第6話

 香港の朝は矢のように、直線で闇を追い立てる。鼠や蛇の、夜の生き物が、鉄の臭いを隠しながら、生活の雑多な匂いに背を向ける。

 僵尸は太陽が苦手だから、そとが有曙色しらむと、ルイとばりをおろす。その分厚い布越しに、都市の瀟々ざわざわするのを聴いていると、ねむくなってくる。

 睿によると、此の半島は中国ではないのだそうだ。今から九十年ほど前に、西の小さな島国の眷属にされた異国の地なのだと。

 わたしたちはずっと流寓たびをしてきた。覚醒めたのは上海で、ずっとずっと北の方…哈爾浜ハルピンへ、数年をかけて到った。

 その後に、睿はわたしを連れて、あてもなく流離さすらいはじめた。いろんなものを視た。いろんなものを喰らった。わたしたち、ふたりの旅路。そして、此の魔都に至ったのだ。

 わたしに生前の記憶は無い。僵尸として甦った十五年余り前の、月の夜から、わたしははじまった。躰は二十歳だと睿は云うけれど、わたしは未だ十五回の季節しか知らない。

 わたしは十五歳の僵尸で、女で、睿の妻だ。それ以外はなにも知らない。死ぬ前のことも、何もかも。

 おなじ夢を視るのにも飽いたから、わたしぼんやりと、空想の史書を編むことにした。わたしのたった十五年の、誰にも読まれぬ頭蓋のなかの書翰。十五年前、零歳からはじまる、わたしと睿の旅の記録。

 水面の月を捕らえるような、屍の酔狂だけれども。

 愛しい人の隣で睡る朝には、丁度いいのだ。




 零歳。

 死んだばかり。

 このあたりのことは正直、よく憶えていない。わたしは青白く忌まわしい、死んだ赤子だった。生え揃った牙と爪と、腐った脳をもつ、おぞましい仔狼だった。

 それでも、幾つか憶えていることはある。

 僵尸、舒舒の原初の記憶だ。

 わたしは横たわっている。躰はつめたく、心臓は動かず、眼は開いたまま。

 わたしは、黄色い札で四肢を封じられている。くびには人間の髪がむすばれ、口にも、朱で禁呪の書かれた御札を咥えさせられていた。口のなかは血の味で一杯だった。わたしは動けなかった。躰の奥底に巣喰う死が、水の満ちるように全身を内側から浸していた。

 死んだわたしが横たわっているのは、どこかの水辺だった。白い死装束から泥が染み込み、土や蟲の蠢く音が、皮膚から這い上がって、止まった心臓や肺を侵食した。嚼、嚼、嚼、嚼、と、瞬きの不可できないわたしの濁った眼球に、音が幻となって紅い花びらのように散った。

 蓮の折れた茎が、不吉な幾何学を画く泥のなかで、男が座り込んでいた。べたりと、無力に、項垂れて。痩せた後ろ姿からは、強い死と、脳髄を灼く真新しい血の薫りがした。口のなかで泡立つ赤と、おんなじ薫りだった。胎の奥が、どくりと疼いた気がした。ああわたしはとてもよく識っている。此の男を。

 その男は未だ若く、夜闇のなかで咲く月下美人のようなかんばせをしているのに、長く背に垂らした髪は老いた狼のように、まだらだった。黒髪に混じって房となった白髪が、月光を受けて刃のように輝いていた。黒い森に、白い花の咲くように美しく、奇妙な姿だった。

 男はその躰から血を流していた。頚や、腕や、掌の牙の痕から、溢れる血が蓮の茎を伝って青い水のなかに円をえがいた。血だけでなく、なみだも流していた。震える薄い肩越しに、底無しの絶望に冒された瞳がわたしをみつめていた。

「舒舒。赦してください。舒舒。

 貴女を縛りたくはない。貴女をこんな風にしたくない。けれど、貴女は変わってしまった。死が貴女を変えてしまった。あの惨たらしい、死が。貴女を。貴女を私から引き剥がそうとこんな真似を。

 夜が明けたら、また、貴女を抱きしめます。大丈夫、私の想いは変わらない。

 舒舒、私が貴女を、必ずもとの貴女へ戻してみせます」

 舒舒シュシュ

 知らないことばだった。だが、眼の奥でなにかが真っ赤に弾けた気がした。

 此れは、名前だ。女の。

 なぜそう思ったのかは理解らないが、その確信がわたしを稲妻のように貫いた。舒舒。男がすがるように呼ぶ。舒舒。

 此の男は、わたしを呼んだのだ。

 たとえ舒舒と云う響きを此の身が知らずとも、わたしの噛んだ足を引きずって、わたしの骸にすがりつく此の男の熱が、空っぽのわたしに火花を分け与えた。吁、生きている! わたしは、甦ったのだ!──この男の、手によって!

