第23話「六角 義賢 / 六角 承禎」22(全192回)

『戦国時代の群像』「六角 義賢 / 六角 承禎」22(全192回)

「六角 義賢 / 六角 承禎」(1521~1598)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。南近江の守護大名・戦国大名。観音寺城主。大永元年(1521)、六角定頼の子として生まれる。父・定頼の晩年から共同統治を行ない、父と共に姉婿に当たる細川晴元を援助して三好長慶と戦った(江口の戦い)。天文21年(1552)、父の死去により家督を継いで六角家の当主となる。六角家は甲賀郡を含む近江国の守護であり、更に伊賀国4郡のうち3郡の間接統治も行っていた(但し北近江は京極氏の勢力圏となっていた)。父の死後も第13代将軍・足利義輝や細川晴元を助けて三好長慶と戦うが、優勢であった三好氏との勢力差が逆転し、敗戦し続けた。しかし永禄元年(1558年)、北白川の戦いの後に義輝と長慶の和睦を仲介することで義輝を京都に戻し、面目を保っている。これを契機に、対立していた北近江の浅井久政が六角領に対して侵攻を開始するが撃退し浅井氏を従属下に置いた。従属関係を強調するため、久政の嫡男に偏諱を与えて賢政と名乗らせたり、家臣の平井定武の娘を娶わせたりした(後に離婚)。永禄2年(1559)に嫡男の義治に家督を譲って隠居し、剃髪して承禎と号した。翌永禄3年(1560)、浅井長政が六角氏に対して反抗を開始、義賢はこれを討伐するために大軍を自ら率いたが、長政率いる浅井軍の前に大敗を喫した(野良田の戦い)。この敗戦により、それまで敵視していたと言われる斎藤義龍とも同盟関係を結び、対浅井氏の戦を繰り広げていくが、戦況は芳しくはなかった。斎藤義龍との同盟は、家督を譲られた嫡男・義治が主導したものと思われる。承禎は姉妹が美濃守護・土岐頼芸に嫁いでいるため、美濃を簒奪した出自の怪しい斎藤氏との同盟に反対する旨の書状が見つかっている。承禎は室町時代以来の伝統的な同盟相手である土岐氏の美濃復帰を志向する保守的な性格を示すとともに、斎藤氏が織田氏・朝倉氏と敵対関係にあったことから、その対立に六角氏に巻き込まれることを危惧する現実的判断があったと考えられる。永禄4年(1561)、細川晴元が三好長慶に幽閉されると承禎は激怒し畠山高政と共に京都に進軍し長慶の嫡男・三好義興と家老の松永久秀と対戦。一時的ではあるが三好氏を京都より追い出すことに成功している。翌永禄5年(1562年)3月5日に高政は河内国に於いて長慶の弟である三好実休に大勝し、実休を敗死に追い込んでいる。そして翌6日に承禎は洛中に進軍し、8日に徳政令を敷き山城国を掌握した。しかし、承禎は何故か山城を占拠した後は動かず、4月25日には高政に督促されたが依然として停滞し、続く5月19日から20日にかけて教興寺の戦いで畠山軍が壊滅すると山城から撤退、三好長慶と和睦した。永禄6年(1563)、義治が最有力の重臣で人望もあった後藤賢豊を観音寺城内で惨殺するという事件が起こった。賢豊が承禎の信任が厚かったことから、義治が賢豊を殺害したのは承禎の影響力を排除する目的であったとする説もある[1]。これにより、家臣の多くが六角氏に対して不信感を爆発させ、承禎も義治と共に観音寺城から追われるまでに至ったが、重臣の蒲生定秀・賢秀父子の仲介で承禎父子は観音寺城に戻ることができた。その後、永禄8年(1565)に将軍足利義輝が松永久秀・三好三人衆に殺害される永禄の変が発生すると、義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が近江国の和田惟政の下に逃れる。