第22話「足利 義輝」21(全192回)
『戦国時代の群像』「足利 義輝」21(全192回)
「足利 義輝」(1536~1565)室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年 - 1565)。天文5年(1536)3月10日、第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。幼名を菊童丸。誕生直後に外祖父・近衛尚通の猶子となる。この頃の幕府では父・義晴と管領の細川晴元が互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸もそれにたびたび従った。その後も父と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。天文15年(1546)12月、菊童丸はわずか11歳にして、父から幕府将軍職を譲られる。父・義晴がかつて11歳で元服・将軍宣下を行ったことに加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。ところが、細川晴元の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあった三好長慶が晴元を裏切って細川氏綱陣営に転属。天文18年(1549)6月、江口の戦いで長慶に敗れた晴元によって義晴・義藤父子は、京都から近江坂本へ退避し、常在寺に留まった。天文19年(1550)5月、義晴が穴太にて死去[2]。天文21年(1552)1月、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻った。ただし将軍とは有名無実で、長慶とその家臣・松永久秀の傀儡であった。天文22年(1553)に晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退。再び近江朽木へ逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。なお、亡命中の天文23年(1554)2月12日、名を義輝に改めている。なお年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなり、朝廷に抗議している。長慶はなおも権勢を高め、幕府の御相伴衆に加えられ、さらに官位の修理大夫に推挙されたが、同時に義輝の臣下として幕府機構に組み込まれることとなった。義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。また懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許した。さらに自らの名の偏諱(1字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)や筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏・藤政などに、「輝」の字を毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えた。また島津義久、武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。永禄元年(1558)の義輝の帰京以降も三好長慶の権勢は続いたが、それに反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起し、三好実休が戦死する(久米田の戦い)と、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。こうした中、永禄5年(1562)に長慶と手を結び幕政を壟断していた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、新しく摂津晴門を政所執事とした。これに激怒した貞孝は反乱を起こしたが、9月に長慶の手で討たれた。これによって、かつての3代将軍、足利義満の介入すら不可能だった伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、幕府将軍による政所掌握への道を開いた。永禄2年(1559)、大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。もともと、九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していたため、これを補うための補任であった。大友家は九州において、足利将軍家に最も親しい有力守護大名である。永禄7年(1564)7月に長慶が病死。義輝はこれを機に幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。しかし、傀儡としての将軍を擁立しようとする松永久秀と三好三人衆にとっては、将軍家の直接統治に固執する義輝は邪魔な存在であった。久秀の長男松永久通と三人衆は足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍にと朝廷に掛け合うが、朝廷は耳を貸さなかった。一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年(1563)の観音寺騒動以降、領国の近江を離れられなくなっていた。永禄8年(1565)5月19日、久通と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢率い二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り取次ぎを求めた(永禄の変)。義輝は自ら薙刀を振るって奮戦したが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり、殺害された(または、槍で足を払われ、倒れたところに上から刺し殺されたともいう)。享年30(満29歳没)。この時、摂津晴門の嫡子・糸千代丸も一緒に討ち死にした。また、義輝の生母である慶寿院も殉死している。辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます