第3話
月の尖った晩だった。
真っ赤な花嫁衣裳はじっとりと血を吸って、夜闇によく紛れた。
今晩は荒れた仕事だった。狩りが終わって、灰を蒐めている暇もなかった。いちばん目立つ
露地の向こうから、彼の特徴的な白い髪と黒い外套が見えた。
傾いた
「今日は聊か……面倒な相手と出逢いました」
ぼそ、とこぼして、外套を脱ぐとそれに刃をくるんだ。下の
「
「下手を打ちました。喋る奴は苦手です。…貴女は」
「無傷だ」
躰は。服は
「良かった」
「でも睿は怪我をした」
「貴女が無事なら良いのです」
屍の傷は治せない。彼は
「どんな敵だった、睿」
「……金髪の、…」
「金の髪?」
「……いえ、何でも」
彼はかぶりを振った。金の髪、
彼の暗灰色の眼が、ぼうっと
ゆらり、と彼の腕が伸びて、
「
傷つけられた樹皮から白い血が滲みだすように、彼は囁く。
あなたの楽園になってあげたい。
彼はふらりと立ち上がって、もう一度
「私は……私には、この道しかない……この生き方しか、私には……」
彼の
其のまま、鴉も居ない路地で長らく抱きあっていると、不意に遠くで銃声がした。此の都では珍しくもないことだけど、彼はゆっくり腕をほどいて、帰りましょうと言った。
金の曙光はまだ差さない。けれど、淡い紫が、都市の向こうから煙のようにたちのぼっていた。彼が
歩いているうちに、だんだん、
彼の腕のなかで、真昼の屍にもどりながら、月を見上げると、おかしな魔都建築に歪に切り取られた其れは、嗤う口のような
妾は人形、妾は狼。
あなたのために月を呑む。
潮風に病んで臥し、睿を残して死んだ母の小さな墓は、屋敷より少し離れた竹林の奥にあった。月に一度そこに行くのが、声変わりも未だしていない睿の習慣だった。
蟲をつかった呪術や、悪いものの侵入を拒む札、呪いを相手に返す
母はわずかな知識以外のなにも遺さなかった。復讐を求めることもなかった。季節が去るように、落日のように、静かにこの世から居なくなった。
それが、自分たち一族にただひとつ許された生き方なのかもしれない。大河を流れ、流れて、行き着いた先で腐るのを待つ、花びらのごとく。
睿は泣きもせず、悲しみもしなかった。母の亡骸をまえに、深く首を垂れた子供の姿は、屋敷の者からは不気味に思われたようだったが、睿は最後まで態度を変えなかった。主人の娘だけが、睿に寄り添って、睿の母の白いかんばせを見下ろしていた。
「
「ええ。避けられぬことです」
「哥哥、さびしい?」
「いいえ。……ええ」
「さびしい?」
自分が寂しいのかわからない、と睿は思った。若しこれが寂しさと云うのなら、自分はずっと寂しかったことになる。けれど、元々空いていた穴に冷風が吹き込めばわかるように、胸のうちには確かにさざなみのような空虚がしんと痛みを伴ったしずかな冷感を、霜のように拡げていた。
「わたし哥哥のとなりにいるわ」
「……いけませんよ」
「わたし、代わりになってくれてる人があるの。だからわたしが哥哥のそばにいても平気よ」
「……」
「さむいもの、ここ」
「………」
「哥哥。……哥哥」
「……あなたの部屋にもどりましょうか。紙の蓮をつくってあげます。川に流して遊びましょうね」
寒さには慣れていた。上海に来ても、身のうちに飼う魂ばかりは、祖先から受け継いだ北のものに違いなかったから。
つめたい魂を抱く躰で、やっと一輪咲いた紅梅のような娘を凍えさせてしまうことが、恐ろしかった。
裏門から敷地に入ると、花畑の匂いが運ばれてくる。今は罌粟の季節だった。時は夜、罌粟の紅が、閉じた瞼の裏にうかぶ幻のように青い闇に浮かび上がって、いちめんが紫色に見えた。
睿は立ち止まった。肩まで伸びた髪が風にもてあそばれ、頬を撫でた。
花畑の真ん中に、人が立っていた。大きい影ではない。華奢で、百合のように真っすぐな、少女の影。
睿と同じ黒髪の少女は、暗い色の上衣を着て、その躰を冷たい月に縁取られていた。
自分が守る娘に見紛うことはなかった。顔かたちはよく似ているが、佇まいが違う。この上もなく美しい、贋作だった。
あの夜の眼を思い出した。黒い炎、紫の輝き。
彼女に指が届くか届かないかの距離まで、ゆっくりと一歩一歩近づいていった。罌粟の花が、つぎつぎと散る。その花びらが道を作る。
黒髪を揺らして、少女が振り返った。睿に気がついていて、そこまで来るのを待っていたようだった。その黒い髪に、風に舞う紫の罌粟が、冠を画いた。
夜の下で、白い象牙のような肌と、切れ上がった眦と、薄い唇をつぶさに観察した。同じ樹につく異なる枝の花のように、二人はどこか似ていた。
睿は
「納蘭です。納蘭睿」
