第12話足利 義昭(11(全192回)
足利 義昭(11(全192回)足利 義昭(1538=1565)室町幕府第15代(最後)の将軍。(在職(1568~1588)。父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。
第13代将軍・足利義輝は同母兄。足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが松永久秀らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。
一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。
天文6年(1537)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。幼名は千歳丸。兄に嗣子である義輝がいた。跡目争いを避けるため、あるいは寺社との結びつきを強めるために嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従って天文11年(1542)11月20日、外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門に入室し、法名を覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。
このまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずであった。永禄8年(1565)5月の永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝と母・慶寿院、弟で鹿苑院院主であった周暠が松永久通や三好三人衆らによって暗殺された。
このとき、覚慶も久通らによって捕縛され、興福寺に幽閉・監視された[注釈 1]。 しかし、義輝の側近であった一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、細川藤孝および大覚寺門跡・義俊らに助けられて7月28日に脱出し、奈良から木津川をさかのぼり伊賀国へ脱出した覚慶とその一行は、さらに近江国の六角義賢の許可を得た上で甲賀郡の和田城にひとまず身を置き、ここで覚慶は足利将軍家の当主になる事を宣言した。
11月21日には和田惟政と仁木義政の斡旋により六角義賢・義治親子の許可を得た上で、甲賀郡から都にほど近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に進出し、在所とした。この際に上杉輝虎(謙信)らに室町幕府の再興を依頼している。
また輝虎と武田信玄・北条氏政の3名に対して和睦を命じたりしている。永禄9年(1566)2月17日、正統な血筋による将軍家を再興するため、覚慶は矢島御所において還俗し足利義秋と名乗った。当時の義昭のことを記した書物には、将軍家当主をさす矢島の武家御所などと呼ばれていたことが記されている。
4月21日には従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官。矢島御所において義秋は、三管領家の一つである河内国の畠山高政、関東管領の上杉輝虎、能登守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。特に高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の畠山昭高を、この頃に義秋に従えさせた。
六角義賢は当初は上洛に積極的で、和田惟政に命じて浅井長政と織田信長の妹・お市の婚姻の実現を働きかけている。義秋や六角・和田の構想は敵対していた六角氏・浅井氏・斎藤氏・織田氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。実際に和田惟政と細川藤孝の説得で信長と斎藤龍興は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北伊勢・南近江を経由して上洛することになった。
この義秋の行動に対して、三好三人衆の三好長逸の軍勢3,000騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は大草氏などの奉公衆(親衛隊)の奮戦により、からくも撃退することが出来た。9月には若狭から。越前国の朝倉義景(仁木義政の親族であるという)のもとへ移り、上洛への助力を要請した。義秋は朝廷に義景の母を従二位にすることを上奏して、実現したりしている。
朝倉義景は細川藤孝らによる覚慶(義昭)の奈良脱出の黒幕であったととする見方がある一方で、すでに足利将軍家連枝の「鞍谷御所」・足利嗣知も抱えており、仏門から還俗した義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。この頃、義秋のもとには上野清延・大館晴忠などのかつての幕府重臣や諏方晴長・飯尾昭連・松田頼隆などの奉行衆が帰参する。
永禄11年(1568)4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を越前に招き、ようやく元服式を行って義昭と改名した。 加冠役は朝倉義景が務めている。やがて、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長を頼って尾張国へ移る。
新将軍として幕府を再興した義昭はまず信長の武功に対し幕閣と協議した末「室町殿御父」の称号を与えて報いた。将軍就任直後の10月24日に信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名したことはことに有名である。信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を望んだために義昭は信長を和泉守護に任じた。
さらに、信長には管領代または管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れた。しかし信長は受けず、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受けた。両者の意見の齟齬から、信長が自分の次男(後の織田信雄)を北畠氏の養子に押し付けるなど、義昭の意向に反する措置を取ったことがその不快感を招き、関係悪化の一因になったとされている。
信長は将軍権力を制約するために、永禄12年(1569)1月14日、殿中御掟という9箇条の掟書を義昭に承認させた。さらに永禄13年(1570)1月には5箇条が追加され、義昭はこれも承認した。この殿中御掟については近年、信長が単純に将軍権力を制約しようとしたのではなく、ほとんどの条文が室町幕府の規範や先例に出典が求められるもので、信長が幕府法や先例を吟味した上で幕府再興の理念を示したものだとする説も出されている。
また、義昭期の幕府機構を研究していく中で、義昭が信長の傀儡とは言えず室町幕府の組織が有効に機能しており、むしろ義昭個人の将軍権力の専制化や恣意的な政治判断による問題が浮上し始めていたとする指摘もある。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていく。信長に不満を持った義昭は、自らに対する信長の影響力を相対化しようと、元亀2年(1571年)頃から上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめた。これは一般に信長包囲網と呼ばれている。
