第10話「毛利 元就」9(全192回)

「毛利 元就」(1497~1571)室町時代後期から戦国時代にかけての安芸の国人領主で、後の戦国大名。本姓は大江氏で、毛利氏の家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男。

幼名は松寿丸(しょうじゅまる)、通称は少輔次郎(しょうのじろう)。安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主に過ぎなかったが、暗殺や買収、婚姻や養子縁組など様々な権謀術数を駆使して中国地方のほぼ全域に勢力を拡大し、一代で大国を築き上げた。用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られている。

子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。永正13年(1516)、長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場には出ても自らは下戸だと口をつけなかったという。

家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。毛利家中の動揺をついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻。武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。

詳細な時期は不明であるが、この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖」)を妻に迎える。27歳で長男の隆元が生まれているので、初陣から27歳までの間で結婚したと言われているが、戦国武将としては初陣も遅ければ、結婚も遅い方である。

甥の毛利幸松丸が大永3年(1523)にわずか9歳で死去すると、分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が志道広良ら重臣達の推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。

しかし毛利家内では家督について揉め事があったらしく、この家督相続に際して、重臣達による「元就を当主として認める」という連署状が作成されている。8月10日に元就は、吉田郡山城に入城した。家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、ついには大永5年(1525)に尼子氏と手切れして大内義興の傘下となる立場を明確にした。

そして享禄2年(1529)には、かつて毛利幸松丸の外戚として元就に証人を出させるほどの強大な専権を振るい、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐。高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた(高橋一族討伐の際、元就は高橋氏の人質となっていた長女を殺害されたと言われるがそれを裏付ける一次史料はない)。

天文4年(1535)には、隣国の備後の多賀山城の多賀山如意を攻め、降伏させた。一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。元就が宍戸氏との関係を深めたのには父・弘元の遺言があった。元就が後年手紙で、「父・弘元は宍戸氏と仲をよくしろと言い遺されたが、兄の興元の時は戦になってそのまま病でなくなってしまい、父の遺言は果たせなかった。

しかし、それは兄はまだ若かったからしかたなかったことだ。だが、元源殿はなぜか自分の事を気に入って下さって水魚の交わりのように親しくつきあってくださった。」と述べている。元就は宍戸元源の方から親しく思ってくれたとしているが、実際は宍戸氏とも争っていた高橋氏の旧領の一部を譲る等、積極的に働きかけていた。宍戸家家譜によると正月に数人の伴を引き連れて元就自身が宍戸氏の五龍城を訪れ、元源と馬が合ったため、そのまま2人で枕を並べて夜遅くまで語り合い、その中で元源の孫の隆家と娘(後の五龍)との婚約が決まったと伝わる。

なお、宍戸隆家は生まれる前に父を亡くしており、母の実家の山内家で7歳まで育ったため、宍戸氏と誼を結ぶことで山内氏とも繋がりができた。前述の渡辺氏の生き残りである渡辺通が許されて毛利家に戻って元就に仕えたのもこの頃と考えられている。

その他、一時大内氏に反乱を起こし窮地に追いやられた天野氏や、安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。毛利家中においても、天文元年(1532)に家臣32名が、逃亡した下人らを匿わずに人返しすることなどの3カ条を守り、違反者は元就が処罰するという起請文を連署して捧げている。

天文2年(1533)9月23日付けの『御湯殿上日記』(宮中の日誌)に、大内義隆より「大江のなにがし」を応永の先例に倣って官位を授けるように後奈良天皇に申し出があったという記事がある。これは毛利(大江)元就をその祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事に倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。元就は義隆を通じて4,000疋を朝廷に献上する事で叙任が実現の運びとなった。

これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。

また、同時期には安芸有力国人である吉川氏当主吉川興経から尼子氏との和睦を斡旋されるが、逆に尼子方に断られてしまっている。また天文6年(1537)には、長男の毛利隆元を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。

天文8年(1539)、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。尼子氏の援兵を武田氏は受けたものの、これにより、城主武田信実は一時若狭へと逃亡している。後に信実は出雲の尼子氏を頼っている。天文9年(1540)には経久の後継者である尼子詮久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められるが、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。

家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、安芸国の中心的存在となる。同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏当主・武田信実の佐東銀山城は落城し、信実は出雲へと逃亡。安芸武田氏はこれにより滅亡した。また、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。

天文11年(1542)から天文12年(1543)にかけて、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍。しかし吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎたこともあり、補給線と防衛線が寸断され、更には元就自身も4月に富田城塩谷口を攻めるも大敗し、大内軍は敗走する。この敗走中に元就も死を覚悟するほどの危機にあって渡辺通らが身代わりとして奮戦の末に戦死、窮地を脱して無事に安芸に帰還することができた。

