第5話

「西洋画は好きか、ルイ

 水仙が揺れる花畑で、ふと舒舒が訪ねた。夜と長い黒髪を下地に、吐いた息が白く雲を刺繍した。

 葉をよそがせる空気は青く、甘くて、つめたかった。ふたりの身によく馴染む、冬の風だった。ふたりぶんの黒髪がさらさらと揺れて、花の茎がこすれるよりさやかな音を立てていた。

「いいえ。好き嫌いを言えるほど知りません」

「まあ、わたしもそうだ」

 たまたま連れていかれた先で、何度か見る機会があっただけで、とんと疎いと舒舒は笑ったが、睿は黙っていた。自分のほうがずっと、さまざまな見識が劣っていることを知っていたから。髪を結い、古風な黒の長袍を着ている者が、屋敷の外には居ないことを睿は解っていた。

 箱のなかの宝を守る鍵もまた、外の世界を見ることはできない。

 舒舒は楽器に似た形の花を見下ろしながら、冬の夜にみあった声で話し出した。

「露国から来た客と逢ったときに、天使のを見た」

基督キリスト教の宗教画ですか」

「うん。たぶん。わからなかったけれど、たくさんの羽根をもった、光る髪をした、美しい人が……いや、天使か……幼児おさなごと居た」

 睿は眼を眇めた。睿に西洋の宗教はわからない。故に、その構図がなにを意味するのか、どのくらい尊いものなのかもわからない。だが、幼い子どもが幸福そうな絵ならば、それは善なるものだろうと思えた。

「舒舒は他に何をみたのですか」

 名前を呼びたくて問えば、舒舒も嬉しそうに顔をあげ、それから少し、優しそうな形をした眼を伏せた。

「死んだ子供の画も見た」

 睿は黙って、続きを待った。舒舒は網膜の上にその絵を再現するように、ゆっくりと、瞬きを数度繰り返した。

「赤子だった。ただ一人、睡る寝台と同じくらい白い貌をしていた。昔の荷兰オランダの画らしい」

 睿は黙っていた。幼くして死ぬ子どもは現代でも少なくない。況してや死んだ子の姿を残すのに肖像画が主流だった時代ともなれば尚更だ。睿も舒舒も、もっと理不尽な世界を見てきたのだから、子どもの死そのものに動じたはずはなかったが。

 舒舒は、睿の袖に指を添えた。

「あんなに小さな子どもであっても、神の裁きはくだされるのだろうか」

 袖を引く指の白さに、睿は死んだ子どもの影を見る。弱い力に任せ、舒舒の導くままに花の間を歩いた。

 青い草の海をわけいりながら、舒舒は独りごちるように呟き続けた。睿は黙ってそれを聞いていた。

「あの画は、厳格すぎた。赤子はあまりに孤独であった。天使が慈しんでいたものと同じ存在を、容赦なく裁くことができる神とは、果たして人をどう思っているのだろうか。赤ん坊がどんな罪を犯すと云うんだ? それとも、あの子供が背負うのは原罪、と云うものなのか?

 恩寵、そして試練。神が与えるものは、愛と罰の両方だ。西洋の神とは、一体どんな存在なのだろう。人になにを求めているのだろう」

 ふたりの膝の高さで、金色と甘ったるい白の、楽器のような形をした花がしゃらしゃらと揺れていた。硬い葉が服を擦り、夜露で足が冷えた。

 低く、抑揚のない声で喋り続けた舒舒が黙ったのは、あずまやに辿りついてからだった。あずまやの圍では、冬咲きの鉄線蓮クレマチスが、薄紫の花を下向きにつけて揺れていた。

 神、神とは、と口ずさむように呟きながら、ふたりはあずまやの下で見つめあった。

 もしも自分が神に造られたのなら。もしも自分が神に見つめられているのなら。もしも自分が神に裁かれるのなら。

 それは茫漠とつかみどころのない空想で、竹林の朝靄のなかを延々と歩いているように、そこに求めるものや意味するものを思い描くことさえできなかった。それは、ふたりが共に早く喪った、親という幻想を思い起こさせた。得られることのなかった親鳥の翼は、神より遠い。

 ほんとうの神とは、この星月夜のように、悲しい冷たい静かなものであろうか?