 しかし、人ならざるばけものに、夜明けは無慈悲であった。泥のおもてを嘗め、眼球と皮膚を千の針の鋭さで刺してきた曙光のひとすじに、わたしは弛緩していた爪先を立ててわずかに抗議した。

 光を厭がる仕草に気づいた彼は、わたしを紫の羅紗でくるみ、覚束ない手つきで抱き上げた。形銷骨立やせほそった躰は、立ち上がると吃驚おどろくほどの長身で、頚を支える掌から血が滲みて、口のなかに広がるのと同じ匂いに心が甘く締めつけられた。

「舒舒。なにか話せますか」

 囁くように問われ、脣を動かそうとしてみたけど、薄く開いた隙間からはなにも発することができなかった。彼は嘆息し、わたしの氷の額に頬をつけた。

「息がないから……」

 泥の海を歩行あるいて、彼はわたしを、どこかへ連れていった。羅紗がわたしの眼を隠し、一体どこへ連れていかれたのか判らなかった。

 そうして、どこか知らない、泥の匂いの遠いところで来て、朝は終わった。八卦の印を歪めた形でつくられた棺桶のなかに、男は、いちめんに花を敷いた。彼がわたしを抱き上げてそこにおろすと、わたしに着せた紫の緞子サテン连衣裙ドレスがひらひら波打って、花が散った。貌の横で、脆い紫の罌粟がしゃらしゃらと音を立てた。彼は、わたしの額にかかった髪を丹念に分けて、つめたい肌にくちづけた。それから中空に、爪で文字を画く。勅令陏身保命。紅の螢のように、その筆跡が濁った網膜に灼きついた。

 その途端、溢れる血のようにあたたかい幻が胸を満たした。

 この人がわたしのあるじ。

 この人が、わたしの男!

 千年焦がれたものが手に入ったような、原始的な幸福が甘い腐敗のごとくわたしの屍を彩った。水墨の世界に唯一の色! わたしを照らす、病める月!

 何もわからない恍惚と共に、からっぽのわたしは彼を受け入れた。冷えきった灰の奥に、炎を差し込まれたように、わたしのなかで彼の火が燃え出した。

 わたしは真っ赤な血の人形。

 わたしは腐った、紅の人形。

 あなたがわたしを生んだ。

 あなたがわたしの神だ。

 わたしの、ただひとりの……。



容赦なく

はじまる月蝕

血を喀く華燭

 ―高柳重信




 五歳。

 北へ、たどりついた。

 古い汽車はぐらぐらと揺れて、隧道トンネルに入るたびに車輪から火花が散るのが見えた。わたしは姿勢を保っていることが難しく、ルイに凭れかかって、ずっとまどの外をみつめていた。

 せかいはいつもまぶしい。

 貨物列車に積んでいたわたしの棺桶をおろして、睿はわたしの腕をひっぱり、駅舎から出た。鈍い躰を冬の銀の太陽に射られ、わたしはぐるると唸った。

「舒舒。哈爾浜ハルピンですよ。貴女の生まれたところです」

 睿は囁き、わたしを抱き寄せた。此処彼処そこいらにちらほらと居る西洋人のように身丈が高いので、とても眼を惹いた。

 睿の髪は根本から白く伸び、紡いだいとを束ねたような雪の色をしていた。編んで垂らしたところは未だ墨の色をしていて、まだらに混じった灰の色が花崗岩みかげいしのようにきらきらと光っていた。その奇っ怪な風合いと、釣り合わぬ若いかんばせに、人々が振り返った。それを隠すため、彼は襟の高い外套を羽織り、帽子をかぶった。

