罠
ユーリがサーカス団から失踪して数か月後。
イヴァンのもとに、かわった要請が下った。
「都から、なんと?」
急な知らせで、
「異国との通訳を求める……異国ってどこの国です? 六歳児の坊ちゃまになにをむちゃくちゃな!」
「えとね。みやこのほうでも、つうやくはいるんだって。だけどね、このごろひとがたりなくって、いこくとの、こうしょうがむずかしくなってきたから、ねこのてもかりたいみたい」
「坊ちゃまは猫の手ですか?」
「ネコのテでもマゴのテでもいいよ。たしかに、このままだまってほうっておいても、べつにいいとおもうよ。だけど、せっかくだからやってみようとおもう。つうやく」
「坊ちゃまが異国の原書を読み切れたためしがありますか? ないでしょう?」
「べつに、ぶんしょをさくせいするのにつかわれるわけじゃないから、かいわくらいはできるよ」
マオは、深く深く、息をついたのだった。
「ボクは、このさきも、まつりごとのやくには、たたないみたいだから。いまのうちに、おつとめを、はたしておこうと、おもうんだ」
マオは、半ば情けなく、半ばあっぱれと感じた。
しかし、執事たるもの、主人の身を案じるのが先だ。
「そんな、滅相もございません。私は坊ちゃまがお生まれになったとき、世界に、なんという行幸か、なんという輝かしい未来が約束されたのだろうかと、目がくらむ想いでした」
「それじゃあ、いまもそうおもっているの?」
「あの時は、ただ単にもの珍しい生き物に、目を奪われていたのやもしれませんな」
マオの感情が、押しつぶされ、表層意識がフラットに戻った。
「マオ――!?」
マオは、すちゃっと、両手を挙げる。
「申し訳ございません。失言でした」
「にええ~~。えぐっ、えぐえぐ」
ああ、うるさい。
「小鳥、おとなしくさせてくれ。坊ちゃまにはお仕事に集中していただかねば」
風と共に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『うふふっ、いいの?』
庭先に、白いヴェールが風に舞う。
「それしかないだろう」
『言い訳をしてあげるのも、愛情よ』
「ゆるいな」
『許しを乞うの。でないとあなたの忠義が疑われるわ』
「正体がわからなければいいんだ。この上何を言ってもボロが出る」
「自覚があるのね。魔王さまも、今生の勇者にはかたなしね」
勇者をみればわかるように、名誉貴族なんてこんなもんだろう。
けれど、こんなにも早く、決戦の時がくるとは、このときマオは思いもしなかったのだ。
そして――雪山の駐屯地にたどり着いた。
「これはどういうことなのですか!?」
マオが怒った。
そこは、あろうことか、マオの砦前に設営された、人間の軍事施設……。
ということは、である。
「これから、魔王の砦を占領する。まず通訳が行って、交渉し、それが決裂したと同時に作戦に移る」
まて。
まてまてまて!
この砦は魔獣たちの温床。
人間を喰らって生きる魔獣たちだが、自分たちの領域を侵されて平気でいられるわけがない。
それに食人禁止令を発してから、彼らはもっぱら小動物やら草の実などを捕食している。
いま、そんなわけのわからない攻撃を受けたら、彼らは暴走するだろう。
乗り気なイヴァンには悪いが、のこのこ出向いていったら、怪我では済まない。
喰われてしまう。
なんとかして説得せねば。
交渉の場に出るのは、私でいい――相手が相手、なのだからな。
「マオ、いま、じぶんがでていけばいい、とおもっただろう」
はっとして主人を見つめるマオ。
「それじゃ、だめなんだ。だめなんだよ、マオ。ボクがいくことに、いみがあるんだよ」
「しかしそれでは、死にに行くようなものです!」
「マオ……ボクをしんじてくれないの?」
「坊ちゃま……」
ぎり、と噛んだ唇から血が滴る。
どうして、この勇者は肝心な時に意地を張る――?
