第13話「武田 信虎」12(全192回

『戦国時代の群像』12(全192回)「武田 信虎」(1494~1574)戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。明応3年(1494)もしくは明応7年(1498)1月6日、武田氏の第17代当主・信縄の嫡男として生まれる。初名は信直(のぶなお)。

生年の明応3年説は江戸時代前期に成立した軍記物『甲陽軍鑑』に天正2年に81歳で死去したとする記述がる。室町時代の甲斐国では、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱に守護・武田信満が加担して滅亡したことをきっかけに守護不在状態となり、河内地方の穴山氏や郡内地方の小山田氏らの国人勢力や守護代の跡部氏らが台頭し、乱国状態となっていた。

寛正6年(1465)7月には守護・武田信昌が跡部景家を滅亡させると甲斐国内の実権を握り、明応元年(1492)には信昌の嫡男・信縄が家督を相続した。信直の叔父にあたる信恵は弟の岩手縄美・栗原昌種(惣次郎)や都留郡の国衆・小山田弥太郎のほか、河村氏・工藤氏・上条氏らと結び、信直に対抗した。永正4年(1507)には堀越公方が滅亡した。

永正5年(1508)10月4日の坊峰合戦(笛吹市境川町坊ヶ峰)において信恵方は大敗し、信恵自身のみならず岩手縄美や栗原昌種・河村左衛門尉、信恵子息の弥九郎・清九郎・珍宝丸らが戦死した。これにより信直による武田宗家の統一が達成される。信恵の滅亡後に、小山田弥太郎は国中侵攻を行い敗死する。

都留郡では工藤氏や小山田一門・境小山田氏の小山田平三が伊勢氏(後北条氏)のもとへ亡命する。永正6年(1509)秋に信虎は都留郡へ侵攻し、翌永正7年(1510年)春には小山田氏を従属させる。『勝山記』によれば、信虎は弥太郎の子・小山田信有(越中守信有)に実妹を嫁がせている。また、都留郡へ近い勝沼(甲州市勝沼町)には実弟・勝沼信友を配した。

『勝山記』によれば、永正10年(1513)5月27日には甲斐国河内領の穴山氏当主・穴山信懸が子息の清五郎により殺害される事件が発生する。『菊隠録』によれば信懸の息女は信虎の本拠である川田館(甲府市川田町)近くに居住しており、信虎と友好な関係を築く一方で、今川氏親や伊勢宗瑞とも関係の深い両属の立場にあり、信懸の暗殺の背景には穴山氏家中における帰属を巡る対立があったとも考えられている。

穴山氏当主となった信綱(信風)は今川氏に帰属し、永正12年(1515)には今川氏は甲斐へ侵攻する。1520年(永正17年)に信虎は大井氏とも和睦し、信達の娘(大井夫人)を正室に迎える。甲斐国の守護所は信昌・信縄期には石和館(甲府市川田町・笛吹市石和町)に置かれていたが、『王代記』によれば、信虎は永正15年(1518)に信虎は守護所を相川扇状地の甲府(甲府市古府中町)へ移転する。

『高白斎記』によれば、信虎は永正16年(1519)8月15日から甲府に居館である躑躅ヶ崎館の建設に着手し、城下町(武田城下町)を整備し、有力国衆ら家臣を集住させた。『高白斎記』によれば、詰城として躑躅ヶ崎館東北の丸山に要害山城(甲府市上積翠寺町)を築城した。永正16年4月には今井信是が信虎に降伏し、甲府移転は信是の降伏を契機にしていると考えられている。『勝山記』『高白斎記』によれば、有力国衆は甲府への集住に抵抗し、永正17年(1520年)5月には「栗原殿」(栗原信重か)・今井信是・大井信達らが甲府を退去する事件が発生し、信虎は6月8日に都塚(笛吹市一宮町本都塚・北都塚)において栗原勢を撃破し、さらに6月10日には今諏訪(南アルプス市今諏訪)において今井・大井勢を撃破している。

『勝山記』によれば、同年8月下旬に信虎は河内へ出兵すると、今川方の富士氏を撃破している。これにより穴山氏は武田家に降伏し、信虎は駿河にいた「武田八郎」(信風の子・信友か)の甲斐帰国を許している。

9月には今川勢が攻勢を強め、9月16日には大井氏の居城である富田城(南アルプス市戸田)を陥落させた。信虎は要害山城へ退き、10月16日に飯田河原の戦い(甲府市飯田町)で今川勢を撃退し、勝山城(甲府市上曽根)に退かせる。