「舒舒。外套を脱いでは不可いけませんよ」

 奇麗な葡萄酒色の外套の前をかきあわさせて、睿はわたしのかぶっていた黒い毛皮の帽子を引き下ろした。耳当てをおろすと、しかばねの青白い肌は隠れる。呼吸がないのも。

 五年の旅の間、半分位は、わたしは棺桶のなかで運ばれた。花と奇麗な服と、睿のくちづけがわたしを睡らせ、眼を醒ますといつも知らない街だった。季節がめぐるたび、わたしたちは少しずつ北へ、北へと旅をして、いつしか国境の近くまでやってきていた。

 わたしぼんやりと、わがふるさとというその北の街を眺めた。太陽の銀の紗が、屍の濁った網膜を射る。陽炎みたいに、氷の温度をした建物の群れが揺らいで見えた。

 また、見たことがない街。

 わたしのぼやけた反応に、徐々に睿が肩を落とした。街路樹や、旧弊な建物を指差し、やがては路地にすら入って、寺社の廃墟や奇妙な西洋建築を手当たり次第に指差し、覚えはありませんかと云う。其の声の心細そうな響きに、わたしは靴の先に触れた途端に融けてしまう、ひとひらの雪を感じた。

 睿の歩く速度がだんだんと落ちてくる頃、夕暮れの幕がべったりと地平線の向こうへ落ちて、夜があらわになって、ようやっと眼を開けていられるようになった。後頭部から首までおおっていた耳当てをあげても構わないと云われたので、顎の下の紐を千切ったら叱られた。

 小さな、黒い鉄の橋を渡ろうとしたとき、膝が折れた。睿に抱き止められたが、水気が足りないのか、わたしの躰がぐにゃぐにゃしてくる。血が足りない。人の血が。

 死んでも、腹は減る、の、だ。

 察した睿は外套の裏ポケットから、血の入った小壜を取り出してわたしの脣に押しつけた。とろとろ流れる鉄の味の蜜。牙の隙間から、舌の裏まで浸されるけれど、まだまだ足りない。

 喰いたい。

 人が。

 旅の途中では、浮浪者や独り暮らしの老人が餌だった。垢じみた皮膚や、薬の臭いがする血は嫌いだったけど、睿がわたしに自分の血を飲ませては、我慢してと云うので従った。睿を困らせたくはない。

 腹が、減る。

 橋の下で鯉が跳ねた。泥の揺蕩う生臭い河。濁ったしたいの瞳のような河。

「血で貴女を満たせればよいのですけれど。……貴女は吸血鬼ヴァンパイアではないので」

 ヴァンパイア。知らない語だ。

西洋ヨーロッパばけものです」

 洋鬼ヤンクイ、と睿は掌に書いた。ふうん、とわたしはその字をすぐに忘れた。けれど、ヤンクイという響きだけは覚えた。

「……舒舒」

 ゆらん、と、幽霊のように睿の影が揺れた気がした。夜道を照らす街燈は少いから、錯覚かも知れなかったが。

 ゆらん、ゆらん。

 夜に隠れて、影が震えている気がする。

「洋鬼も、大多数は、一度殺された者が甦って成るそうです。僵尸と同じ、黄泉還りの、人の血を吸い、殺す鬼です。

 けれど、何故でしょうね。彼等は生前のままなのですよ。屍のつらさなど何処にもない。九泉あのよの水を飲みながら、人を喰らいながら、昔と同じように笑って、話すのです。夜台はかから這い出てきたのは、我々だっておなじなのに。

 ねえ、舒舒。

 理不尽だとは思いませんか」

 静かで、その静けさこそが悲しい睿の詞をききながら、わたしは睿の腕に躰を寄せた。熱も声も与えることが不可ないわたしにとって、睿に与えられるのは躰の重さだけだった。

 憶えてなくて对不起ごめんなさい、と、話せなくて对不起ごめんなさい

 ことばがほしい。

 地獄の神さま。睿から、色んなものを奪った神さま。

 わたしこえをください。

 あなたが睿からあれだけ奪ったんだから、わたしが睿にあげても構わないでしょう。

 ぐにゃぐにゃしたわたしと、ゆらん、とした影を引きずった睿は、橋の向こう側で、えんじゅの繁る路をあてもなく歩行いた。時々すれ違う人たちが、奇異な眼で見つめてくる。しかし、誰も気がつかない。生者と死者の夫婦には。