この包囲網にはかねてから信長と対立していた朝倉義景・浅井長政や延暦寺、兄の敵でもあった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わっている。ただし、松永久秀追討に義昭の兵が参加するなど、義昭と信長の対立はまだ必ずしも全面的なものにまではなっていなかった。この年の11月には、摂津晴門の退任後に空席であった政所執事(頭人)に若年の伊勢貞興を任じる人事を信長が同意[18]し、貞興の成人までは信長が職務を代行することになった。
元亀3年(1572)10月、信長は義昭に対して17条の意見書を送付した。 この意見書は義昭の様々な点を批判している。これによって義昭と信長の対立は抜き差しならないものになり、義昭は挙兵。東では武田信玄が上洛を開始し、12月22日の三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなどすると、信長は窮地に陥り、義昭は寵臣・山岡景友(六角義賢の重臣で幕府奉公衆でもある)を山城半国守護に任命する。
だがその後、朝倉義景が12月3日に越前に撤退してしまったため、義昭は翌年2月に信玄から遺憾の意を示されて義景に重ねて出兵するように求めている。義昭も義景、あるいは朝倉一族に対して5,000から6,000の兵を京都郊外の岩倉の山本に出兵するように命じている。元亀4年(1573)正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じず、これを一蹴した。義昭は近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた。
しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。その頃、東では信玄の病状が悪化したため、武田軍は4月に本国への撤退を始める。信玄は4月12日には死去した。信長は京に入り知恩院に陣を張った。幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り、信長についた。しかし義昭は(おそらく信玄の死を知らなかったため)、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。信長は再度和睦を要請したが、義昭は信用せずこれを拒否した。信長は威嚇として幕臣や義昭の支持者が住居する上京全域を焼き討ちにより焦土化し、ついに烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。さらに信長はふたたび朝廷に工作した末、4月5日に勅命による講和が成立した。
しかし7月3日、義昭は講和を破棄し、烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興らの他に日野輝資・高倉永相などの武家昵近公家衆に預けた上で、南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。信長は他の有力戦国大名の手前、足利将軍家追放の悪名を避けるため、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者として立てるとの約束で義昭と交渉のうえ自身の手元に置いた(人質の意味もあった)が、後に信長の憂慮が去ると反故にされている。
信長は義昭の京都追放を実行し、足利将軍家の山城及び丹波・近江・若狭ほかの御料所を自領とした。続いて7月28日に天正への改元を行う。8月には朝倉氏、9月には浅井氏も滅亡し、信長包囲網は完全に瓦解した。一方で信長は、これまで幕府の政所や侍所が行ってきた業務を自己の京都所司代である村井貞勝に行わせ、続く天正2年(1574)には塙直政を山城・大和の守護に任じ、畿内の支配を固めた。それまで信長は義昭を擁することで、間接的に天下人としての役割を担っていたが、義昭追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続け、一般的にはこの時点をもって室町幕府の滅亡と、現時点の歴史書では決めている。
京都からの追放後、義昭はいったん枇杷荘に退いたが、顕如らの仲介もあり、妹婿である三好義継の拠る河内若江城へ移った。護衛には羽柴秀吉があたったという。しかし信長と義継の関係も悪化したため、11月5日に和泉の堺に移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この説得には毛利輝元の家臣である安国寺恵瓊、林就長もあたっている。しかし義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂している。
翌・天正2年(1574)には紀伊国の興国寺に移り、ついで泊城に移った。紀伊は室町幕府管領畠山氏の勢力がまだまだ残る国であり、特に畠山高政の重臣であった湯川直春の勢力は強大であった。しかし、義昭がまだ備後鞆に滞在中であった天正10年(1582)6月2日に信長と嫡子の織田信忠は本能寺の変で明智光秀に討たれた。
光秀の家臣団には伊勢貞興や蜷川貞周といった、旧室町幕府幕臣が多くいた。同年、義昭は鞆城から居所を山陽道に近い津之郷(現福山市津之郷町)へと移させる。信長の死を好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めた。親秀吉派であった小早川隆景らが反対したこともあり、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却したとも言われるが、天正11年(1583)2月には、毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を取り付けている。同年、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、天正14年(1586)、秀吉が関白太政大臣となる。
その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年間続いた。この2年間は、秀吉が天下を統一していく期間に該当する。義昭は将軍として秀吉との和睦を島津義久に対して勧めていた。天正14年(1586年)12月4日には一色昭秀を鹿児島に送って和議を勧めている[29]。天正15年(1587)、秀吉は九州平定に向かう途中に義昭の住む備後国沼隈郡津之郷の御所付近を訪れ、そばにある田辺寺にて義昭と対面した(太刀の交換があったといわれている)。同年4月、義昭は再び一色昭秀を送って島津義久に重ねて和睦を勧めている[4]。島津氏が秀吉の軍門に下った後の10月、義昭は京都に帰還する。その後、天正16年(1588)1月13日に将軍職を辞して受戒し、名を昌山(道休)と号した。また朝廷から准三后の称号(待遇)を受けている。
秀吉からは山城国槇島において1万石の領地を認められた。1万石とはいえ前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であった。文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣している。晩年は斯波義銀・山名堯熙・赤松則房らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話相手であったとされる。毛利輝元の上洛の際などに名前が見られる。慶長2年(1597)8月、大坂で薨去。死因は腫物であったとされ病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。義演は日記[32]の中で「近年将軍ノ号蔑也、有名無実弥以相果了」と感想を記している。享年61。
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