さらに11月23日に上条河原の戦い(甲斐市島上条一帯)で福嶋氏を打ち取り、今川勢を駿河へ駆逐した。この最中に、要害山城では嫡男・晴信が産まれている。信虎は穴山氏も服属させるが、福嶋勢は翌年正月の武田・今川間の和睦まで甲斐国内で抵抗を続けた。今川勢を撃退した大永2年(1522)に信虎は家臣とともに身延山久遠寺へ参詣し「御授法」を受けている。

また、『勝山記』によれば、信虎は身延山参詣の後に富士山への登山を行っている。信虎は富士山頂を一周する「御鉢廻り(八葉、八嶺)」を行っている。「お鉢廻り」は富士山頂の高所を八枚の蓮弁に見立て「八葉」と称し、後には富士山頂の八葉を廻る御鉢参りの習俗が成立する。信虎の富士登山は御鉢参りの習俗が戦国期に遡る事例として注目されている。

信虎は遠征から帰国すると翌大永5年(1525)にかけて北条氏綱と和睦する。まもなく氏綱は越後国の長尾為景と連携して上野侵攻を企図し信虎に領内通過を要請するが、信虎は山内上杉氏に配慮してこれを拒絶し、和睦は破綻する。『勝山記』によれば、信虎は山内上杉氏の家督を預かった上杉憲寛とともに相模津久井城(相模原市緑区)を攻撃している。

『勝山記』『神使御頭之日記』によれば、同年4月1日には諏訪頼満に追われた諏訪大社下社の金刺氏と推定されている「諏訪殿」が甲府へ亡命し、信虎はこの「諏訪殿」を庇護して諏訪へ出兵し、8月晦日に諏訪勢と甲信国境で衝突するが、武田方は荻原備中守が戦死し大敗した[32]。大永6年(1526)には梨の木平で北条氏綱勢を破っているが、以後も北条方との争いは一進一退を繰り返した。

『勝山記』によれば、大永6年には信虎上洛の風聞が流れたが、これは実現していない。翌大永7年(1527年)2月には将軍足利義晴と細川高国が京都を脱出して近江国へ逃れる事件が発生し、信虎は京へ使者を派遣している。

将軍義晴は諸国の大名・国衆に上洛を促しており、信虎に対しても4月27日付の御内書で上洛を要請し、6月19日付の御内書では上杉憲寛・諏訪頼満・木曽義元に対して信虎上洛への助力を命じている。同年6月3日には信濃佐久郡の伴野貞慶の要請により信濃へ出兵する。

『勝山記』によれば信虎の出兵に対して佐久郡の国衆・大井氏らは和睦を受け入れたという。7月には駿河国で今川氏親が死去し氏輝が家督を相続すると、今川氏と一時的に和睦する。享禄元年(1528)に信濃諏訪攻めを行うが、神戸・堺川合戦(諏訪郡富士見町)で諏訪頼満・頼隆に敗退する。『勝山記』によれば、信虎は享禄3年(1530)には扇谷上杉氏の当主・上杉朝興の斡旋で山内上杉氏の前関東管領・上杉憲房の後室を側室に迎えた。

憲房の後室は朝興の叔母にあたり、これは扇谷上杉氏との関係を強化する縁組であると考えられている。年次は不明であるが、信虎は両上杉氏と関係の深い下総国の小弓公方・足利義明とも外交関係を持っている。こうした信虎と両上杉氏との関係強化は、相模国の後北条氏(伊勢氏が大永3年1523)に北条改姓)との対立が激化し、上杉朝興が後北条領の江戸へ侵攻すると、信虎は小山田氏の関東派遣を企図するが、小山田勢は甲相国境の都留郡八坪坂(上野原市大野)で北条勢に敗退し、扇谷上杉氏との連携に失敗する。

信虎は天文4年(1535)9月17日、信虎は諏訪頼満と甲信濃国境の堺川で対面し、諏訪大社上社の宝鈴を鳴らして和睦し、同盟関係が成立した。天文5年(1536)、『歴代土代』によれば、正月の除目(じもく)で、嫡男の太郎は従五位下・左京大夫に叙せられている。三条西実隆『実隆公記』では欠損部があるものの、信虎が従四位に叙せられたことを記していると考えられている。「高代寺日記」『後鑑』によれば、同年3月には嫡男の太郎が元服し、信虎は将軍義晴に対して偏諱を求め、太郎は「晴」の一字を拝領して「晴信」と名乗る。

