第2話

 寒々とした荒野と、夜雨に幻のようにきらめいた、竹の花ばかりを憶えている。百年に一度咲く、銀の花。天の涙のような、翡翠のあちらこちらから溢れる、夢のしぶき。

 それが、最初で最後の、遠い北の故郷の記憶だ。

 次の記憶は、どこかの胡同フートンの物陰で、母の胸に抱かれて身を潜めている感覚だ。そのときも、生温い雨が降っていた。北京かどこかの街だろう。納蘭ナランルイは十歳にも満たなかった。

 時はちょうど文化大革命の最中であった。赤い革命が野火のように中国全土に燃え広がり、血が大地を潤した。

 もともと、中国東北部の山間部に暮らしていた納蘭の一族は、旧き異民族の流れを汲むその血筋と独特の文化ゆえ、次々と槍玉にあげられ、道士であった父と母は命辛々、幼子の睿を抱えて逃げ延びてきたという。その途中で、母に睿を託して父は殺され、母だけが上海までたどりついた。この都市は、黒幇マフィアや西洋から流れ込んだ人々が闊歩する、混沌とした泥のごとき都市であったが、それゆえに蓮のようなきらめく奇妙な文化が美しく咲き淫れていた。

 そのような、黒き蓮の一輪であるらしい家に、睿と睿の母は迎え入れられた。その家の主人には、睿らと同じように、切れ長の眼と色白の肌を持つ妻と幾人かの小妈めかけと、娘がいた。

 睿の母が多少なりとも夫から教えられた道術が役に立つと思ったのか、親子は娘の余多いる護衛に雇われた。睿は、年近いその娘の遊び相手にも任命された。

 以来、幾星霜。

 睿は、遠い祖先から受け継いだ血によって、竹のように背の高い少年になった。騎乗に向いた長い手足と、遠くを見る暗灰色の瞳に、墨を流したような黒髪をしていた。

 大人びすぎている、と評したものがいた。可愛いげがない、とも、不気味だとも。本当は老人なのに、道術を用いて子供の姿をしているだけではないか、とすら言われた。

 少年は貝に徹した。真珠を抱くやわらかな裡は隠して、その昏い瞳で遠くを見ていた。

 彼は、主人の娘とともに、屋敷からほとんど出ずに過ごした。自分はともかく、なぜ娘はどこへも行かないのだろうと睿は不思議に思ったが、あるとき主人のひとりめの子供が過去、仇によって誘拐されて殺されたという話を聞いて以来、箱のなかの箱に娘を閉じ込めるような育て方にも得心がいった。しかし、娘の、太陽と馴染まない白い肌を見るにつけ、不憫だと思った。

 あるときから、娘に影武者が用意されたのは知っていた。娘の代わりに学校へ行き、娘の代わりに親へついて会合へ出席する。敵の多い睿の主人は、自分の死よりも娘の危険を何より恐れていた。切れ長の眼と色白の肌を持つ妾の子のうちから選ばれたのだろう、と睿は思った。娘の影。それは自分達とよく似た、銀の花の似合う別の国の民なのだ。

 睿は、邸宅でひとり遊ぶ娘の傍らで、道術の修行をした。初めは書物から、夜には母から、そして少し大きくなってからは自力で、呪術を学んでいった。


哥哥にいさん、書の学之けいこをしているの?」

「こら、触らない。此れは疫病の呪いの札なんですからね」

「なんでそんなもの書くの?」

「貴女をお守りするためですよ」

「……うふふ」

「こら、だから触らない。字が変になるでしょう」


 友達のいない娘は、睿になついた。二歳年上の睿を哥哥にいさん、と呼んで、男女の仲になることを危惧した親から、同じ部屋にいるときに二人の間を衝立で仕切られるようになる十四歳まで、睿のあとをついてまわった。


「今日の園遊会、どうして行っちゃいけないのかしら」

「危ないからですよ。兎は草のない荒れ地に行っては不可いけないのです。狼の眼から逃れられないから」

「哥哥がついてきてくれればいのよ。わたしを守ってくれるのでしょ」

「だめなことはだめです。貴女のお父様が決めたことですよ」

爸爸パーパも哥哥も分らず屋。わたし、もう十二歳なのに!」


 睿が娘の影武者に出会ったのは、その頃のことである。

 邸宅の庭には造られた河が流れていて、睡蓮や梅花藻が水面を清く彩っていた。その向こうには、花畑とあずまやが設えられ、時おりそこで園遊会が開かれるのだった。

 睿は、邸宅の上階から、少しカーテンを開けて外を見た。西洋建築の堅牢な窓の向こうでは、蜜のように濃い夜を透かして、ほんの少しだけ河辺の燈籠の火が揺れているのがわかった。

 曲水の向こうのあずまやに、人影が見えた。眼を凝らすと、そこには主人と、妻と、幼い少女がいて、睿はそれが娘の影武者なのだと理解した。

 少女は黒髪を背に垂らし、夜会なのか、紫色のドレスを着ていた。雪のような肌に、高い腰が、彼女の出自を密やかに物語る。周囲の、主人の客であろう人々に比べて、どこかこの世のものではないような幽美ささえ醸していた。

 睿は厚い布の隙間から、じっとその少女を観察していた。自分と同じくらいの年頃に見えるが、その落ち着きは大人のようだった。誰かの代わりを演じることは、心を早く老いさせる。

 次の瞬間、少女がこちらを振り返った。その両眼は、黒い矢のように真っすぐに、睿の両眼をとらえた。

 息が止まった。

 少女は、河ひとつ隔てた、屋敷の上階からの視線に気がついたのだ。睿は動けなかった。足を雷で縫い止められたように。驚きや恐れよりも何よりも、魅入られたのだ。

 けして人形や、幽霊などではない。あの眼。ふたつの、切れ長の、黒く美しい眼。

 そのとき、生まれて初めて炎が見えた。黒い花が燃え上がり、紫の輪郭が立ち上るような鮮烈な火。人の身の奥底に輝く、魂の炎。

 記憶の澱の底深く、燠火となってひそんでいたあの竹の花の光景がぱっと銀の火を散らした。

 百年に一度咲く、運命の花。

 少女も、睿から眼を逸らさなかった。月に魅いられた獣のように、その燃える瞳で、黒髪の少年を見つめていた。





 憶えている。

 あの、雲の向こうに隠れた月のような瞳。

 よく憶えている。

 黒く燃える血のみち不往いかざるを得ない、わたしを見下ろす仄かな月。

 夜道の蝋燭のように、芥子粒より果敢無はかなわたしの運命を照らす、生涯でたったひとつの、小さな光。

 わたしは影。

 あなたが居なければ、闇のなかに溺れて消える、黒い人形。

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