真っ赤な人形

しおり

第1話

この国では死人を葬むりません。お人形のようにガラスのケースにおさめ、家のなかに飾っておくのです。

―多田智満子「遠い国の女から」



納蘭ナラン、か」

 黒眼鏡をかけた男は低く呟いて、目の前に立つ人間をじっとりと観察した。

 魔都の大路、計画性もなくただ混凝土コンクリートを積み重ねつづけ、月夜に傾いた贋の摩天楼。

 そのねじれた灰色の一室で、マフィアと呼ばれる組織に属したその男は、奇妙な雇われ人と相対していた。

 姓は納蘭、名はルイ、二文字の姓は、この都市では珍しい。本名かはわからないが。

葉赫那拉イェヘナラ氏の末裔にそんな姓の詩人がいたな」

「ええ、その家系です」

 値踏みされる目で見られているのも慣れているそぶりで、その男はゆっくり、曖昧に頷いた。真偽はどうあれ、確かに彼は東北部の少数民族の特徴を持っていた。磨いた象牙のような青白い肌、通った高い鼻梁、切れ長の眼、高い腰の位置。やけに長身なのは、さらに北方の血が入っているからか。

 遠い昔、長城を越えてやってきた草原の民。

 この魔都では異質だ。

 納蘭という男は、年齢のわりに雪が降ったような白髪をして、それが生ぬるい魔都の夜風に揺れていた。ほんの少し、項にほど近いところで竹の花を思い出させるような、夢のような銀と黒がいりまじっていた。

 黒眼鏡の男は、彼がその背に負った威容の黒い匣に視線を向けた。

 その匣は、奇妙な八角形をしていた。夜の宝石のように黒く、西洋風の柩のように上部が広く、角度や辺は不均等で、あちこちに僵尸に使われるものと同じ札が貼られている。納蘭は、彼自身よりもなお丈高いその匣を、真っ赤な臍の緒に似た縄でくくり、背負っていた。

 八角形の影からは、ひんやりと、そこはかとない冷気が漂ってくる。

「……当然、が、──相方なんだな」

 慎重に言葉を選ぶ。道士は奇妙な信念や美学を持つ者も多く、僵尸を単なる使役される妖怪として扱うことが彼らの地雷を踏むことになるかも知れなかったからだ。

 果たして、相方という表現にも案の定納蘭は首を傾げた。

「ええ、まあ、確かには私の僵尸ですが──相方というよりは、そうですね──」

 呟きながら、匣をくくりつけていた縄を肩から外し、丁寧に地面に下ろす。まだ、蓋が開かないように何重かに巻かれている赤い縄を、一本ずつほどいていく。男は体を緊張させて、その作業を見守っていた。

 しゅるり、と最後の縄がほどける。

 がた、と蓋が揺れた。

 納蘭は落ち着いた手つきで、札を一枚一枚、ゆっくり剥がし始めた。破れないよう丁寧に、剥がしたものは束ねて胸元にしまいながら、がた、がたん、とだんだん大きくなってくる揺れにも動じず、優しく蓋を撫でる。

 最後の一枚に指をかけたとき、納蘭は男の方を振り返って、低く囁いた。

 蓋が開いた。

 まずは、紙一枚が通るほどの隙間。蛇が足にまとわりつくような冷気が、男の靴をなめた。

 かたり、とずれた蓋の隙間から、不意に大蛇のような黒髪が、ぞろりと雪崩れ落ちた。

舒舒シュシュと云います。二十歳で死にました」

 巨大な蓋がすべて外れ、音もなく床に倒れた。ぶわりと舞った埃を拭いさるように白い霧が流れだし、雲海となって月光に青く光った。

 覚悟していた腐臭の類いは意外なほどにない。代わりに、墓場の苔と湿った土が薫った。

 清朝の花嫁衣裳のような、真紅の旗装チャイナドレス。星明りに透ける血色のベールを冠り、黄色い札が揺れる大拉翅あたまかざりには大輪の牡丹と流蘇がしゃらしゃらと光っていた。

 造花。

 初めて覚えた印象はそれだった。それから気づく、絹のつくりものだと思っていたものが、とうに枯れて死んだ花ということに。

 納蘭が、いとおしそうな仕草で死体の顔を覆う紗を持ち上げる。あらわれたのは、東洋系の若い女の、美しいがひとめで死んでいるとわかる顔だった。

「舒舒、醒来吧おきなさい。仕事の時刻です」

 屍がわずかに身じろいだ。

 黒い羽根のような睫毛がはためき、ゆっくりと持ち上がった。

 蒼白いかんばせは、木蓮の花びらのように血の気がなく、ほのかに甘い死の匂いがした。





 わたしは屍。

 わたしは僵尸。

 魂のない、あなたの人形。

 腐りかけた、真っ赤な、血の人形。


 生きていたときのことは憶えてない。姓名もあざなも憶えていないので、覚醒めざめて初めて舒舒シュシュ、と呼びかけられても、何のことか判らなかった。

 わたしには今夫がいて、その人がわたしを僵尸にした。

 彼は月光みたいな白髪に墨を垂らしたようなみつあみをして、今風の士大夫がくしゃのような身装みなりをしているが、道士である。異国風の名と、優しい声と、物静かな質をもっている。彼は黄色い札に赤い文字を書いてわたしを封じ、わたしの頸に彼の髪で結った縄をむすぶ。