「
少女は、年に似つかわしくない低い声でそう名乗った。闇のなかで絹を撫でたような、美しい声だった。
「北の生まれだな」
「
互いに、短く囁いて言葉を交わした。吐息と変わらないほど仄かなやり取りだった。
古風な言葉遣いで、舒舒は続けた。
「お嬢様を守る道士がいるということは聞いていた。
「貴女こそ。
特徴的な名前と外見から、それぞれの出自を確かめあう間に、二人は歩み寄っていた。囁き声をもっと小さくしたかったというのもあるが、もっと本能的に、相手と近づきたいと思ったのだ。
「互いに、故郷からは遠く隔たれたものだな」
「貴女も北から?」
「
「野火に追われて?」
「
そこで初めて、舒舒は軽く目を伏せた。微かに項垂れたときに見えた首筋と、瞼の薄さに、睿は不意に、最も脆くてやさしい場所を見た気がした。水面のきらめきが霧雨に砕ける、そのひとひらのように。初雪の朝にみた、冬鳥の胸の震えのように。
注意深く、娘と同じ長さに揃えられた黒髪を見ながら、睿は思いを馳せた。父親は同じだというのに、彼女は影にされたのだ。すべてを喪ったから、誰かの影になるしかなかったのだ。
「竹の花を見たことがある?」
「ええ」
「
会話を続けながら、あの夜のように互いの眼を見た。その奥にひそむものを見つけるかのごとく。舒舒も、戸籍のない身で邸で飼われている少年の姿に、あるものを感じたのだろう。睿はその眼を受けとめて、囁いた。
「百年に一度、いっせいに咲くのです」
「咲く前には
「
「ふふ。如何にも道士らしいことを云う。……」
睿の長い黒髪や、浮世離れした格好に目を移して舒舒は微笑した。
「
同じだ、と思った。人を呪う言葉を紡ぎ、母の死に泣かぬ自分と、少女の躰を自己をかき消す闇に浸した彼女は。
もう、無邪気に花の下で微笑んでいることはできない。
沓の下で、散った赤と紫の花びらがくしゃり、と音をたてた。炎も、氷も、花も、命短いものだ。跡形もなく消え去るまえに、その薄命の輝きにこそ惹かれあう。
「では、また。…夜に」
逢えたのなら、という言葉を舒舒は飲み込んだようだった。睿も頷くだけにとどめた。彼女を希望や約束の言葉で縛ってはいけないと知っていたから。
自分たちにはこの生き方しかできないことを、十四歳の二人ともがよく解っていた。
「哥哥のつくる蓮は、紙なのになんでしずまないの?」
「お嬢様は水の遊びが好きだから、庭に連れ出してやってくれ。
「わたし、哥哥にウェディングドレスもつくってほしい! お花をたくさんつけて、溺れるくらいふわふわの!」
「あの娘は夢みがちですけれど、優しい子でしょうね。この家にさえ生まれなければ、もっと違った道があったものを」
「哥哥、みて。柘榴みたいでしょ? 舒舒がくれたマニキュアなの。……変かしら?」
「お嬢様に可愛いと云ってあげて。もう十三歳だ。あなた以外に云ってくれる人はいない」
「あの向こう岸の花畑、ほんとうに広いのね。あそこのあずまや、仙女がいそうだわ。哥哥と舒舒と行ってみたい」
「貴女に逢いたがっていましたよ、舒舒。姉みたいで大好きだと。私たち、彼女の兄と姉のようですね」
「哥哥と舒舒は仲好しなの? わたし知らなかったわ、どこで知り合ったの? 言ってくれればよかったのに」
「この上海のどこにいても命を狙われるなんて、お嬢様が可哀想だ。いっそ海をこえた遠くへ連れ出してさしあげたい」
「哥哥はわたしのこと、どう思うの? ちょっと背が高すぎたりしないかしら。ドレスは似合うかしら」
「背は心配要りませんよ、私をこえなければね。貴女と舒舒は本当に瓜二つになってきましたね。貴女も、夜会服を着られる日がきますよ」
「哥哥、本当に? 本当のことだけ云ってね。嘘はよしてね」
「睿、あなたはどう思う? あなたの方が近くに居る時間は長い」
「舒舒、わたしの代わりに何をしに行ってるのかしら。怖いこと? つらいこと? それとも……」
「いつまでも籠の鳥にはさせておけないでしょう。それはあまりに惨い。
貴女だって、ずっと彼女の盾では……、居てほしくない」
「舒舒は、わたしの人生をぜんぶ代わりにやるの? 誰かを、愛することも?」
「睿。…また夜に」
「哥哥、近ごろ夜に、どこへ行くの?」
「舒舒。…もっと近くに」
「哥哥、どこへもいかないよね?」
「睿、茉莉花の匂いがする。……ほら」
「哥哥? 舒舒? ……二人とも、どこ?」
「……わかりませんよ、そんなの」
「云わないで、それ以上」
「
「血の人形なのだから」
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