第3話

 月の尖った晩だった。

 真っ赤な花嫁衣裳はじっとりと血を吸って、夜闇によく紛れた。

 今晩は荒れた仕事だった。狩りが終わって、灰を蒐めている暇もなかった。いちばん目立つ招牌かんばんの上で、大きな蝙蝠のようにわたしは彼を待ち続けた。

 露地の向こうから、彼の特徴的な白い髪と黒い外套が見えた。わたしは彼を待っていた招牌かんばんの上から飛びおりた。鉄底のくつが大きな音を立てて、彼がわたしを見る。霓虹灯ネオンサインの暴力的に青い光が、彼の破れた外套と淫れた髪をぬらぬらと嘗め、頬についた血が紫に見えた。

 傾いた居民大楼ビルヂング同士の隙間で、彼は外套の影から、鞘を無くした仕込み杖を取り出してその剥き出しの白刃に眼を細めた。

「今日は聊か……面倒な相手と出逢いました」

 ぼそ、とこぼして、外套を脱ぐとそれに刃をくるんだ。下の衬衣シャツの肩には、大きく血が広がっていた。

ルイ、怪我をしているな」

「下手を打ちました。喋る奴は苦手です。…貴女は」

「無傷だ」

 躰は。服は襤褸ぼろぼろだから、また彼に直してもらうことになろう。

「良かった」

「でも睿は怪我をした」

「貴女が無事なら良いのです」

 屍の傷は治せない。彼はわたしの貌に傷が付くことをよく怖れていた。

「どんな敵だった、睿」

「……金髪の、…」

「金の髪?」

「……いえ、何でも」

 彼はかぶりを振った。金の髪、わたし洋鬼ヤンクイでしか見たことがない。夜の下で、まるで氷か、稲妻のように光るのだ。洋鬼ヤンクイとやりあったのだろうか。

 彼の暗灰色の眼が、ぼうっとわたしを透かして何か考えているようだった。彼は時々こうなる。喩えば、わたしが僵尸であるのに彼の妻であるということに、変な表情かおをする人がいて、その人が彼に何かを云ったとき。

 ゆらり、と彼の腕が伸びて、わたしのつめたいからだを抱き込んだ。べっとりと彼の胸に洋鬼ヤンクイの返り血がついて、わたしと同じ匂いに包まれた。彼の熱と鼓動がわたしの躰に伝わる。わたしも生きているように錯覚できて、この瞬間ばかりは身を切られるほどにいとおしい。

 やがて、彼は両膝を付いた。わたしの躰を抱いたまま、わたしの胎に額をそっと押しあて、首を垂れる。ときどき、彼がするポーズだ。こうなると、立っているわたしは、すべてが逆さまになったような気がする。母にすがる子のように、神に祈る巡礼者のように、彼はその掌で造り上げたわたしという血の人形に跪く。ほんとうはわたしこそが、彼の子であり、彼を信奉する者なのだけれど。彼が、一時ひとときそうすることで、魂を押し潰す悲しみと呵責に耐えているというのなら、わたしはいくらでも彼のための偶像になる。長い髪は夜の帳、甘い腐臭は芙蓉の花、つめたい躰は初春の土となれる。そして、濁ったこの眼は、あなたの罪をみることはない。

舒舒シュシュ

 傷つけられた樹皮から白い血が滲みだすように、彼は囁く。わたしは黙ってうけいれる。

 あなたの楽園になってあげたい。

 彼はふらりと立ち上がって、もう一度わたしを、絡みつくように抱きしめた。

「私は……私には、この道しかない……この生き方しか、私には……」

 彼のが、わたしの肩胛骨や、背骨や、首のかたちをなぞった。わたしのからっぽの躰を確かめる仕草は、喪いそうなものを繋ぎ止めようとするものだった。

 其のまま、鴉も居ない路地で長らく抱きあっていると、不意に遠くで銃声がした。此の都では珍しくもないことだけど、彼はゆっくり腕をほどいて、帰りましょうと言った。わたしたちに家はないけれど、彼は必ず帰るという言葉をつかう。

 金の曙光はまだ差さない。けれど、淡い紫が、都市の向こうから煙のようにたちのぼっていた。彼がわたしに促したので、わたしは彼に付いて影から影へ歩きだした。…猫みたいに。

 歩いているうちに、だんだん、ねむくなってきた。直ぐに彼が気づいて、後れていたわたしを傍らに呼び寄せた。そしてから、膝の裏と背中に腕を回して、わたしを抱えあげた。朝焼けが近くて、どろりと瞼が溶けそうで、抗えもしなかった。わたしは重たいのに、よくこんなことができるものだ。血を流している彼に忍びなくて、鶴のように飛べたら良いのに、と思うこともある。時を経ると僵尸も飛べるらしいと、なにかの流言うわさに聴いたのだ。でも、もう、ねむい。