 処刑のように。

 慈悲の掌が、わたしの頸を絞める妄想が、わたしの腐って膨張しかけた脳を恍惚におとしめる。

 わたしの目玉は濁っているから、彼の姿に光の輪が幾重にもかかって、神さまのように見えるのだ。

 彼は毎朝はやくに出掛ける。わたしは手足を封ぜられ、八卦の紋のなかで、それを見送る。黒い匣。わたしの柩。それで彼が何をするかというと、花をってくる、大体は。白い菊とか、紫の牡丹とか。それで、わたしの柩にいれる。旅の道中で、花屋が無かったときには、そこらで手折った百日紅や梅を腕いっぱいに抱えて帰ってきた。四季おりおりに、彼はわたしに新しい花を見せたがる。

 彼は、いつかわたしに竹の花をみせてくれると云う。

 食卓につくと、彼は購ってきた花びらを幾つかつんで、血と灰を混ぜた茉莉花茶ジャスミンティーにいれてわたしに飲ませる。血は甘くて、灰は苦い。魂の味がする。

 そうして、日が暮れると、わたしたちは仕事へ出掛ける。

 わたしたちの仕事は、洋鬼ヤンクイを狩ることだ。

 わたしが血と蜂蜜の飴を噛んで待っている間に、彼が標的について調べあげたことを色々と確かめている。彼は黒幇マフィアから依頼を請けて、わたしといっしょに洋鬼を殺す。そして、灰になる前の彼等のはらを捌き、新鮮なきもと血をわたしに喰わせる。太陽や銀のせいで、彼等が灰になったあとは、それを蒐めて、幾らかはあしたのお茶のためにっておく。

 洋鬼を狩ったあくる朝は、わたしも彼も疲れてねむっていることが多い。洋鬼というのは欧州の魍魎ばけもので、人の血を吸って千年を生きるのだと云う。そんなら、わたしたち僵尸と変わらないじゃないかと思ったけれど、彼は違うとう。

 死んで洋鬼になった者は、生きていた頃となにひとつ変わらないのだそうだ。

「舒舒、私はね、あなたを元のあなたへ戻すことが望みなのですよ」

 彼が云うことには、洋鬼の血や臓物や灰をわたしに喰わせているのは、生きていた頃の儘永らえている彼等の精気を得るためで、あとは魂をもどす術さえ見つかれば、わたし可以復活いきかえれると。

 彼はわたしの魂をさがしている。鬢がしろいいとのようになってまで。

 わたしがなにも憶えていないから。

 わたししたいだから、彼を慰めることも、あたためることもできない。腑は少し腐りかけだし、いつも睡ってばかりいるし、気の利いた小喋おしゃべりもできなくて、小児こどもも産めないし、一緒に歳もとってあげられない。

 其れだけじゃない。

 近ごろ、ある夢をる。

 其れはいちめんの花の匂いと、夜におおわれている光景だ。わたしは立っている。鏡の前だ。鏡には女と、その後ろにはもう一人男が立っている。墨を流したような黒い髪をして、少し若いけれど、彼だと判る。

 わたし自身が彼に向かってなにかを話しかけている。けれど、水の底のように自分が何を言っているのか解らない。

 哥哥にいさん、と聴こえたような気がした。

 彼は奇妙に表情がない。月が隠れて、星もなく、あたりは昏い。だから彼の顔は見えない。

 彼はわたしの頚に、彼自身の編んだ髪を巻きつける。其れから……。

 そこで必ず眼が醒める。なにか恐ろしいことが起きるのではなくて、きっと、そこで終いだからだ。眼を開けたとき、目前には白い髪をした今の彼が居て、いつも哀しそうに、睡ってばかりのわたしの頬を撫でる。わたしを殺したかもしれない指の熱さに、魂の距離を知る。彼がどうしていつもそんなに哀しそうなのか、身を切るほどに解る。

 わたしが、「ほんとうの妻」ではないから。

 真っ赤な、血の人形。

 愛しい人を模した、贋作の人形。

 でも、わたしは彼を愛している。児が親を愛するように、人が神を愛するように。

 人形も人形なりに、愛するのだ。

 わたしが何になれるか、何ができるか、ぼんやりした頭で考える。花に埋もれて、蓮のように、ゆらゆらと……。

 わたし桃燈ちょうちんだから、頭も魂もからっぽだけど、あなたのため燃えることならできる。

 わたしは木偶人形だから、手と足をポッキリ折ったら、寒い冬に火にくべることができる。

 わたしの旦那さま。

 わたしは骨の髄まであなたのもの。

 あなたのためなら何でもできる。

 何にもできなくなったら、わたししたいに戻る。朽骨がいこつになって、どこかの曠野に打ち捨てられても没法子それでいい

 わたしが、魂を手にいれたら、ほんとうにあなたの妻になれるのかは判らない。わたしはなにも憶えていないから。あなたの妻が甦る日、わたしはもしかしたら消えるのかもしれない。

 いつかあなたの幸せに手が届くなら、わたしはその日消えてもいい。

 もともと夢のような十余年だもの。

 わたしは屍。

 わたしは僵尸。

 魂のない、あなたの人形。

 腐りかけた、真っ赤な、血の人形。

 勅令陏身保命あなたのためにしんでもいきる

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