ここで一度、主従関係を切るべきだ。
魔王の頭の中で警鐘が鳴った。
どうせ、今のままなら――この関係が終わらないなら、自分にはイヴァンをどうすることもできない。わざわざ危険地帯へ赴くのをおしとどめることすらできないのだ。
すっと、頭から雑音が抜けた。
魔王の口からするりと、自分では全く望まない言葉が導き出される。
「せめてお供だけでもさせてくださいませ」
「ん」
イヴァンはようやく自分の身に迫る危機に気づいたのか、マオを頼り切っているのか――そんな短い答えを吐いた。
魔獣の砦内はざわめいていた。
なにせ、あの魔王が交渉の場へやってくる。
自分たちの王としてではなく、人間風情の言葉を伝えるために。
――勝手だ! 魔王は。
そう感じる魔獣もいなくはなかった。
自分たちに狩りを禁じておいて、飢えた魔獣がどうなるか、わかっていないらしい。
あの魔王は、自分たちの魔王ではないのだ――そう感じたものも多くいた。
魔獣たちは、徹底抗戦をきめこむことにした。
「おかしいですね、門はしまったまま。このまま時間が過ぎていくのにまかせるわけにいかないですから、引きかえしましょうか?」
魔王が言った。
ぷるぷる、イヴァンが首をふった。
肩に降り積もった雪が、風に舞い散る。
「マオ、ボクはもう、これいじょうは、だめかもしれない……」
マオが、慌ててその瞳をのぞきこみ、顔色を確かめると、確かにうつろな表情をしていた。
「ボクは……うまれてだれにもひつようとされてない。だれのためにもならない、むいみなそんざいなんだ……」
「なにをおっしゃいます、坊ちゃま!」
マオは、勇者の、予想外に弱いメンタルに、慌てた。
なんにつけても欠乏はさせなかった。なのに、なぜ戦う。なにを欲している?
狭い世界でも、おまえはそうだった。今は、願いの全てが手に入るというのに、なぜだ?
「だからこそ、われわれはたたかう。りょうどをまもるだけではなく、こくどを。われわれのりょうみんを、むざむざしなせるわけにはいかない」
「ご立派ですよ。坊ちゃま……」
魔王は青い影をまとって、そこにたたずんでいた。
「マオもこい!」
「は……それは……」
衝撃だった。魔王である自分が、まさか討伐隊に加えられるなど……。
「もちろんめいれいだ。ボクは、ぐんのきそくにくわしくない。こまごまとしたところまでゆきとどかないとこまる。マオならボクもあんしんだ」
「お言葉ですが私は家令頭。戦闘訓練を受けておりません」
これは嘘。訓練こそ受けてはいないが、高い位置から軍を動かすことはできる。
ええい、人間の軍隊など……。忌々しい。
――だから言ったのだ。今生でも王は、民は、おまえをまっさきに前線に立たせようとする。責任をとるのはだれだ!? 王でも民でもない。そんな無責任に勇者の命をかってにベットするな!