 彼の腕のなかで、真昼の屍にもどりながら、月を見上げると、おかしな魔都建築に歪に切り取られた其れは、嗤う口のようなかたちをしていた。遠く、欠けていても、皓々と銀の月はわたしたちを傷つけない。でも、此の銀が金色に変わる夜が来たのなら、わたしは空に牙を剥く。

 妾は人形、妾は狼。

 あなたのために月を呑む。






 潮風に病んで臥し、睿を残して死んだ母の小さな墓は、屋敷より少し離れた竹林の奥にあった。月に一度そこに行くのが、声変わりも未だしていない睿の習慣だった。

 蟲をつかった呪術や、悪いものの侵入を拒む札、呪いを相手に返す人形ひとがたの術など、母から教わったものはだんだんと上手くなってきた。少年ながら一端の術を使う睿が示す忠誠を、幸い主人は切って捨てずにいてくれるようで、娘の護衛を任されたと母に報告して、睿は掃除した簡素な墓を去った。

 母はわずかな知識以外のなにも遺さなかった。復讐を求めることもなかった。季節が去るように、落日のように、静かにこの世から居なくなった。

 それが、自分たち一族にただひとつ許された生き方なのかもしれない。大河を流れ、流れて、行き着いた先で腐るのを待つ、花びらのごとく。

 睿は泣きもせず、悲しみもしなかった。母の亡骸をまえに、深く首を垂れた子供の姿は、屋敷の者からは不気味に思われたようだったが、睿は最後まで態度を変えなかった。主人の娘だけが、睿に寄り添って、睿の母の白いかんばせを見下ろしていた。


哥哥にいさん姆媽おかあさん、亡くなったの」

「ええ。避けられぬことです」

「哥哥、さびしい?」

「いいえ。……ええ」

「さびしい?」


 自分が寂しいのかわからない、と睿は思った。若しこれが寂しさと云うのなら、自分はずっと寂しかったことになる。けれど、元々空いていた穴に冷風が吹き込めばわかるように、胸のうちには確かにさざなみのような空虚がしんと痛みを伴ったしずかな冷感を、霜のように拡げていた。


「わたし哥哥のとなりにいるわ」

「……いけませんよ」

「わたし、代わりになってくれてる人があるの。だからわたしが哥哥のそばにいても平気よ」

「……」

「さむいもの、ここ」

「………」

「哥哥。……哥哥」

「……あなたの部屋にもどりましょうか。紙の蓮をつくってあげます。川に流して遊びましょうね」


 寒さには慣れていた。上海に来ても、身のうちに飼う魂ばかりは、祖先から受け継いだ北のものに違いなかったから。

 つめたい魂を抱く躰で、やっと一輪咲いた紅梅のような娘を凍えさせてしまうことが、恐ろしかった。

 裏門から敷地に入ると、花畑の匂いが運ばれてくる。今は罌粟の季節だった。時は夜、罌粟の紅が、閉じた瞼の裏にうかぶ幻のように青い闇に浮かび上がって、いちめんが紫色に見えた。

 睿は立ち止まった。肩まで伸びた髪が風にもてあそばれ、頬を撫でた。

 花畑の真ん中に、人が立っていた。大きい影ではない。華奢で、百合のように真っすぐな、少女の影。

 睿と同じ黒髪の少女は、暗い色の上衣を着て、その躰を冷たい月に縁取られていた。

 自分が守る娘に見紛うことはなかった。顔かたちはよく似ているが、佇まいが違う。この上もなく美しい、贋作だった。

 あの夜の眼を思い出した。黒い炎、紫の輝き。

 彼女に指が届くか届かないかの距離まで、ゆっくりと一歩一歩近づいていった。罌粟の花が、つぎつぎと散る。その花びらが道を作る。

 黒髪を揺らして、少女が振り返った。睿に気がついていて、そこまで来るのを待っていたようだった。その黒い髪に、風に舞う紫の罌粟が、冠を画いた。

 夜の下で、白い象牙のような肌と、切れ上がった眦と、薄い唇をつぶさに観察した。同じ樹につく異なる枝の花のように、二人はどこか似ていた。

 睿は拱手ゴォンシォの礼をした。相手は、西洋風に軽く膝を折ったが、その眼はじっと睿から離れなかった。牙を警戒する野性動物に似た、鋭い黒だった。

「納蘭です。納蘭睿」

わたし舒舒シュシュ

 少女は、年に似つかわしくない低い声でそう名乗った。闇のなかで絹を撫でたような、美しい声だった。

「北の生まれだな」

はい。貴女も」

 互いに、短く囁いて言葉を交わした。吐息と変わらないほど仄かなやり取りだった。

 古風な言葉遣いで、舒舒は続けた。

「お嬢様を守る道士がいるということは聞いていた。葉赫那拉イェヘナラ氏の末裔とは」

「貴女こそ。覚羅氏ギョロハラと関係が」

 特徴的な名前と外見から、それぞれの出自を確かめあう間に、二人は歩み寄っていた。囁き声をもっと小さくしたかったというのもあるが、もっと本能的に、相手と近づきたいと思ったのだ。