 過去という荒野に取り残されたようなふたりの孤児は、どちらからともなく、視線を逸らした。考えても仕方のないことだ、と、諦めなのか逃げなのかわからない思考停止には慣れきっていた。

 舒舒は、鉄線蓮クレマチスの尖った花びらを鼻先に近づけ、すずしい匂いをかいでから、それを髪に移した。自分の黒髪で器用に花を編み込みながら、睿を見上げて悪戯っぽく囁いた。

「睿、髪を編んでいるんだな。わたしと揃いだ。…似合っている」

 はっと項に手をやって、紅いリボンで束ねて編んだ黒髪に指を滑らせて苦笑した。

「……あの娘がね」

 舒舒は眼を瞬かせて、数秒後に破顔した。

「優しい哥哥おにいちゃんで人形遊びか。髪結いだけでなく、着せ替えも要求されたらどうする?」

「そういうのは貴女がやってあげてくださいよ。彼女の姐姐おねえさんなんでしょう」

 やわらかなうすぎぬ越しの対話は快い。気が楽だ。舒舒の髪で揺れる薄紫の花と、睿の髪でたなびく紅のリボンが、優しい夢のようにひらひらと踊っていた。

 娘を守る騎士にして、彼女の兄。娘の影にして、彼女の姉。睿と舒舒の間には、必ずあの箱のなかの娘が存在した。不可視の衝立のように、暗黙のうちに、初めて見つめあった夜のような結びつきを身の内に求めながら、どうしてか忌避していた。

 解っていたのかもしれない、己が身の丈を。時代から逃げてきた、流浪の民の末裔が、漂着した先で得る幸福などあってはならない。

 だが、こうして夜の下、花の群れに紛れて向かい合うとき、ふたりの間の衝立は限りなく薄くなる。瑪瑙を磨き、磨き、閉じ込められた魚の跳ねるのが見えるほどに。互いの魂が触れあいそうになる。

 闇のなかで、火が見えるのだ。つめたく、黒く、美しい火。懐かしい、魂の系譜が、ひらひらと蝶のように燃えている。それで暖まることはもしかしたらできないかもしれない。ふたりには凍えるみちゆきしかないのかもしれない。

 だが、惹かれずにはいられない。

「……睿」

 舒舒が、ふと名前だけをよび、沈黙した。ふたつの大きな黒い瞳が、濡れて睿を見上げている。夜より黒く、星も月もない、この世でいちばん優しい黒だった。

 彼女の指が白い。睿を見つめたまま、幻のように動かない。それが舒舒の精一杯なのだと、気づけないほど愚かではない。

「……舒舒」

 睿も、指を伸ばして、舒舒の髪に触れるのが精一杯だった。霜に触れたように、深々と、裸の指に痛みが伝わる。

 冬の夜風がつめたくても、抱きあうことも許されない。ふたつのほむらがひとつになったとき、新たなる不吉の野火となることを畏れて。





「道士って、実際なにをする人なの、哥哥にいさん

 紅い丸窗のある部屋で、鏡の前で長い黒髪をすきながら、気ままそうに娘は言った。造花が飾られ、桃色の蓮が画かれた可愛らしい鏡台は、十五歳になった娘への贈り物だった。

「いつも見せてるじゃありませんか」

「紙の兎や鹿が踊るのはおあそびのたぐいでしょ。空で蓮が咲くのも。本当はなにをするためのものなの? 本みたいに、僵尸をつかったり、空を飛んだりするの?」

「そんなことはしませんよ」

 ルイは衝立越しに返事をした。娘が櫛を置いた音がする。牡丹と孔雀の画越しに、娘の様子を注意深く探った。睿はこの衝立をこえてはいけない。勿論、娘もこの衝立からこちら側へ来てはいけない、という主人の取り決めだったが、時々彼女がそれを破ろうとするので睿はひやりとした。