 どこかから、鎖が、断続的にきぃきぃ軋む音がした。死体を吊るしているような音だ、と思ったが、睿は気に留める様子もない。としたら、此れは生活音なのかもしれない。

 わたしは、日々の生活がどんなものだったかの記憶も曖昧あやふやだ。泥の海で覚醒めざめた夜から、未だ五年しか経ってない。

 槐の冠が途切れ、星明りが舗道に真っすぐに降ってきた。かおをあげると、紅いかきねがぐるりとめぐる、ちいさな公園が在った。鎖の音が、大きく響く。

 小児こどもがいる。

 鎖は鞦韆ぶらんこのものだった。小児が腰掛けた座面を、ゆっくりと揺らしては白い息を吐くたび、鎖がきぃきぃと哭いた。

 わたしは睿の袖をひっぱって止めた。

 黒い外套に、小さな頭をした小児は、泣き濡らした面をあげると、わたしたちに気づいて口を開いた。睿が戸惑ったように息を飲む。小児はやけに色白で、髪や目の色素が薄いかんばせは、西洋人のそれと似ている気がした。旅客の児かもしれない。

 小児は鞦韆から飛び下りると、此方へ手を伸ばしてきた。

「たすけて。…おうちがわかんないの」

 ぐるる。

 睿が肩を強張らせる。わたしの咽喉から漏れた獰猛さに。わたしは声を発することは不可できないが、獣の吐息を発することを、彼は知っている。

 睿はわたしと小児の間に壁を作るように近づいた。わたしがとって喰わないようにだろう。

 小児はべそをかきながら、真っ赤な手袋で顔をこすっていた。睿は屈み込んで、目線をあわせた。

「迷子ですか」

「うん。…さっきまでいっしょだったの」

「旅行ですか?」

「ううん。この隣の街に住んでるよ」

爸爸おとうさん工作単位はたらいてるところはわかりますか?」

 小児はかぶりを振った。

「困りましたね。公衆電話では、電話番が繋げてくれないでしょうし」

 睿は座り込んだまま首を傾げた。そうしていると、彼は人というより一羽の大きな鴉のように見えた。長い外套の裾が地べたに拡がって、影を吸っている。冠毛のように斑な白髪が輝いていた。

「とりあえず、然るべきところへ連れていきましょうか。ほら、坊や」

 睿は小児についてくるよう促すと、ちらっとわたしの方を見て目配せした。餓えているのにあまりり此の小児に近づいて、うっかり箍が外れないように、ということだ。わたしは大人しく睿に寄り添って、小児から眼を逸らした。なんだかへんだ、と思いながら。

 沈々ふけていく夜に紛れて、なにか、赤が光ったような気がした。

 水滴が落ちるより短い間、小児が不意に跳躍した。喩え刹那であろうと僵尸の眼には判然はっきりと映る、その真っ赤な口に光るは、山入端やまのはに懸かる月のごとき牙。

 睿!

 わたしが小児に跳びかかる前に、振り返った睿が素早く、小児の脇を蹴り抜き、混凝土コンクリートに叩きつけられた其の掌に仕込み杖の白刃を突き下ろした。手根骨と中手骨を砕いた刃に映った小児は、真っ赤な瞳をして、信じられないという表情を浮かべていた。

「…吸血鬼ヴァンパイア。おかしいとは思ったのですよ。子どもが、こんな夜更けに」

 掌を仕込み杖で貫いたまま、腕を掴んで持ち上げた。小児は暴れたが、長身の睿が腕を伸ばしてしまえばその躰はどこにもすがるものなく、罠のなかで暴れるうさぎのように無力だった。

 わたしは大人しく、睿のよしを待った。僵尸の爪と牙をかちかち研いで、黙って待った。

「いやだ! ぼく、死にたくないよ!」

 小児は、ちいさくて鋭い爪を睿の腕に立てたが、わたしの牙よりも脆い其れに、睿は眉ひとつ動かさなかった。

「お前は、もとは人間だったのですね」

 睿は、つめたい瞳で呟く。小児は泪を流して藻掻いていた。無駄なのに、とわたしは思う。睿に牙を剥いた時に、うお前の命は潰えたと云うのに。

 泣き叫ぶ小児の姿をした鬼の手首を、睿はゆっくりと縦に引き裂いていった。小児のつんざく悲鳴がこだまするなか、睿はわたしを、血塗れの手で招いた。

「舒舒」

 許しを貰ったわたしは、短冊状に割かれた皮膚と筋繊維でぶらぶらと半端に繋がった小児の手首にかぶりついた。人肉果ざくろの味はしなかった。強烈な、脳髄を灼く血が蜜となって滴った。なんという甘露! 

