第5話「織田 信秀」5(全192回)
『戦国時代の群像』5(全192回)「織田 信秀」
「織田 信秀」(1511~1549)戦国時代の尾張国の武将、戦国大名。織田信長の父。永正7年(1510)、尾張国南西部を支配する海東郡・中島郡に跨る勝幡城(愛知県愛西市・稲沢市)の城主・織田信定の長男として生まれる。
生年には永正5年(1508)説、永正8年(1511)説など諸説があって定かではない。信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣たる清洲三奉行の一人であった。
信秀は父・信定の生前である大永7年(1527)に家督を譲られて当主となる。家督相続からまもなく、天文元年(1532)頃、主家の織田達勝と争ったが、のちに和解している。
天文元年(1532)、今川氏豊の居城とされる那古野城(名古屋市中区、のちの名古屋城)を奪い、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大した(ただし那古野城奪取については天文7年(1538)説もある)。
その後も勢力の拡大にともなって天文8年(1539)に古渡城(名古屋市中区)、天文17年(1548)に末森城を築いて居城を移している。成り上がり者として内外に敵の多い中、国内を治め、京都に上洛したときは朝廷にも献金して従五位下に叙位され、備後守に任官された。さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁した。
天文10年(1541)、伊勢神宮遷宮の際、材木や銭七百貫文を献上したことにより、同年、9月、その礼として朝廷より、三河守に任じられた。こうして信秀は、主家の大和守家への臣従関係は保ちながらも、地位や権威は主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康や織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、国内の他勢力を圧倒する地位を築いていった。
しかし信秀は晩年まで守護代家臣に甘んじ、尾張国全域を支配することはできなかった。実質上は尾張を代表する戦国大名として斎藤、松平、今川ら他国大名と戦い続けたものの、形式的主君であった守護代家、守護家の併呑は信長の代を待つことになる。
対外においては天文4年(1535)に松平清康が森山崩れで不慮の死を遂げると、混乱する松平氏の隙を突いて三河に侵攻し、天文9年(1540)には安祥城を攻略し、支配下に置いた。しかしこのため、松平氏は今川氏の従属下に入り、今度は今川義元と敵対することとなる。
天文11年(1542年)には第1次小豆坂の戦いで今川軍と戦って勝利し、西三河の権益を保持した。この頃、美濃では国主の土岐頼芸が斎藤道三によって追放されたが、信秀は頼芸を保護して斎藤道三とも戦い、一時は大垣城を奪った。
しかし天文13年(1544)には斎藤氏の援軍として越前から来た朝倉宗滴に敗れる。さらに天文16年(1547年)には道三の居城・稲葉山城を攻撃したが、道三の反撃を受けて敗れた(加納口の戦い、ただし時期には異説あり)。
翌天文17年(1548)には犬山城主・織田信清(弟・信康の子)と楽田城主・織田寛貞が謀反を起こすが、これを鎮圧して従属させた。同年、織田達勝の跡を継いだ信友が古渡城を攻めたことにより、再び大和守家とも争うが、翌年には和解している。
また同年、第2次小豆坂の戦いで今川氏に敗れ、続いて発生した第三次安城合戦で安祥城を失うなど、次第に今川・斎藤・そして国内の敵などに包囲されて苦しめられるようになった。そこで天文18年(1549)、子の信長と斎藤道三の娘・濃姫を政略結婚させることで斎藤家とは和睦したものの、今川氏との対立はなおも続き苦しめられつづける中、天文20年(1551年)3月3日、流行病[4]により末森城で急死した。
享年42。ただし、没年には天文17年(1548)説、天文18年(1549年)説や天文21年(1552)説もある。そのため、1549年に没したとする信秀の喪を2年間あるいは3年間ほども伏せた説もある。1551年に信秀の喪が明けた後に家督は嫡男の信長が継いだ。
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