂に老人の眼が見えなくなった。老婆が、膝の上で手を擦り合わせた。
列車がまた、橋を渡る。鋼の車輪が軋む音が大きく響いて、古びた座席が跳ねた。
「その人が、あなたの旦那さんなのね」
老婆が微笑んだまま、深い皺に挟まれた脣でゆっくりと問う。
「お嬢さん。あなたのお名前は」
紅い実が血しぶきのように窗を叩く。此れはなんの樹だったろうか。雪の似合う、血のように真っ赤な実だ。……花嫁衣裳のような。
ぐぅらりと、頭蓋が揺れた。また列車が揺れたのだ。今度は曲がっている。窗の外を歪んだ紅の樹木が流れていく。
「
紅を滴らせる器のように、老人の口が笑みの形に開いた。象牙色の、丸い歯。並ぶ其れの隙間からひゅお、う、……という夜風のような
「違いますよ」
老人の
黄色い札。肋骨を割り
睿、と喚ぼうとした。その瞬間、瞼を開けた睿の暗灰色の瞳が、矢のように老夫婦を捉えた。
今まさに睿の頚に針を突き立てようとしていた老婆の腕を上体を捻って避け、その動きで仕込み杖を抜いて突きの動作で手首をくるりと回転させた。同時に老婆が崩れ、その体の影から刃が老人の両頰を貫き、壁に縫い止めていた。睿の手首が返され、其の顎ががぱりとずれる。老人の首から血が噴き出し、咽喉で聲が泡になって血の池から溢れた。ぱっと散った臭いに本能的に舌嘗めずりした
「追手です」
短く言った睿は、素早く老人たちの持ち物をまさぐって何かを確認していた。
足元の
「素直なのはあなたの美徳ですが」
はねあげ式の窗を押し開け、夜風になぶられる白い髪を押さえながら睿は低く囁いた。
「舒舒。人はね、若いのに白髪の男や、息をしていない女に話しかけたりはしないものですよ」
彼は桟に足を掛け、走っている列車の外に身を乗り出した。止まり木に留まる鴉のような恰好で、黒い外套が翼のように激しい風にはためいた。長い腕を伸ばして列車の屋根に右手を掛けると、左手を
その瞬間、彼の姿に重なり、落雷のように激しく
いちめんの花の匂いと、夜におおわれている。
彼は奇妙に表情がない。月が隠れて、星もなく、あたりは昏い。だから彼の顔は見えない。
ひらり、と白が舞った。ふたつの世界にまたがって、雪が降っている。花びらに変わり、不思議な、どこか生々しい花の匂いが支配する。
鏡のなかの睿が、
夢の反射は一瞬だった。まぼろしの稲妻が消え去れば、其所には愛しい男の姿しかなかった。
桟を蹴った睿が、次の瞬間猫のように屋根にあがって
「この先、曲がるところで減速しますから、飛び降りますよ」
躰が浮き、黒い羽根に包まれたような気がした。爪先が空を躍る感覚はまるで地獄に堕ちていくようで、睿の躰の熱がなければ耐えがたいほどに死を近くに感じた。身のうちに巣喰う空っぽの
だが、幻想は瞬きより早く消え失せた。列車から飛び降りた
湿った地面に転がっていると、目の前に真っ赤な実も、転がっているのに気がついた。死んだ人の頭のように無防備。おそろいだ。
雪が降り始める。頬にかかる雪を、睿が拭う。起きられますかと訊かれて、ぎこちない動作で起き上がると、頚のあたりから少し歪な音がした。
夢の温度が消えない。熱が、白い頚を灼いている。
あれが、
あの老夫婦は、我々の昔のことを知っていて、それであんなことをしたのだろうか。追手というのはなんなのだろう。違う、とは、なにが違うのか。
点々と、白い雪で斑になった黒土に、真っ赤な実は落ちている。降る雪ごしに、ぼうっとその色彩を見つめていると、睿が
