第6話 上杉謙信 6(全192回)

「上杉 謙信」(1530~1578)上杉 輝虎戦国時代の越後国(現在の新潟県上越市)の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、越後の獅子、軍神と称される。

享禄3年(1530)1月21日、越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男虎千代として春日山城に生まれる。母は同じく越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘・虎御前。幼名の虎千代は寅年生まれのために名づけられた。

主君・上杉定実から見て「妻の甥」であり「娘婿の弟」にあたる。当時の越後国は内乱が激しく、下剋上の時代にあって父・為景は戦を繰り返していた。越後守護・上杉房能を自害に追い込み、次いで関東管領・上杉顕定を長森原の戦いで討ち取った。次の守護・上杉定実を傀儡化して勢威を振るったものの、越後国を平定するには至らなかった。

虎千代誕生直後の享禄3年(1530)10月には上条城主・上杉定憲が旧上杉家勢力を糾合し、為景に反旗を翻す。この兵乱に阿賀野川以北に割拠する揚北衆らだけでなく、同族の長尾一族である上田長尾家当主・長尾房長までもが呼応した。越後長尾家は、蒲原郡三条を所領し府内に居住した三条(府内)長尾家、古志郡を根拠地とする古志長尾家、魚沼郡上田庄を地盤とする上田長尾家の三家に分かれて守護代の地位を争っていた。

しかしやがて三条長尾家が守護代職を独占するようになる。上田長尾房長はそれに不満を抱いて、定憲の兵乱に味方したのであった。為景は三分一原の戦いで勝利するも、上田長尾家との抗争は以後も続き、次代の上田長尾家当主・長尾政景の謀反や御館の乱へと発展する。

天文5年(1536)8月に為景は隠居し、虎千代の兄・晴景が家督を継いだ。虎千代は城下の林泉寺に入門し、住職の天室光育の教えを受けたとされる。実父に疎んじられていたため、為景から避けられる形で寺に入れられたとされている。

天文11年(1542)12月、為景は病没したが、敵対勢力が春日山城に迫ったため、虎千代達は甲冑を着けて葬儀に臨むほどであった。兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなく、守護・上杉定実が復権し、上田長尾家、上杉定憲、揚北衆らの守護派が主流派となって国政を牛耳る勢いであった。

虎千代は天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗り、9月には晴景の命を受け、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで栃尾城に入る。その目的は中郡(なかごおり)の反守護代勢力を討平した上で長尾家領を統治し、さらに下郡(しもごおり)の揚北衆を制圧することであった。

天文14年(1545)10月、守護上杉家の老臣で黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こした。秀忠は守護代・晴景の居城である春日山城にまで攻め込み、景虎の兄・長尾景康らを殺害、その後黒滝城に立て籠もった。景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として攻撃を指揮し、秀忠を降伏させた(黒滝城の戦い)。

しかし翌年の天文15年(1546)2月、秀忠が再び兵を挙げるに及び再び攻め寄せて猛攻を加え、二度は許さず黒田氏を滅ぼした。するとかねてから晴景に不満をもっていた越後の国人の一部は景虎を擁立し晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなった。天文17年(1548)になると晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようとの動きが盛んになる。

これに対し、坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)や蒲原郡奥山荘の黒川城主・黒川清実らは晴景についた。しかし同年12月30日、守護・上杉定実の調停のもと、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退し、景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、守護代となる[4]。越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳の若さで越後統一を成し遂げたのである。

一方で上田長尾家と古志長尾家の敵対関係は根深く残り、後の御館の乱において、上田長尾家は政景の実子である上杉景勝に、古志長尾家は上杉景虎に加担した。

その結果、敗れた古志長尾家は滅亡するに至った。第一次〜第三次川中島の戦い・天文21年(1552)1月、関東管領・上杉憲政は相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城の平井城を棄て、景虎を頼り越後国へ逃亡してきた。

景虎は憲政を迎え、御館に住まわせる。これにより氏康と敵対関係となった。8月、景虎は平子孫三郎、本庄繁長等を関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに平井城・平井金山城の奪還に成功する。北条軍を率いる北条幻庵長綱は上野国から撤退、武蔵松山城へ逃れた。なおこの年の4月23日、従五位下弾正少弼に叙任される。

同年、武田晴信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時が景虎に救いを求めてくる。さらに翌・天文22年(1553年)4月、信濃国埴科郡葛尾城主の村上義清が晴信との抗争に敗れて葛尾城を脱出し、景虎に援軍を要請した。義清は景虎に援軍を与えられ村上領を武田軍から奪還するため出陣、同月に武田軍を八幡の戦いで破ると武田軍を村上領から駆逐し、葛尾城も奪還する。

