第14話 『戦国時代の群像』「朝倉 孝景」13(全192回)

『戦国時代の群像』「朝倉 孝景」13(全192回)


「朝倉 孝景」(1428~1481)あさくら たかかげ)は、戦国時代の越前国の大名。朝倉氏10代目当主。朝倉貞景の子。朝倉義景の父。母親は美濃守護代格・斎藤利国の娘。妹は美濃守護・土岐頼武に嫁ぎ、嫡男・土岐頼純を産んだ。曽祖父(7代)孝景にあやかって、自身も「孝景」と名乗った。

今日においては区別するため便宜上、法名から「宗淳孝景」(大岫孝景)と呼んで区別する。一門の朝倉宗滴の補佐を受けて、当時混乱の多かった周辺国の加賀・美濃・近江・若狭にしばしば出兵・侵攻し、各国の守護家や諸勢力に軍事的優位性、政治的影響力を見せ付け、代々対立してきた加賀一向一揆との和睦を成立させたと言われている。絶え間なく中央(京都)および周辺諸国情勢に煩わされたが、結果的に朝倉氏の勢力をさらに拡大するとともに、朝廷や幕府との繋がりをも深め、越前に更なる繁栄をもたらし、本拠・一乗谷城に京風の文化を華開かせた。

軍事面においては、当主自らではなく一族の主なものを名代として派遣する例が多い。この制度が次代の義景の統治にも影響を及ぼすこととなる。統治面においては、守護斯波氏の下では同格であった国人衆などと呼ばれる諸勢力を完全に臣従下させるには至っていない。また、弟である朝倉景高と対立するという内紛もあった。経済面においては、周辺諸国への大軍派遣、朝廷や幕府に対する多額の献金等からの一乗谷の繁栄が見られた。

また、豪商らが名物茶器を所持していたり、家臣らが京に書物を求めるなどの面も見られた。天文17年(1548)3月22日に死去。波着寺への参詣の帰りに急死したという。享年56。16歳の嫡男である延景(のちの義景)が跡を継いだ。

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