第11話「大友 義鑑」10(全192回)
「大友 義鑑」(1502~1550)異体字:大友義鑒は、戦国時代の武将・戦国大名。豊後国大友氏の20代当主。初めは親安、親敦(ちかあつ)を名乗っていたが、後に室町幕府将軍・足利義晴より偏諱を賜って義鑑に改めた。文亀2年(1502)、19代当主・大友義長の子として生まれる。
永正12年(1515)、父の隠居により家督を継いで20代当主となるが若年のため、同15年(1518)までは父義長の補佐を受け、その死後は祖父の親治の補佐を大永4年(1524)まで受けた。なお、永正15年(1518)に大聖院宗心(大友親綱の六男)の擁立を図った朽網親満が反乱を起こしたが鎮圧されている。
大永4年(1524)3月9日、修理大夫に任官。親敦から将軍足利義晴の義の字を賜わり、義鑑と諱を改める。大友氏は父義長の時代に内紛を収拾していたため、積極的な領土拡大政策に乗り出した義鑑は、大勢力のいない肥後国に勢力拡大を図る。
肥後の名族菊池氏は内紛のために弱体化しており、義鑑は弟の大友重治(菊池義武)を養子として送り込むことによって、肥後の支配を目論む。しかし、義武は義鑑と折り合いが悪く、遂には大名として大友氏からの独立を画策したため、義鑑は義武と骨肉の争いを繰り広げることになる。
なお、大永6年(1532)3月29日、正五位下から従四位下に昇叙。修理大夫如元。享禄5年(1532)7月4日、従四位上に昇叙し、修理大夫如元。
さらに大内義隆の侵攻も受け、一時は豊後に肉薄される(勢場ヶ原の戦い)など劣勢に立たされていたが、天文7年(1538)に12代将軍・足利義晴の仲介を受けて和睦し、足利将軍家と緊密な関係を維持した。天文12年(1543)には肥後守護に補任される。
天文19年(1550年)、義鑑は病弱な嫡男義鎮より、溺愛している三男塩市丸に家督を譲ろうとした。そのため寵臣の入田親誠と共謀して義鎮派の家臣を次々と殺害していく暴挙に至った。しかし、一連の殺害で身の危険を感じた義鎮派家臣の逆襲を受けることになる。そして2月10日、義鎮派家臣の津久見美作守、田口鑑親らが、義鑑の居館を襲撃、居館の2階にいた塩市丸とその母を殺害し、義鑑も瀕死の重傷を負い、2日後の2月12日に死亡した(二階崩れの変)。享年49。家督は嫡男義鎮(宗麟)が継いだ。死の間際に領国経営に関する資料などを置文として遺しており、最終的には義鑑も義鎮の家督相続を認めている。
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