しかし一端兵を引いた晴信軍だったが、7月に再度晴信自ら大軍を率いて村上領へ侵攻すると、義清は再び越後国へ逃亡。ここに及んで景虎は晴信討伐を決意し、ついに8月、自ら軍を率いて信濃国に出陣。30日、布施の戦いで晴信軍の先鋒を圧倒、これを撃破する。

 9月1日には八幡でも武田軍を破り、さらに武田領内へ深く侵攻し荒砥城・青柳城・虚空蔵山城等、武田方の諸城を攻め落とした。これに対し晴信は本陣を塩田城に置き決戦を避けたため、上洛の予定があった景虎は深追いをせず、9月に越後へ引き上げた(第一次川中島の戦い)。

 小田原城の戦い・永禄2年(1559)5月、再度上洛して正親町天皇や将軍・足利義輝に拝謁する。このとき、義輝から管領並の待遇を与えられた(上杉の七免許)。室町幕府の記録の後鑑(江戸末期に江戸幕府が編纂したモノ)には、関東管領記、関東兵乱記(相州兵乱記)、春日山日記(上杉軍記)を出典として掲載されている。

 また、内裏修理の資金を献上したともいうが、朝廷の記録である御湯殿上日記には、永禄3年6月18日に、越後の長尾(景虎)が内裡修理の任を請う、という記述があるだけで、年次や記述内容に違いがある。 言継卿記には、永禄2年5月24日、越後国名河(長尾)上洛云々、武家御相判御免、1,500人。

 という記述であり、上杉家譜などの兵5,000という記述と異なる。5月、桶狭間の戦いにより甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、ついに景虎は北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣、三国峠を越える。

 上野国に入った景虎は、長野業正らの支援を受けながら小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など北条方の諸城を次々に攻略。厩橋城を関東における拠点とし、この城で越年した。この間、関東諸将に対して北条討伐の号令を下し、檄を飛ばして参陣を求めた。景虎の攻勢を見た関東諸将は、次々に景虎のもとへ結集、兵の数は日増しに膨れ上がった。

 小田原城を包囲はしたものの、氏康と同盟を結ぶ武田信玄が川中島で軍事行動を起こす気配を見せ、景虎の背後を牽制。景虎が関東で氏康と戦っている間に、川中島に海津城を完成させてこれを前線基地とし、信濃善光寺平における勢力圏を拡大させた。

 こうした情勢の中、長期に亘る出兵を維持できない佐竹義昭らが撤兵を要求、無断で陣を引き払うなどした。このため景虎は、北条氏の本拠地・小田原城にまで攻め入りながら、これを落城させるには至らず。

 1ヶ月にも及ぶ包囲の後、鎌倉に兵を引いた。この後、越後へ帰還途上の4月、武蔵国の中原を押さえる要衝松山城を攻撃し、北条方の城主・上田朝直の抗戦を受けるも、これを落城させる(松山城の戦い)。

 松山城には城将として上杉憲勝を残し、厩橋城には城代に義弟・長尾謙忠をおいて帰国した。第四次川中島の戦いと北条の反撃・このころ武田勢は北信へ侵攻していたが、『甲陽軍鑑』によれば関東から帰国後の永禄4年(1561年)8月、政虎は1万8,000の兵を率いて川中島へ出陣する(第四次川中島の戦い)。

 荷駄隊と兵5,000を善光寺に残し1万3,000の兵を率いて武田領内へ深く侵攻、妻女山に布陣する。このとき武田軍と大決戦に及び、武田信繁・山本勘助・両角虎定・初鹿野源五郎・三枝守直ら多くの敵将を討ち取り総大将の信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与えたという。

 第四次川中島を機に北信をめぐる武田・上杉間の抗争は収束し、永禄後年には武田・上杉間をはじめ東国や畿内の外交情勢は大きく変動していく。同年11月に武田氏は西上野侵攻を開始し、北条氏康も関東において武田氏と協調して反撃を開始し、政虎が奪取していた武蔵松山城を奪還すべく攻撃した。

 これをうけて政虎は11月、再び関東へ出陣、武蔵国北部において氏康と戦う(生野山の戦い)。しかし川中島で甚大な損害を受けたことが響いたか、これに敗退(内閣文庫所蔵・小幡家文書)。ただし、この合戦で謙信自身が直接指揮を執ったという記録は発見されていない。生野山の戦いには敗れたものの、松山城を攻撃する北条軍を撤退させた。