「本来、道教は不老不死になるのが目的だと聞いたけど」

「ええ、まあ…ちょっと違いますが……」

「じゃあ、どんなもの? わかりやすく説明してよ」

「うーん、小紅シァオホンには難しいかもしれません」

「その小紅という呼び方止してよ。太土了ダサい

 憤然とした声に、睿はそっと笑った。衝立の向こうで、娘がふくれっつらをしているのが見えるようだ。

「二歳しか違わないのよ。いつまでも子供扱いしないで」

「なら、貴女も私のことを哥哥と呼ぶのを止めなければね」

 椅子の脚が床にこすれる音がして、上質な服の衣擦れが耳に心地よく鳴った。娘が立ち上がったようだ。赤を好む彼女は、今日も可愛らしい薄紅の槿あさがお形をしたワンピースを着ている。

「哥哥は意地悪だわ。舒舒シュシュは未だかしら」

「舒舒は海路ですから。だいぶ掛かるでしょう」

「私も船に乗りたかったわ」

「それじゃ、影武者の意味がありません」

 ため息と、足早に娘が歩き回る音がした。幼い頃からの付き合いだから、彼女がいら立ったり、待ち遠しいときにどんな風に行動するのか、手に取るようにわかる。

「舒舒に本を貸したのよ。早く帰ってきて、感想を話したいの」

「それはそれは。何の本ですか」

「秘密!」

 娘は澄まして答えたが、睿も彼女が外国の作家に凝っているのは知っていたので、大方の予想はついた。多少赤裸々に、男女の恋愛が書かれた本だ。国中で旧世界の火刑が叫ばれるなか、この上海だから許される。英文の勉強と言ってそ知らぬ顔で刺激的な原著を取り寄せさせる娘は、見かけだけはもう大人びて、舒舒とますます似てきていた。長い手足、ぬばたまの黒髪。かんばせは白く、瞳は濡れた黒。

 綻びはじめた水盤の蓮に似ている。美しい、箱に入れられた少女。泥のなかで一輪咲く舒舒とは、よく似ていて、なにかが異なる。

「…哥哥、近頃舒舒と仲好しなのね」

 少し低まった声に、睿は顔をあげて衝立の方を向いた。向こう側が透視できるわけではないが、長い付き合いの娘の様子はどことなく解る。膝の上に手を置いて、ぎゅっと握りしめているのだろう。

「仲好しに見えますか。以前と変わりませんが」

 睿は、努めて淡々と返した。冬の夜とよく似た音韻で。すぐに娘の声が投げつけるように返ってきた。

「仲好しよ。二人で、夜にあずまやで話してるところを何度も見たわ」

 睿は額に手を当てた。どう返したものか。こんなことを言われたことはなかったので、娘がどんな答えを求めているのか解らない。答えなど、求めていないのかもしれない。

「わたしも外に出たい」

 化学繊維がくしゃりとつぶれる音がした。鏡台に飾られた菊の造花を指でつぶした音だ。花畑は、いちめんの菊の季節だった。

「舒舒は外の話をするの」

「……いいえ。貴女の話ですよ」

「どうして? わたしが居ないのにわたしの話をするの?」

 説明に窮して、睿は黙った。これは、何を言っても無駄だ。嵐のなかの小舟と同じで、ただやり過ごすしかない。疫病の呪いも蟲の毒も操るのはお手の物だったが、此ればかりはずっと、どうしていいのか睿には解らない、永遠の謎だった。おなじ少女という生き物でありながら、舒舒とは違う、風に吹かれる花のように気まぐれな紅色の娘。

睿哥ルイにいさんは、わたしの哥哥でしょう? そうよね? 悪い夢をみたら、哥哥が守ってくれるのでしょう? わたし、哥哥のこといつも待ってる。どんな嵐でも、わたし哥哥の傍にいるって約束したもの。

 哥哥はわたしの居ないところで、舒舒となにを話してるの?

 舒舒はわたしのこと、なんて言ってるの?」

 すがるような声が震えている。睿はええ、とだけ云った。血の繋がりの有無など、云うだけ彼女の火に油を注ぐだけだろう。

 忙しない衣擦れの音が、刃物が擦り合わされるように不快な重なりをつくる。娘は、靴を鳴らして立ち止まると、衝立越しに泣きそうな声で叫んだ。

「──わたしの代わりなんて要らないのに!」

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