第4話

 月の見えない夜だった。銀の眼が閉じて、人を盲目にする朔。風の死んだ、つめたい空だった。

 ルイを見失ったことに気づいたのは、変化のできる洋鬼ヤンクイを一匹取りにがしたあとであった。指をすり抜けた蜥蜴の残像の腹立たしさに一声吼えたあと、不意に睿がわたしを呼ばないことに不安を覚えた。

 睿、わたしの睿。わたしは獣の思考のまま辺りを見渡した。月にあてられたわたしを縛り、抱きとめてくれる人。空虚に向かって駆けながら、わたしは睿を呼んだ。此れまで一度もこんなことは無かった。睿。わたしの唯一の神。

 銃声が響いた。次いで弾丸が肉にめり込む音。僵尸の腐った頭蓋に届く、濃縮された殺意の須臾。わたしにはわかる、それがわたしのよく知るものということが。

 滅茶苦茶な形をした超巨大公寓モンスターアパートの壁面を駆け上がった目前の屋上で、双つ影が動いた。瞬きの間もなくひとつがひとつに跳びかかり、鷹が虚空に血の尾を引いて眼下の露台に墜ちた。ほんの刹那、だが見紛いようもない、わが銀の彗星。迸った鉄の臭いに寒気かした。睿が刃を抜いている! わたしはあとを追って身を躍らせなが慄然ぞっとした。睿はその躰中から血を滴らせ、狩人らしい人間に馬乗りになってその肩を刃で縫い止めていた。狩人によって額に銃口を突きつけられ、その躰中から狼と血と狂気の気配がする。そしてその横顔。見たこともないほど獣じみた、そのかんばせ! 腹に風孔を開けられて猶殺人ころすことに執着する、憎しみに燃える月。傷つき、傷つけることを欲し、なにより死に近しい瞳が、わたしの知らないはずの瞳が、わたしの知らぬ誰かに向けられている。

 わたししかばねの躰を震わせた。流れすぎた血が、彼のつめたい思考力を奪う。わたしのなかで火花が散った。青い死人の火花! 睿、わたしの道士、わたし良人おっとわたしの魂!

 彼は唯、わたしもの

 わたしが彼らの居る露台へ跳びうつり、足の側面で彼の脇腹を蹴ったのと、銀の銃弾が発射されたのは同時だった。わたしの髪についていた牡丹の真ん中を撃ち抜いて、その圧で仰け反った頭蓋のなかで脳がごろりと揺れた。腐っていても判る。狩人ハンターの燃えるような舒舒むらさきの瞳。

 わたしに吹っ飛ばされた睿は、血の痕を残して居民大楼ビルヂングの谷間に墜ちた。後を追うようにばらばらの牡丹が落ちていって、わたしはその花びらを踏みにじって跳んだ。青い虚空に、宝石みたいな血が弧を画き、月に射られて弾けた。蝶の鱗粉みたいだ、と思った。

 銃弾はわたしの頭を掠めて夜を裂いた。しなる勢いで避けながら、奈落へ墜ちた彼を追ってわたしも空へ身を躍らせた。墜ちるのは好きじゃない、復一度もういちど死ぬような爰地になるから。

 一瞬、わたしの眼下で、彼が刃を壁に突き立てて落下速度を殺したのが見えた。砕け散った混凝土コンクリートの破片が躰に当たって、どこかの配管を弾き飛ばして火花を散らした、ぱたぱたと頬になにか当たる。熱くて濡れる、下から降るのは血の雨だった。

 建物の隙間にわたされたパイプを幾つも叩き折りながら、着地したのはどこかの違法増築された凉台バルコニーの上だった。光の届かないあなぐらの底。彼も同じところに居た。刃毀れした仕込み杖でなんとか躰を支えながら、荒い息をついていた。足許には瞬く間に血泥濘ちだまりが広がって、咽喉から血塊を吐いた。わたしは駆け寄った。

「……謝謝ありがとう舒舒シュシュ

 彼の低くて穏やかな声に、いつもは闘いの糸が切れてわたしは安心する。でも今はちがう。低く押さえつけただけの、燃え上がる黒い炎のような声音。傷でなく、その内面から血の匂いがした。胎の奥、躰の芯が焙られた。

「人を狩ってはいけないと、前に云いましたね」

 首肯うなずいた。それはよく言い含められていたことだ。洋鬼ヤンクイわたし狩人ハンターは彼の獲物。

 彼の足許に、血がぽたりと垂れた。編んだ髪に染み込んだ仇の血と、裂けた肩と貫かれた腹から滴る血だった。熱い。生きている血だ。彼は息を吐いて、奪われていく体温に低く呻いた。

「金髪の人間だけは別です。別なのです。舒舒。──私の舒舒」

「光る、髪の人間」

「そうです。貴女の云う、光る髪の人間」

 月光を遮る居民大楼ビルヂングの群れが、彼の躰の半分を影で塗ってしまう。彼の表情が判らない。色濃い血の匂いも、黒い炎の気配も、巧みに覆い隠されてしまう。

「貴女に銃を向ける者を、私は二度と赦しはしない。……」

 影に引き入れられ、抱きしめられた。象牙の肌に、わずか黒い尾が残った銀の髪。わたしの心を形づくるの肉体。躰が融け合いそうなほど強く抱かれ、その指がわたしの黒い髪を撫でた。舌先に有る裂けた傷口の熱に酔う。此れがわたしのつけたものであれば良いのに。そうであれば、此れほどに命を燃やす睿の魂からのろしのように立ち上る、未だ知らぬ憎悪の味は、彼の僵尸たるわたしだけが獲られたものを!

「いいですね、舒舒。私たちは常に追われている。戦わねばならぬのです。金色の髪、白い肌、淡い瞳。此れは私たちを脅かす者。私たちを引き裂く者。異邦人は崩壊のきざはしおとなう者は死の使者なのです。憶えましたね、舒舒──」

 彼の傷ついた躰にくちづけ、わたしは繰り返した。腐った脳でも忘れないように。

 おとなう・ものは・しの・ししゃ。

 だれのための?

 あわせた胸元を熱い血が伝い落ちていった。血をわけあいながら抱きあって、夜明けを待つ。ふたり、生死の境がわからなくなる。伽藍のなかのように、彼の囁く声が響く。合歓のごとく身のうちが侵食されて融け合うなか、睿のことばわたしをかたちづくる。嗚、あなたの顔が見たい。

「舒舒。私は貴女への愛を証明します。

 ねえ、舒舒。

 貴女の名前が意味する、あの高貴な色と同じあの眼を、貴女に贈ります。それがより貴女の魂を強固にする。きっとそうなのです。そうでなくては、ねえ、憶えているでしょう。昔、婚約の証に貴女に贈った紫の石を。貴女を永らえるために埋めてしまったあの石を。あれの代わりにしましょう。これでまた、貴女への愛を証明できる。だから、今度こそ逃げきれる。

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