「互いに、故郷からは遠く隔たれたものだな」

「貴女も北から?」

哈爾浜ハルピンの生まれだ。この家の主人の小妈めかけだった母が死んで、わたしは逃げた」

「野火に追われて?」

そうだ。……」

 そこで初めて、舒舒は軽く目を伏せた。微かに項垂れたときに見えた首筋と、瞼の薄さに、睿は不意に、最も脆くてやさしい場所を見た気がした。水面のきらめきが霧雨に砕ける、そのひとひらのように。初雪の朝にみた、冬鳥の胸の震えのように。

 注意深く、娘と同じ長さに揃えられた黒髪を見ながら、睿は思いを馳せた。父親は同じだというのに、彼女は影にされたのだ。すべてを喪ったから、誰かの影になるしかなかったのだ。

「竹の花を見たことがある?」

「ええ」

わたしはない」

 会話を続けながら、あの夜のように互いの眼を見た。その奥にひそむものを見つけるかのごとく。舒舒も、戸籍のない身で邸で飼われている少年の姿に、あるものを感じたのだろう。睿はその眼を受けとめて、囁いた。

「百年に一度、いっせいに咲くのです」

「咲く前には予兆しらせがあるのか」

はい。風の匂いが変わります」

「ふふ。如何にも道士らしいことを云う。……」

 睿の長い黒髪や、浮世離れした格好に目を移して舒舒は微笑した。

わたしには風の匂いなど解らない。血と潮になじみすぎてしまった」

 同じだ、と思った。人を呪う言葉を紡ぎ、母の死に泣かぬ自分と、少女の躰を自己をかき消す闇に浸した彼女は。

 もう、無邪気に花の下で微笑んでいることはできない。

 沓の下で、散った赤と紫の花びらがくしゃり、と音をたてた。炎も、氷も、花も、命短いものだ。跡形もなく消え去るまえに、その薄命の輝きにこそ惹かれあう。

「では、また。…夜に」

 逢えたのなら、という言葉を舒舒は飲み込んだようだった。睿も頷くだけにとどめた。彼女を希望や約束の言葉で縛ってはいけないと知っていたから。

 自分たちにはこの生き方しかできないことを、十四歳の二人ともがよく解っていた。




「哥哥のつくる蓮は、紙なのになんでしずまないの?」


「お嬢様は水の遊びが好きだから、庭に連れ出してやってくれ。わたしが出ている日に」


「わたし、哥哥にウェディングドレスもつくってほしい! お花をたくさんつけて、溺れるくらいふわふわの!」


「あの娘は夢みがちですけれど、優しい子でしょうね。この家にさえ生まれなければ、もっと違った道があったものを」


「哥哥、みて。柘榴みたいでしょ? 舒舒がくれたマニキュアなの。……変かしら?」


「お嬢様に可愛いと云ってあげて。もう十三歳だ。あなた以外に云ってくれる人はいない」


「あの向こう岸の花畑、ほんとうに広いのね。あそこのあずまや、仙女がいそうだわ。哥哥と舒舒と行ってみたい」


「貴女に逢いたがっていましたよ、舒舒。姉みたいで大好きだと。私たち、彼女の兄と姉のようですね」


「哥哥と舒舒は仲好しなの? わたし知らなかったわ、どこで知り合ったの? 言ってくれればよかったのに」


「この上海のどこにいても命を狙われるなんて、お嬢様が可哀想だ。いっそ海をこえた遠くへ連れ出してさしあげたい」


「哥哥はわたしのこと、どう思うの? ちょっと背が高すぎたりしないかしら。ドレスは似合うかしら」


「背は心配要りませんよ、私をこえなければね。貴女と舒舒は本当に瓜二つになってきましたね。貴女も、夜会服を着られる日がきますよ」


「哥哥、本当に? 本当のことだけ云ってね。嘘はよしてね」


「睿、あなたはどう思う? あなたの方が近くに居る時間は長い」


「舒舒、わたしの代わりに何をしに行ってるのかしら。怖いこと? つらいこと? それとも……」


「いつまでも籠の鳥にはさせておけないでしょう。それはあまりに惨い。

 貴女だって、ずっと彼女の盾では……、居てほしくない」


「舒舒は、わたしの人生をぜんぶ代わりにやるの? 誰かを、愛することも?」


「睿。…また夜に」


「哥哥、近ごろ夜に、どこへ行くの?」


「舒舒。…もっと近くに」


「哥哥、どこへもいかないよね?」


「睿、茉莉花の匂いがする。……ほら」


「哥哥? 舒舒? ……二人とも、どこ?」


「……わかりませんよ、そんなの」






「云わないで、それ以上」


わたしは人形」


「血の人形なのだから」

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