数日後。
祭りの音楽と共に、たき火を囲んで強い酒をあおるように飲み、踊り騒ぐ兵士たち。
それを尻目に、マオは砦に業火球を何度もなんども打ちこみ、砦を破壊してまわった。
煙に巻かれた魔獣たちは、目を逆にぎらつかせ、牙を剥き、マオに襲いかかってきた。
何頭も、何匹も、まとめてかかってきた。
これまでのうっぷんを晴らすかのように。
しかしマオは魔獣の好む香りの強い木の枝を、頭上でさっさとふりまわし、彼らを手なづけてしまった。
「こういうわけですので」
マオがすまして言うと、討伐隊はしかたなしに蹂躙された砦に駐屯することになった。
ところが夜、地震が起こり、砦は跡かたなく崩れ落ちた。
「大丈夫ですか、坊ちゃま」
「んう、うーっ」
「危ないところでした」
マオは自分の主だけを庇い、駐屯する兵は置き去りにした。
「パーチ、ラッド、腐食兵を頼む」
瞬間移動で呼び寄せた使用人二人を、司令官にしたて、屍となった者たちを配下においた。
これでいい。
あとは崩れた門の外に現れた、魔物をどうするかだ。
「ここへ来るのはいつぶりだろうか……」
『私が生まれる前のことなどどうでもいい。見たところ魔術体系の持ち主らしいが』
「まあ、新しく生まれた魔物など、ケチなものさ。私は魔王。あの城の主だ」
『なら、もうここを去ることだ。今の魔獣どもにとって、おまえは王ではない。今は新たな別の王にお仕えすることに決めたのだ』
「別の、魔王? だれだそれは」
『名を告げることすら、はばかられるお方だ』
「では、おまえはここで退場だ」
魔物の胸を銀の槍が射抜いた。
『馬鹿な……魔の眷属が、どうしてオレを叩き殺すことができるのだ……この、オレをっ』
「私が――本物の魔王だからだ。おやすみ、坊や」
『そんな……そん、な……』
踏みにじられた魔物は息絶えた。
怨みに目を見開きながら。
マオは瞳を閉じて、深く息をついた。
『――今の魔獣どもにとって、魔王は別にいるのだ――』
マオは、自らのかつての居城の方を見やると、
「別の魔王、か」
あまり考えたくはないことだなと思った。
「ううん、んう! うっ」
勇者が苦しんでいる。門の前から魔王は駆け寄り、その背に触れようとした。人間界で学んだ動作だった。ところが!
「んうー! んんうー!」
勇者は大きなうめき声をあげて、光の繭に包まれた!
これではだれも手出しができない。
「まさか、これは覚醒!?」
『おおー! 坊ちゃまが』
『坊ちゃま――!』
「イヴァン、坊ちゃま……」
どうしよう。魔王は震撼した。イヴァンがこれほどまでに……光り輝く御子であったとは。そしてこれほどまでに苦しむものだとは、知らなかった――魔王はすでに覚醒した勇者としか相対してこなかった――。
「苦しい……苦しいよ、マオ――マオ――! 助けて!」
「ああ、イヴァン、目ざめてしまうのか。私を、どうして、なにを、どうしたら……どうしたら……!?」
「マオー! そばにいて。苦しい、くるしいよ……痛いよ。ああ、助けて――」
いいや、おまえは助ける側の人間だ。私にどうにかできるものか。
目ざめたら、そこに、勇者がいる。イヴァンが、イヴァンでなくなって、イヴァンでないおまえがそこにいる。耐えられるだろうか、私は。ひき裂かれることになっても、イヴァンがかわいいと思えるのか?
――もうだめだ。ボクもうオワリだ……そんな声が聞こえてくる。そんなことはない。おまえは今からなのだ。勇者として覚醒し、これから人々の願いをきいていく。そのはずだ。勇者よ。魂を同じくする勇者たちよ、その霊がおまえに入りこもうとしている。だから、嫌だったのだ。ここへ来るのは――一体なぜ今なのだ!?
マオは戸惑っていた。今ならば間に合う。勇者として覚醒しつつあるイヴァンを、今なんとかできさえすれば、戦いの歴史は幕を下ろす。――そして、新たな勇者が生まれてくる。勇者の子供が――イヴァンのように。
いいや、イヴァンはイヴァンだ。代わりなどいない。イヴァンが本気で私を魔王として迎え撃とうというのなら、それに甘んじようではないか。今生の勇者よ、私はここだ。待っていた――おびえながら、私は待っていたのだ、このときを。確かに、イヴァン、おまえはほんのりおバカな、かわいいやつだった。人間ごときがどうしてこんなにもかわいいものか、わからない。私を討つのなら、討て。さあ、イヴァン――。
マオが最後の覚悟を決めたとき、イヴァンの覚醒が終わった。光の繭がほどけて、中から幼児から少年の姿に変じたイヴァンの姿がのぞいた。
『ぼ、坊ちゃ――ま?』
『おお! イヴァン坊ちゃま!』
ラッドとパーチが何も知らぬげに駆け寄る。
――大丈夫ですか、と。
大丈夫なわけがない。今彼の頭の中にあるのは、魔王との歴史。もだえ、苦しみ、虚ろになっていった意識に、戦いの記憶が刻みこまれたのだ。私との、邂逅の歴史が。
「勇者よ――」
魔王は初めてそう、イヴァンに話しかけた。
「マオ――マオッ」
あどけない顔に、涙の痕……。魔王、それから? 許さないぞというのか? ステレオタイプだな。私もだ。
魔王はどうしただろう?