 ところが関東を空けている間に、武蔵国における上杉方の拠点・松山城が再度、北条方の攻撃を受ける。信玄からの援軍を加え、5万を超える大軍となった北条・武田連合軍に対し、松山城を守る上杉軍は寡兵であった。既に越後国から関東へ行く国境の三国峠は深い雪に閉ざされていたが、輝虎は松山城を救援するため峠越えを強行。12月には上野国の沼田城に入った。兵を募って救援に向かったものの、永禄6年(1563)2月、わずかに間に合わず松山城は落城。

 同年2月、三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、下野国へ出陣し唐沢山城に攻め寄せた。しかしこの時、10回に及ぶ唐沢山城での攻防戦の中でも最大の激戦となる。輝虎は総攻撃をかけるも昌綱は徹底抗戦した。

 結局、昌綱は佐竹義昭や宇都宮広綱の意見に従い降伏。輝虎は義昭や広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れた。3月、上野国の和田城を攻めるも武田軍が信濃国で動きを見せたため、越後国へ帰国した(唐沢山城の戦い)。

 永禄7年(1564)4月、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破。その間に信玄に信濃国水内郡の野尻城を攻略されたが奪還し、8月には輝虎は信玄と川中島で再び対峙した(第五次川中島の戦い)。

 しかし信玄が本陣を塩崎城に置いて輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。永禄11年(1568年)、新しく将軍となった足利義昭からも関東管領に任命された。

 この頃から次第に越中国へ出兵することが多くなる。一方で北信をめぐる武田氏との抗争は収束し、武田氏は駿河今川領国への侵攻から三河徳川氏との対決に推移し、上杉氏との関係は同じく武田氏と手切となった相模北条氏や武田氏と友好関係をもつ将軍義昭・織田信長らとの関係で推移する。

 天正2年(1574)、北条氏政が下総関宿城の簗田持助を攻撃するや、10月に謙信は関東へ出陣、武蔵国に攻め入って後方かく乱を狙った。謙信は越中平定に集中していたが、救援要請が届くと軍を転じて関東に出陣した。上杉軍は騎西城・忍城・鉢形城・菖蒲城など諸城の領内に火を放ち北条軍を牽制したが、佐竹など関東諸将が救援軍を出さなかったため、北条の大軍に攻撃を仕掛けることまでは出来なかった。

 このため関宿城は結局降伏することとなってしまった(第三次関宿合戦)。閏11月に謙信は北条方の古河公方・足利義氏を古河城に攻めているが、既に関東では上杉派の勢力を大きく低下していた。12月19日、剃髪して法印大和尚に任ぜられる。なおこの年の3月、織田信長から狩野永徳筆の『洛中洛外図屏風』を贈られる。

 天正3年(1575)1月11日、養子の喜平次顕景の名を景勝と改めさせ、弾正少弼の官途を譲った。天正4年(1576)には毛利氏のもとに身を寄せていた足利義昭が反信長勢力を糾合し、同年5月頃からは義昭の仲介で甲斐武田氏・相模後北条氏との甲相越一和が試みられており、このころ謙信は織田信長との戦いで苦境に立たされていた本願寺顕如と和睦し、これによって信長との同盟は破綻した。前年に信長は本願寺を攻撃、さらに越前国に侵攻したため、顕如と越前の一向宗徒は謙信に援助を求めていた。

 顕如は謙信を悩ませ続けていた一向一揆の指導者であり、これにより上洛への道が開けた。甲相越一和は成立しなかったが、信長包囲網が築き上げられたのである。10月には足利義昭から信長討伐を求められており、謙信は上洛を急ぐことになる。

 なお、この時期、織田信長は朝廷から内大臣次に右大臣に任命されており、朝敵になったわけでもなく、単に足利幕府(足利将軍家)との武家同士の紛争に過ぎない。天正4年(1576)9月、名目上管領畠山氏が守護をつとめる越中国に侵攻して、一向一揆支配下の富山城・栂尾城・増山城・守山城・湯山城を次々に攻め落とした。

 次いで椎名康胤(越中守護代)の蓮沼城を陥落させ康胤を討ち取り、ついに騒乱の越中を平定した。天正5年(1577)12月18日、謙信は春日山城に帰還し、12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発した。天正6年(1578)3月15日に遠征を開始する予定だったらしい。

 しかしその6日前である3月9日、遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れ、3月13日の未の刻(午後2時)に急死した[。享年49。倒れてからの昏睡状態により、死因は脳溢血との見方が強い。遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め漆で密封した。この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され、明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移された。

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