しかし大内・尼子氏の安芸国内における影響力の低下を受けて、常に大大名の顔色を窺う小領主の立場から脱却を考えるようになる。天文13年(1544)、元就は手始めに強力な水軍を擁する竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を出した。

小早川家には元就の姪(兄・興元の娘)が嫁いでおり、前当主の興景は吉田郡山城の戦いで援軍に駆けつけるなど元就と親密な仲であった。天文10年、興景が子もなく没したため、小早川家の家臣団から徳寿丸を養子にしたいと要望があったが、徳寿丸がまだ幼いことを理由に断っている。

天文20年(1551)、防長両国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害され、養子の大内義長が擁立される(大寧寺の変)。元就は以前からこの当主交代に同意しており、隆房と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握。隆房は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えた。

元就はこれを背景として徐々に勢力を拡大すべく、安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃。平賀隆保の籠もる安芸頭崎城を陥落させ隆保を自刃に追い込み、平賀広相に平賀家の家督を相続させて事実上平賀氏を毛利氏の傘下におさめた。1553には尼子晴久の安芸への侵入を大内氏の家臣、江良房栄らとともに撃退した。

この際の戦後処理のもつれと毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は、元就に支配権の返上を要求。元就はこれを拒否したため、徐々に両者の対立は先鋭化していった。そこに石見の吉見正頼が隆房に叛旗を翻した。隆房の依頼を受けた元就は当初は陶軍への参加を決めていたが、陶氏への不信感を抱いていた元就の嫡男・隆元の反対により出兵ができないでいた。

そこで隆房は、直接安芸の国人領主たちに出陣の督促の使者を派遣した。平賀広相からその事実を告げられた隆元や重臣達は、元就に対して(安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えるとした)約束に反しており、毛利と陶の盟約が終わったとして訣別を迫った。ここに元就も隆房との対決を決意した(防芸引分)。

しかし、陶隆房が動員できる大内軍30,000以上に対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4,000-5,000であった。正面から戦えば勝算は無い。更に毛利氏と同調している安芸の国人領主たちも大内・陶氏の圧迫によって動揺し、寝返る危険性もあった。そこで元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。天文23年(1554)、出雲では尼子氏新宮党の尼子国久・誠久らが尼子晴久に粛清されるという内紛が起こった。

尼子氏が新宮党を粛清の最中、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄が「謀反を企てている」というデマを流し、本人の筆跡を真似て内通を約束した書状まで偽造し、晴賢自らの手で江良房栄を暗殺させた。

そして同年、「謀りごとを先にして大蒸しにせよ」の言葉通りに後顧の憂いを取り除いた元就は、反旗を翻した吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。晴賢は激怒し即座に重臣の宮川房長に3,000の兵を預け毛利氏攻撃を命令。山口を出陣した宮川軍は安芸国の折敷畑山に到着し、陣を敷いた。これに対し元就は機先を制して宮川軍を襲撃した。大混乱に陥った宮川軍は撃破され、宮川房長は討死。緒戦は元就の勝利であった。

元就は大内氏に従って敗北を喫した前回の月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張り巡らした。当初は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめとした。これは城内の食料を早々に消耗させようという計略であった。

それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離間策を巡らせた。これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。この段階に至って元就は、逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。

永禄9年(1566)11月、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する大名になった。出雲尼子氏を滅ぼした元就であったが、尼子勝久(尼子誠久の子)を擁した山中幸盛率いる尼子残党軍が織田信長の支援を受けて山陰から侵入し、毛利氏に抵抗した。更に豊後の大友宗麟も豊前の完全制覇を目指しており、永禄11年(1568)には北九州での主導権を巡る争いの中で、陽動作戦として元就自身によって滅ぼされた大内氏の一族である大内輝弘に兵を与えて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。

毛利氏にとっては危機的な時期ではあったが、元春、隆景らの優秀な息子達の働きにより、大友氏と和睦しつつ尼子再興軍を雲伯から一掃することに成功した。しかし大友と和睦した事により、大内家の富の源泉となっていた博多の支配権を譲る結果になった。

1560年代の前半より元就は度々体調を崩していたが、将軍・足利義輝は名医・曲直瀬道三を派遣して元就の治療に当たらせている[5][6]。元就の治療は「道三流」と称される道三門下の専門医によって行われ、道三門下の専門医と道三との往復書簡いわゆる「手日記」を通して処方が決定された。 その効果もあったのか、元就の体調は一時は持ち直したようで、永禄10年(1567)には最後の息子である才菊丸が誕生している。

なお、毛利氏領国では、専門医・専従医不足に伴う医療基盤の軟弱さが、永禄9年に曲直瀬道三が下向して一挙に改められた。元亀2年(1571)6月14日、吉田郡山城において死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75。家督そのものは既に嫡男の毛利隆元に継承済であったが、隆元は永禄6年(1563)に早世していたため、嫡孫の毛利輝元(隆元の嫡男)が後を継いだ。

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