ただ、自分だけを見て、突進してくるように駆け寄った勇者を、抱きとめた。――抱きとめた?
「マオ、どうして……? 痛かったのに、苦しかったのに、マオ、ボクを助けてくれないの?」
ショックだった。魔王の心に亀裂が入り、なにかが砕け散った音がした。
「マ、オ……?」
見上げてくる、それは。イヴァンのそれは、自分を庇護するものへの信頼、そして甘え――。
「イーヴァ……」
魔王はその体を抱きしめた。勇者は何も奪わなかった。ただ、信頼を――愛する者へのまなざしを向けてきた。それが、魔王の心を壊した。
とめどもなく――魔王の心を震わせ、涙せしめた。
魔王は、魔王の心は魔王ではなくなった。
山を降りていくと、武装していた軍部に詳細を知らせ、いったん館に引き返すことにした。
駐屯地の前で、ヴェールをつけた、白装束の女が水晶玉を抱えて立っていた。
イヴァンが、馬車を降りると、音もなく近づいてくる。
これにはマオが警戒した。
刺客か!
しかし、女はポケッとしている勇者の前へ進み出ると、
「あなたは生まれついて、特殊な運命のもとにあります。しかし、運命はまだまだ変えられます。いま、どうにもならない壁に阻まれていますね?」
「!」
「失礼いたしました。私は旅の占い師。あなたが草原を越え、森を抜け、雪も風も乗り越えてやってくるのをいまかいまかとずっと見ておりました。この、水晶玉で」
女は一息に言って、イヴァンの心をつかんでしまった。
「大丈夫、その壁はいつか気にならなくなるでしょう。いつのまにか壁ではなくなっているかもしれません。今のタイミングなら、あなたのもっともたる願いが一つだけ叶えられます」
「坊ちゃま、このような世迷言にまどわされてはなりません。だいたい……」
マオが女の目をにらみつけると、パチッとウインクして来たではないか。
なんだというのだ!
「あの……あの、山のお城に、おそろしい、魔王がすんでるんだ。追いはらえないかな? このままだと、国じゅうのみんなが、おびえてくらさねばならないんだ」
女は魔王とその主をじっとみつめ、やがて長い息をついた。
「魔王はすでに死んでいます。その城には別の魔王が君臨しようとしています」
「ええ! 魔王、もう死んだの?」
適当なことを!
マオは拳を痛いほど握った。
「ですから、討伐隊をひきあげ、税金の無駄遣いを防ぎなさい。今後、資金が必要になります」
マオは再び、女をじっくりと観察した。
イヴァンがボーっとした声で告げた。
「なあんだ、それじゃ、討伐隊はいらないや。お金のむだ!」
「坊ちゃま、引きかえすのですか?」
「うん、魔王がいないんじゃ、お城にいったってしかたないよ。それでなくても、領民のお金だから」
これにはマオの方が毒気を抜かれた。
しばらく、事情がのみこめず、直立不動になっていた。
「さ、いくよ、マオ」
立ち去る二人の後ろ姿を、白い小鳥が見守っていた。
「私の名はプシュケー。見守っているわ。イーヴァ」
そういうと、プシュケーは白い風花が舞い散る空に、翼を広げて飛んだ。
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