その背を見ながら、あれ、と思った。黒土を覆う雪のように白い髪に、血が飛び散っている。降る雪ごしにみた景色と同じ色に、変なきもちになる。せかいと睿が重なっている。
まぼろしかもしれない。
「睿」
線路を歩きながら、
此の隣に、色彩を足したい。彼に幸福の血を与えたい。
「次の街についたら、紅が着たい」
無音の雪。
彼が振り返る。見上げる
睿が、不意に、泣きそうに微笑んだ。
「紅、ですね」
手を撫でられる。一本一本の指を、掌を、妾がそこに居ることを、雪の人形でないことを、彼は熱以て確かめる。
「ええ。そうしましょう。あなたにはよく似合うでしょうね。次の街についたら必ず。舒舒、あなたの好きな色を撰んで。いっとう奇麗なのを誂えましょうね」
其の聲に
喩えどんなに惨くとも、睿が居るせかいは幸福だ。
そう想わせてくれる、唯ひとりだ。
雪のなかを闇に向かって歩みながら、
からっぽの屍に残されているのは、つめたい血ばかりだから。夢の語るやもしれぬ真実の一片を、閉じ込めるための空虚に滴る紅を、あなたのためにいかしたい。魂の代わりとなる炎を、仮初めでいいから纏いたい。なにもないのなら、焚き火となって、雪の夜もあなたを照したい。
疑問を抱くよりも、したいことがたくさんある。
いまの
魂のない、あなたの
―夢見ごこちのあの頃を覚えておいでか。
―覚えてゐてもどうなると仰有るのです。
─ヴェルレエヌ 斎藤磯雄訳「感傷的な対話」
そして、今。
十五歳。
血と硝煙のにおいがする魔都、香港で、
此の半島では、
三年前、大陸から船にのって、海を航った日。
朝焼けに真っ赤に染まる海を見つめながら、埠頭で睿は
毛先だけ墨に漬かったように黒い、長く伸びた睿の白髪がゆらゆらと煙のようにたなびいて、
匣の無数に積み重なったような街の影で、
「やっと此処まで来ましたね」
「睿。
「
……殺しましょう。舒舒。あなたからすべてを奪った奴等は、何処にだって居るのです。好きなように、あなたが狩りをしたいと云うのなら。夜はあなたのものです。
でも、此れだけは憶えていて。あなたは永遠に、私が守るから」
安普請の
十五年、睿が
夜になると、睿が
街が騒めく。狼の夜だ、嵐の月だと。昼夜がくるりと反転すればそこは魍魎の舞台、鉄色の風にのって、さあ
どんなに粧し込んでいても、そういうときはあの服を着る。魔都に来て、海を越えて初めて誂えた、世界でいちばん憧れていた真紅。
葡萄酒色の夜会服を脱ぎ、黑苺の耳飾りを外して、貂の襟巻きをとる。慣れ親しんだするするとすべらかな絹の音がして、目を開ければ鏡のなかには──真っ赤な花嫁衣裳!
婚礼とは此のような爰地だろうか? 垂れ落ちる紗と大輪の牡丹が冠に飾られ、ぐんと頭が重たくなる。睿の細い指がそっと飾り房をなでると、漣の音がしてちらちらと赤が光った。
鏡のなかでふたりの影が寄り添う。白黒のなかに咲く真紅が、
睿、
彼が何れ程のものを
だから
それが愛というものだから。
その真っ赤な愛だけが、空っぽの
魂はない。だが、愛はある。
愛でいっぱいの、あなたの人形。
あなただけの、真っ赤な、血の人形。
見えるだろうか、互いの頚に絡まる互いの髪が。白と黒の混ざりあった
地獄に堕ちるときも、永遠にあなたと共に。
今ではもう私たちのどちらが犠牲者なのか判然としない。たぶん互いが互いの犠牲者なのだろう。
─アンナ・カヴァン『氷』
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