当初、承禎は覚慶の上洛に協力する姿勢を見せて野洲郡矢島に迎え入れたり、織田信長・浅井長政の同盟(お市と長政の婚姻)の斡旋をしているものの、三好三人衆の説得に応じて義昭(覚慶)を攻める方針に転じたため、義昭は朝倉義景の元に逃れた。これを受けて、永禄9年(1566)には浅井長政が六角領に対して侵攻を開始するが、もはやそれを食い止めるだけで精一杯だった。永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、承禎は三好三人衆と通じて信長の従軍要請を拒絶、織田軍と戦った。しかし観音寺城の戦いで大敗を喫し、東山道沿いの観音寺城から南部の甲賀郡に本拠を移した(但し、これは祖父の六角高頼の鈎の陣に倣ったものでもあった)。元亀元年(1570年)6月には体制を建て直し、承禎は甲賀郡から南近江に北進、長光寺城に立て籠もる信長の重臣・佐久間信盛と柴田勝家を激しく攻めたてた(野洲河原の戦い)。更に8月には義治と共に朝倉義景・浅井長政や三人衆らと同盟し(野田城・福島城の戦い)、南近江の地で織田軍を圧迫した。この戦いでは同盟軍が優勢となり危機に陥った信長は同盟軍の切り崩しを図り、11月に足利義昭を通じて承禎父子と和睦している(志賀の陣、信長包囲網)。元亀3年(1572)1月、甲賀郡から承禎は再度出陣し、湖南の三宅城・金森御坊(金森の一向一揆)と共に信長に抗戦している。これに手を焼いた信長は佐久間信盛と柴田勝家に攻撃を命じ、付近の寺院をことごとく放火し、近在の百を越える村々に今後、六角氏に味方しないよう起請文を提出させている(元亀の起請文)。この頃、大和の松永久秀や将軍・足利義昭も織田信長から離反しており、織田家の最前線は実質的に承禎がゲリラ戦を展開する近江まで後退していた。元亀4年(1573)4月、承禎は湖東に進出し鯰江貞景の鯰江城に入った。信長は百済寺に陣を構え、佐久間信盛・柴田勝家・蒲生賢秀・丹羽長秀により鯰江城を囲んだが、同月11日に百済寺が六角勢を支援していたとして寺を焼き払い、攻略を諦めて岐阜に帰還している。しかし、同年8月、承禎と連携していた朝倉義景・浅井長政が刀根坂の戦い・小谷城の戦いで敗れ、信長に討たれてしまう。同年9月4日、信長はそのまま佐和山城に入り六角義治の籠る鯰江城攻めを柴田勝家に命じ、今度はこれを落とし9月6日に岐阜へ凱旋した。更に、同月、承禎の籠る甲賀郡北部の菩提寺城と石部城も佐久間信盛に包囲された。同年10月25日、長島一向一揆を攻めた織田勢は帰陣の際に甲賀・伊賀勢を加えた門徒に襲撃され殿軍の林通政が討ち取られたが、信長は難を逃れ大垣を経て岐阜に帰還した。翌天正2年(1574)4月13日、菩提寺城と石部城もついに落城し、承禎は夜間雨に紛れ甲賀郡南部の信楽に逃れた。一方、畿内においては、同年正月に大和の松永久秀が信長に服属、同年11月に摂津の伊丹親興が織田方の荒木村重に城を落とされ自害、山城や摂津に居た三好三人衆も霧散し、畿内はほぼ信長に制圧された。その後、承禎は甲賀と伊賀の国人を糾合して信長に抗戦したとも、石山本願寺の扶助を受けていたとも、あるいは隠棲していたともいわれるがはっきりしていない。天正9年(1581)4月には、長年独立を保っていた伊賀もついに信長に平定された(天正伊賀の乱)。同年、承禎はキリシタンの洗礼を受けている。その後、承禎は天下を掌握した豊臣秀吉の御伽衆となり、秀吉が死去した慶長3年(1598年)に死去した。享年78。子の義治は慶長17年(1612)、義定は元和6年(1620)にそれぞれ死去した。承禎の位牌は嫡男・義治と共に、京都府京田辺市の一休寺にある。義治の系統は加賀藩士、義定の系統は江戸幕府旗本となった。

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