第6話
香港の朝は矢のように、直線で闇を追い立てる。鼠や蛇の、夜の生き物が、鉄の臭いを隠しながら、生活の雑多な匂いに背を向ける。
僵尸は太陽が苦手だから、そとが
睿によると、此の半島は中国ではないのだそうだ。今から九十年ほど前に、西の小さな島国の眷属にされた異国の地なのだと。
その後に、睿は
おなじ夢を視るのにも飽いたから、
水面の月を捕らえるような、屍の酔狂だけれども。
愛しい人の隣で睡る朝には、丁度いいのだ。
零歳。
死んだばかり。
このあたりのことは正直、よく憶えていない。
それでも、幾つか憶えていることはある。
僵尸、舒舒の原初の記憶だ。
死んだ
蓮の折れた茎が、不吉な幾何学を画く泥のなかで、男が座り込んでいた。べたりと、無力に、項垂れて。痩せた後ろ姿からは、強い死と、脳髄を灼く真新しい血の薫りがした。口のなかで泡立つ赤と、おんなじ薫りだった。胎の奥が、どくりと疼いた気がした。
その男は未だ若く、夜闇のなかで咲く月下美人のようなかんばせをしているのに、長く背に垂らした髪は老いた狼のように、
男はその躰から血を流していた。頚や、腕や、掌の牙の痕から、溢れる血が蓮の茎を伝って青い水のなかに円を
「舒舒。赦してください。舒舒。
貴女を縛りたくはない。貴女をこんな風にしたくない。けれど、貴女は変わってしまった。死が貴女を変えてしまった。あの惨たらしい、死が。貴女を。貴女を私から引き剥がそうとこんな真似を。
夜が明けたら、また、貴女を抱きしめます。大丈夫、私の想いは変わらない。
舒舒、私が貴女を、必ずもとの貴女へ戻してみせます」
知らないことばだった。だが、眼の奥でなにかが真っ赤に弾けた気がした。
此れは、名前だ。女の。
なぜそう思ったのかは理解らないが、その確信が
此の男は、
たとえ舒舒と云う響きを此の身が知らずとも、
しかし、人ならざる
光を厭がる仕草に気づいた彼は、
「舒舒。なにか話せますか」
囁くように問われ、脣を動かそうとしてみたけど、薄く開いた隙間からはなにも発することができなかった。彼は嘆息し、
「息がないから……」
泥の海を
そうして、どこか知らない、泥の匂いの遠いところ
その途端、溢れる血のようにあたたかい幻が胸を満たした。
この人が
この人が、
千年焦がれたものが手に入ったような、原始的な幸福が甘い腐敗のごとく
何もわからない恍惚と共に、からっぽの
あなたが
あなたが
容赦なく
はじまる月蝕
血を喀く華燭
―高柳重信
五歳。
北へ、たどりついた。
古い汽車はぐらぐらと揺れて、
せかいはいつもまぶしい。
貨物列車に積んでいた
「舒舒。
睿は囁き、
睿の髪は根本から白く伸び、紡いだ
「舒舒。外套を脱いでは
奇麗な葡萄酒色の外套の前をかきあわさせて、睿は
五年の旅の間、半分位は、
また、見たことがない街。
睿の歩く速度がだんだんと落ちてくる頃、夕暮れの幕がべったりと地平線の向こうへ落ちて、夜があらわになって、ようやっと眼を開けていられるようになった。後頭部から首までおおっていた耳当てをあげても構わないと云われたので、顎の下の紐を千切ったら叱られた。
小さな、黒い鉄の橋を渡ろうとしたとき、膝が折れた。睿に抱き止められたが、水気が足りないのか、
死んでも、腹は減る、の、だ。
察した睿は外套の裏ポケットから、血の入った小壜を取り出して
喰いたい。
人が。
旅の途中では、浮浪者や独り暮らしの老人が餌だった。垢じみた皮膚や、薬の臭いがする血は嫌いだったけど、睿が
腹が、減る。
橋の下で鯉が跳ねた。泥の揺蕩う生臭い河。濁った
「血で貴女を満たせればよいのですけれど。……貴女は
ヴァンパイア。知らない語だ。
「
「……舒舒」
ゆらん、と、幽霊のように睿の影が揺れた気がした。夜道を照らす街燈は少いから、錯覚かも知れなかったが。
ゆらん、ゆらん。
夜に隠れて、影が震えている気がする。
「洋鬼も、大多数は、一度殺された者が甦って成るそうです。僵尸と同じ、黄泉還りの、人の血を吸い、殺す鬼です。
けれど、何故でしょうね。彼等は生前のままなのですよ。屍のつらさなど何処にもない。
ねえ、舒舒。
理不尽だとは思いませんか」
静かで、その静けさこそが悲しい睿の詞をききながら、
憶えてなくて
地獄の神さま。睿から、色んなものを奪った神さま。
あなたが睿からあれだけ奪ったんだから、
ぐにゃぐにゃした
どこかから、鎖が、断続的にきぃきぃ軋む音がした。死体を吊るしているような音だ、と思ったが、睿は気に留める様子もない。としたら、此れは生活音なのかもしれない。
槐の冠が途切れ、星明りが舗道に真っすぐに降ってきた。
鎖は
黒い外套に、小さな頭をした小児は、泣き濡らした面をあげると、
小児は鞦韆から飛び下りると、此方へ手を伸ばしてきた。
「たすけて。…おうちがわかんないの」
ぐるる。
睿が肩を強張らせる。
睿は
小児はべそをかきながら、真っ赤な手袋で顔をこすっていた。睿は屈み込んで、目線をあわせた。
「迷子ですか」
「うん。…さっきまでいっしょだったの」
「旅行ですか?」
「ううん。この隣の街に住んでるよ」
「
小児はかぶりを振った。
「困りましたね。公衆電話では、電話番が繋げてくれないでしょうし」
睿は座り込んだまま首を傾げた。そうしていると、彼は人というより一羽の大きな鴉のように見えた。長い外套の裾が地べたに拡がって、影を吸っている。冠毛のように斑な白髪が輝いていた。
「とりあえず、然るべきところへ連れていきましょうか。ほら、坊や」
睿は小児についてくるよう促すと、ちらっと
水滴が落ちるより短い間、小児が不意に跳躍した。喩え刹那であろうと僵尸の眼には
睿!
「…
掌を仕込み杖で貫いたまま、腕を掴んで持ち上げた。小児は暴れたが、長身の睿が腕を伸ばしてしまえばその躰はどこにもすがるものなく、罠のなかで暴れる
「いやだ! ぼく、もう死にたくないよ!」
小児は、ちいさくて鋭い爪を睿の腕に立てたが、
「お前は、もとは人間だったのですね」
睿は、つめたい瞳で呟く。小児は泪を流して藻掻いていた。無駄なのに、と
泣き叫ぶ小児の姿をした鬼の手首を、睿はゆっくりと縦に引き裂いていった。小児のつんざく悲鳴が
「舒舒」
許しを貰った
腕を喰らうと、肘の関節から小さな骨の破片がぱらぱらと零れた。睿が見ているので、筋膜を剥がしながら丁寧にそれぞれの筋の束を削いで、一房ずつゆっくり食べると、睿は嬉しそうに
其の細い頚に噛みついたとき、小児の泣き声が途切れ、不意にその躰が、舌先で灰になった。肉も血も泪も、すべてが花びらのようになって、
「……舒舒。味はどうですか」
またひとつ、地獄へ近づいた。
どんなに鬼に近づいても、
愛してると云う聲がほしい。あなたの名前を呼ぶ聲がほしい。
いのちある者に赦された贈り物。
奪い取ってやりたい。其の脣、其の咽喉、其の肺臓を喰らって、此のつめたい躰でも愛を伝えられると、天を仰いで嘲笑ってやりたい。
ぐるる、と頚の付け根が獣の唸りを生む。睿。睿。舌ばかりが口腔を游いで、焦って歯列と口蓋を叩く。睿。ぐるる。
見よう見まねで、喉の奥まで開くように口を開けた。不恰好に、肋骨を動かそうと胸を強張らせる。もっと。もっと深く。風穴を空けろ。尸の虚ろに、音を。
千の針で射られたように、肺が痛んだ。膨らむ胸廓に、唇が震えた。
「睿」
気管で硝子が割れたような、音。
濁って掠れた、仔狼のような聲。
睿の暗灰色の瞳が大きく
突き刺さる音の痛みに耐えながら、
睿が
「舒舒、舒舒、……私の舒舒!」
名前を呼ばれた。叫ばれた。睿の大きな聲なんて、ついぞ聴いたことがなかったから、躰がばらばらに碎けてしまいそうなほどに嬉しかった。
銀色の灰が風に舞い上がるなか、
「舒舒、舒舒」
泪は血のように熱く、
喰らおう。
喰らうことで、獲ていこう。いのちは、奪うものだ。
人を喰らう、真っ赤な血の人形。
「睿」
ずたずたになった聲でも、睿は心の底から嬉しそうに微笑んでくれる。
ただ一人への愛は一種の野蛮である。何となれば、それは他のすべての者の犠牲において行われるゆえに。神への愛もまたしかり。『善悪の彼岸』(ニーチェ1954新潮文庫 断片67番)
─續
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