なお、晴信は天文10年(1541年)の信虎追放後に官途名を「大膳大夫」に改めている。『勝山記』によれば、甲駿同盟に際して武田家中でも反発が起こり、同年6月に甲斐国内に亡命していた反義元派を支援した前嶋一門が切腹させており、これに対して反発する奉行衆が甲斐を退去する事件も発生している。また、今川氏の同盟国であった後北条氏も甲駿同盟に対には反発し、北条・今川間で抗争が発生する(第一次河東の乱)。

第一次河東の乱では甲駿同盟は軍事同盟として機能し、信虎は駿東郡へ兵を派遣し今川氏を支援している。一方の後北条氏は天文7年に甲斐都留郡へ侵攻し吉田を襲撃しているが、天文8年(1539)に北条氏綱は武田氏と和睦し、乱は収束する。信虎は両上杉氏と同盟関係を持っていたが、天文6年(1537)には同盟国であった扇谷上杉氏において当主の朝興が死去し朝定が家督を継ぐが、朝定は本拠である川越を失い没落していた。

また、天文7月(1538)10月には信虎と外交関係を持っていた小弓公方の足利義明が滅亡し、関東における信虎の同盟者は山内上杉氏が残された。天文5年(1536年)11月に信虎は信濃佐久郡に出陣しており、これが嫡男晴信の初陣となる。天文9年(1540)には今井信元を浦城(旧北巨摩郡須玉町)で降伏させる。

『塩山向嶽庵小年代記』によれば、同年4月には諏訪頼重と同調して信濃佐久郡へ出兵し、はじめて甲斐国外における所領を獲得する。同年11月には諏訪頼重に信虎の娘・禰々が嫁ぎ、諏訪氏との同盟関係が強化される。『神使御頭之日記』によれば、12月9日には頼重が甲府を訪れ、12月17日には信虎自身が諏訪を訪問している。

 事件の背景には諸説ある。信虎が嫡男の晴信(信玄)を疎んじ次男の信繁を偏愛しており、ついには廃嫡を考えるようになったという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがある。信虎の可愛がっていた猿を家臣に殺されて、その家臣を手打ちにしたというものまで伝わっている。 

 いずれにせよ家臣団との関係が悪化していたことが原因であると推察される。また、『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたという。

 しかし、信虎の悪行伝説はやはり荒唐無稽でそのままでは信じられない面があることが指摘される。また『勝山記』なども近い時代の史料ではあるが、年代記であり後に改変や挿入の可能性も指摘される。信虎の悪行を具体的に記した一次史料は殆ど無く、在地の信虎の伝承や記録には信虎を悪くいう内容はない、とする意見もある。

 信虎の悪行は『甲陽軍鑑』に萌芽が見られ、『甲陽軍鑑末書』や『竜虎豹三品』の「竜韜品」、『武田三代軍記』といった甲州流軍学のテキストの中で次第に作り上げられていった。信虎に悪役のイメージを付加したのは、信虎追放を正当化するために武田氏や軍学者たちが流したプロパガンダだとも考えられている。

 永禄11年(1568)には尾張国の織田信長が三好政権を駆逐して上洛し、足利義昭を将軍に奉じている。武田氏は信長と同盟関係にあり信虎も将軍義昭に仕候しているが、信長と同盟関係にあった三河国の徳川家康とは敵対しており、元亀年間には信長との関係も手切となり、信玄は将軍・義昭が迎合した反信長勢力に呼応して大規模な遠江・三河への侵攻を開始する(西上作戦)。

 元亀4年(1573)3月10日に義昭は信長に対して挙兵するが、義昭の動向は信長に内通した細川藤孝により知らされており、信虎は義昭の命で甲賀郡に派遣され、反信長勢力の六角氏とともに近江攻撃を企図していたという。義昭の挙兵は、同年4月12日に信玄が西上作戦の途上で死去し武田勢が撤兵したことで失敗し、反信長勢力は滅ぼされ義昭も京から追放されている。甲斐国では信玄側室との間に生まれた勝頼が家督を継いでおり、天正2年(1574)に信虎は三男・武田信廉の居城である高遠城に身を寄せ、勝頼とも対面したという]。

 同年3月5日、伊那の娘婿・禰津神平(元直の長男)の庇護のもと、信濃高遠で死去した。享年81。葬儀は信虎が創建した甲府の大泉寺で行われ、供養は高野山成慶院で実施されている。

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