 腕を喰らうと、肘の関節から小さな骨の破片がぱらぱらと零れた。睿が見ているので、筋膜を剥がしながら丁寧にそれぞれの筋の束を削いで、一房ずつゆっくり食べると、睿は嬉しそうにわたしの髪を撫でた。腱がはりついた細い骨にかぶりつく。赤黒くて湿った、生きた樹木を裂くような感覚は好きだ。本能が悦ぶ。

 其の細い頚に噛みついたとき、小児の泣き声が途切れ、不意にその躰が、舌先で灰になった。肉も血も泪も、すべてが花びらのようになって、わたしを包んだ。

「……舒舒。味はどうですか」

 わたしの口許と服を拭きながら、睿はそっと問うた。初めて喰らった吸血鬼は、それほど人間と変わらなかった。其れとも、此の小児が、元は人間だったからなのかもしれない。舌先に残った灰が苦かった。黙っていると、睿はわたしの乱れた前髪を除けて、自分の額をおしあてた。

 またひとつ、地獄へ近づいた。

 わたしはどんどんばけものになる。睿が赦すから、此の牙も爪も狼のように血に濡れる。其れでもわたしは餓えている。喰らっても喰らっても、手に入らないものばかりだから。

 どんなに鬼に近づいても、わたしを優しく見つめる睿の眼が哀しい。

 愛してると云う聲がほしい。あなたの名前を呼ぶ聲がほしい。

 いのちある者に赦された贈り物。

 奪い取ってやりたい。其の脣、其の咽喉、其の肺臓を喰らって、此のつめたい躰でも愛を伝えられると、天を仰いで嘲笑ってやりたい。

 ぐるる、と頚の付け根が獣の唸りを生む。睿。睿。舌ばかりが口腔を游いで、焦って歯列と口蓋を叩く。睿。ぐるる。

 見よう見まねで、喉の奥まで開くように口を開けた。不恰好に、肋骨を動かそうと胸を強張らせる。もっと。もっと深く。風穴を空けろ。尸の虚ろに、音を。

 千の針で射られたように、肺が痛んだ。膨らむ胸廓に、唇が震えた。

「睿」

 気管で硝子が割れたような、音。

 濁って掠れた、仔狼のような聲。

 睿の暗灰色の瞳が大きくみひらかれた。

 突き刺さる音の痛みに耐えながら、わたしは幾度も彼を呼んだ。

 睿がわたしを抱きしめた。骨と肉がぶつかって一緒になってしまうような抱擁だった。

「舒舒、舒舒、……私の舒舒!」

 名前を呼ばれた。叫ばれた。睿の大きな聲なんて、ついぞ聴いたことがなかったから、躰がばらばらに碎けてしまいそうなほどに嬉しかった。

 銀色の灰が風に舞い上がるなか、わたしたちはずっと抱きあっていた。睿は泣いて、泣いて、わたしの髪を掻き回した。だんだん立っていられなくなって、まろぶように膝をついてしまった。

「舒舒、舒舒」

 泪は血のように熱く、わたしは其れすらも喰らいたいと想った。睿、わたしの睿。名前を呼べる。咽喉の震えも、胸廓の痛みも、身を裂くほどにいとおしい。ああ、とりもどした。魂のかけらを。喰らった灰の苦さは、いのちの苦さだ。

 喰らおう。

 喰らうことで、獲ていこう。いのちは、奪うものだ。

 わたしは人形。

 人を喰らう、真っ赤な血の人形。

 わたしの血は、喰ろうてきた者の血だ。熱くて甘い其れが、いつか空っぽのわたしを満たす。

「睿」

 ずたずたになった聲でも、睿は心の底から嬉しそうに微笑んでくれる。わたしは睿に呼ばれるときが、いちばん嬉しい。だから、わたしも呼び続けよう。此の躰が満ちるか、朽ちるで。



ただ一人への愛は一種の野蛮である。何となれば、それは他のすべての者の犠牲において行われるゆえに。神への愛もまたしかり。『善悪の彼岸』(ニーチェ1954新潮文庫 断片67番)



          ─續

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