第7話「大内 義隆」7(全192回)

『戦国時代の群像』「大内 義隆」7(全192回)

「大内 義隆」(1507~1551)戦国時代の武将、守護大名・戦国大名。周防国の在庁官人・大内氏の第31代当主。第30代当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。また義隆の時代には大内文化が爛熟して大内家は全盛期を迎えたが、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡した。

永正4年(1507)11月15日、周防・長門・石見・豊前4か国の太守である大内氏の第30代当主・大内義興の嫡子として大内氏館で生まれる。

母は長門守護代の内藤弘矩の娘である。幼名は亀童丸(きどうまる)と言うが、これは父や祖父の政弘ら歴代当主の名乗った幼名であり、義隆は幼少時から嫡子としての地位を明確にされ、同時に大内家で歴代に渡り家督相続時に発生した内紛を予防するために名乗らされていた。

義隆は幼児期は乳母や多くの女に囲まれて成長した。少年期になると介殿様と呼ばれたが、これは周防介の略であり、大内家当主の地位として世襲されたものであり、義隆が嫡子として扱われていた証左である。

なお、義隆が周防介になった年は明確ではないが、永正17年(1520)の時点で義隆を介殿様と記している事から、その前に元服して義隆 と名乗り、同時に従五位下周防介に叙任されたと考えられている。義隆の守役は大内家の重臣である杉重矩が務めた。

元服後の大永2年(1522年)から父に従い、大永4年(1524)には父に従って安芸国に出陣する。この時は5月に別働隊を率いて岩国永興寺へ、6月に厳島へ入り、7月に重臣の陶興房とともに安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。

しかし8月に尼子方として救援に赴いた毛利元就に敗退する。また山陰の尼子氏とも干戈を交えた。 この頃に京都の公卿・万里小路秀房の娘・貞子を正室に迎えた。

享禄元年(1528)12月に父が死去したため、義隆は22歳で家督を相続する。大内家では家督相続の際に一族家臣の間での内訌が起こることが常態化していたが、義隆相続の際には起こっていない。これは義隆の弟・弘興の早世による親族の欠如と、重臣の陶興房の補佐によるところが大きいとされている。

享禄2年(1529)12月23日に従五位上に叙され、享禄3年(1530)10月9日に父祖と同じ左京大夫に任命された。享禄3年(1530)からは九州に出兵し、北九州の覇権を豊後国の大友氏や筑前国の少弐氏らと争う。

家臣の杉興連や陶興房らに軍を預けて少弐氏を攻めた。そして肥前国の松浦氏を従属させ、さらに北九州沿岸を平定して大陸貿易の利権を掌握した。しかし杉興連に行なわせた少弐攻めでは、少弐氏の重臣・龍造寺家兼の反攻にあって大敗を喫した(田手畷の戦い)。

天文元年(1532)、大友氏が少弐氏と結んで侵攻してくると、義隆は長府に在陣し、北九州攻略の大義名分を得るために大宰大弐の官職を得ようと朝廷に働きかけるが失敗した。天文3年(1534)、龍造寺家兼を調略して少弐氏から離反させ、少弐氏の弱体化を図った。また陶興房に命じて大友氏の本拠地豊後を攻略しようとするが失敗する(勢場ヶ原の戦い)。

北肥前にいた九州探題・渋川義長を攻め渋川氏を滅亡に追い込んだ。この年、後奈良天皇の即位礼に合わせて銭2千貫を朝廷に寄進し、翌年あらためて大宰大弐への叙任を申請する。天皇は一旦許可したものの、これは1日で取り消されている。

天文5年(1536)、ようやく大宰大弐に叙任され、北九州攻略の大義名分を得た義隆は、9月に龍造寺氏とともに肥前多久城での戦いで少弐資元を討ち滅ぼし、北九州地方の平定をほぼ完成させた。

このとき龍造寺氏の本家の当主・龍造寺胤栄を肥前守護代に任じている。天文6年(1537)、室町幕府第12代将軍・足利義晴から幕政に加わるよう要請を受けて上洛を試みるが、山陰を統一して南下の動きを示していた尼子氏に阻まれ、領国経営に専念するためにこれを断念した。

天文7年(1538年)に将軍・義晴の仲介により宿敵・大友義鑑と和睦している。天文8年(1539)、父の代からの補佐役であった陶興房が病没している。

天文9年(1540)、尼子経久の孫・詮久(のちの晴久)が安芸国へ侵攻し、大内氏の従属下にあった毛利元就の居城である吉田郡山城を舞台に戦った(吉田郡山城の戦い)。義隆は陶興房の子・隆房(後の晴賢)を総大将とした援軍を送り尼子軍を撃破する。

以後は尼子氏に対して攻勢に出ることになり、天文10年(1541)には尼子方の安芸武田氏(武田信実・信重ほか)と友田氏(友田興藤)を滅ぼして安芸国を完全に勢力下に置いた。天文11年(1542年)、出雲国に遠征して月山富田城を攻囲するが、配下の国人衆の寝返りにあって尼子晴久に大敗した(月山富田城の戦い)。

しかもこの敗戦により養嗣子の大内晴持を失ったことを契機に領土的野心や政治的関心を失い、以後は文治派の相良武任らを重用するようになった。このため武断派の陶隆房や内藤興盛らと対立するようになる。

天文16年(1547)、天竜寺の策源周良を大使に任じて最後の遣明船を派遣している。天文17年(1548)、龍造寺胤信と同盟する。胤信は義隆からの偏諱によって隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に隆信の家督相続に不満があった家臣たちを抑え込んだ。

天文19年(1550)8月、山口に来たフランシスコ・ザビエルを引見したが、汚れた旅装のままで面会に臨む、ろくな進物も持たない、義隆の放蕩振り・仏教の保護・当時一般的だった男色などを非難する、など礼を大いに欠いていたことから義隆は立腹し、布教の許可は下さなかった。ザビエルは畿内へ旅立った。

同年、陶・内藤らが謀反を起こすという情報が流れ、義隆は一時大内軍を率いて館に立て籠もったという。このときの反乱は風評に終わる。側近の冷泉隆豊は陶ら武断派の討伐を進言したが義隆はこれを受け入れなかった。

天文20年(1551)4月下旬、ザビエルを再び引見する。ザビエルはそれまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを学んでおり、今回は一行を美麗な服装で飾り、珍しい文物を義隆に献上した。献上品には、本来なら天皇に捧呈すべく用意していたポルトガルのインド総督とゴア司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったという。

義隆は、ザビエルに対して布教の許可を与え、その拠点として、大道寺を与えた。天文20年(1551)8月末、義隆と険悪な関係になった武断派の陶隆房(周防国守護代)が謀反の兵を挙げた。重臣の内藤興盛(長門国守護代)もこれを黙認し義隆を救援することはなかった。

義隆は親族である津和野の吉見正頼を頼ろうとしたが暴風雨のために身動きがとれず、長門深川の大寧寺までたどり着くとそこに立て籠もった。このとき、義隆に従った重臣・冷泉隆豊の奮戦ぶりが目覚しかったが、所詮は多勢に無勢で、義隆は隆豊の介錯で自害した。享年45。

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