イーヴァの危機
誰の責任か、と問われると……魔王は腹立たしくなる。
人間とは、なぜこんなにも未知数なのか。
わかり切っていることでさえ、不気味に映るのだ。
たとえば、暴れれば危ない目に遭う。小舟から身を乗り出して水面に近づいたら危険だ。
周りのすべてがわかっていても、しでかしてしまう無知さ無能さ図々しさ。
イヴァンは、それでも不確定要素に救われた。
魔王ではなく、一人の――人間によってである。
人間は不確定だ。
そこにいたことさえも。
なぜ、完璧によそ者の彼女が、水に落ちた赤ん坊を救うにいたったのか、単純なはずの説明もつかない。
わかりやすい解が出てこない。
魔王は人間になったつもりで想像してみた。
魔王には想像力がある。
今現在、目の前にないものでも、まぶたに映ったことのあるものならば容易に、脳裏に描くことができる――それが魔法を操るものの特性である。
それでもわからなかった。
魔王の頭はそうそう都合よくできていないのだ。
「イーヴァ!」
魔王はそのとき、貴族の子供に対する敬称を忘れていた。
仮にも執事としてそばにいたのに――それほどまでのショックだった。
イヴァンが水の中に落ちた――小舟のへさきからどぶんと。
ラッドとパーチがバシャバシャと
白い小鳥が、ピチクリとさえずりながら魔王を見守っていた。
魔王の 脳内がしびれ、思考が真っ白になったとき、紅いスカートの少女が桟橋から勢いをつけて、宙を舞った。
魔王は身動きできなかった。
だがリリスは――少女だ――水中でイヴァンを抱えると、浅瀬まで泳ぎ切り、その命を救ったのだ。
なぜその少女がイヴァンの危機に都合よく現れて、彼を助け出せたのか。仮に偶然ということにしておいてもいい。
しかし、その金髪の少女――リリスはイヴァンが「呼んだ」のだと言った。
溺れていたのだ、イヴァンは。
だれを呼んだかなど定かではない。
だが、彼女は腰に手をあてて「この子が自分を呼んだ」と言ってゆずらない。
いいだろう。
そんなこともあるだろう。
もしかしたら、勇者と周波数の合う何かの特性をそなえた人間だったのかもしれない。
しかし、ではなぜリリスは、その後もたびたびイヴァンのもとを訪れ、彼を着せ替えては剣(刃は潰してある。親はそれほどバカではないようだ)を振り回したり、女装させたりしてままごとなどをしているのだ。
イヴァンはなぜ言われるがままになっている?
理解不能だ。
魔王はこのときほど、イヴァンの
とある日の午後。勇者は人懐こい笑みで後ろに何か隠して近づいてきた。
「マオー、すわって、めをつぶってて?」
「イーヴァ、坊ちゃま?」
そう言われて、うんと頷いて素直に目をつぶれるほど、魔王歴は長くない。
まだ三千年だ。
いまだ未知の生き物であるイヴァンが――自分に対し、なにを思うのか。
それすらわからない存在が、自分の背後で何をしようとしているのか、これはつぶさに見ておかねばならない。
「バッ!」
魔王の視界は薄ピンクのヴェールに包まれた。
「キャーイ!」
とたんに巻き起こった突風に、すぐにそのヴェールははがされ、天空に巻き上げられて雪のように舞い散った。
魔王の頭からかぶせられた断片を見やると、季節の花である。
「これは……?」
イヴァンの背後にいた少女――リリスが嬌声を上げた。
「やったね! イーヴァ、成功!」
魔王が睨むと、リリスは警戒心もあらわに飛び
紅い地の色に、あざやかな白とオレンジの線が入った、チェック柄のスカートが、重さのあるプリーツを開いてふわりと広がる。
拳闘の構え。
いかん、なんという勘だ、このメス狼め。
勇者の周りには――そう、なぜか、勘が鋭いというか、戦闘の嗅覚に長けているといった人間が多く集まる――そういう報告を受けていた。
今は懐かしくもある、あのときの決戦は――。
手で顔をなでおろし、事の次第を問いただそうとイヴァンを見る――リリスは構えをといた。
すると、イヴァンはこういうのだ。
「あのね、きのしたにおちていたはななの。さいていたのをとったんじゃないよ――」
「そうですか。でもこの花はこんなふうに花房ごと落ちたりはしませんよ」
しかし、魔王は後に気づくことになる。
それが――イヴァンのそれは、花にではなく、魔王自身にむけた気づかいだったことを。
リリスが言ったことには……。
イヴァンはマオに花をたくさんあげたかったが、そのために生木から生きた花を大量に摘んだとあってはマオを心苦しくさせてしまうであろうからと。
実際は摘んだのだ。
時間をかけて、ひとつひとつ、バスケットにそろえて。
そのとき、魔王は思った。
私が、花の命を惜しむと思ったのか。
お花がかわいそうだと、私が言うと思ったのか?
扱いづらい奴だ――と。
魔王は、自分がそこまで繊細ぶったつもりはなかったのだ。
生きとし生けるものを愛する、イヴァンの愚にもつかない――もとい、やさしい心のありようが気がかりだった。
もしや、イヴァンのこの特性は、あるいは勇者として特異なものではないのか。
勇者は、大きな目をして、息をひそめながらこちらを見ている。
このように過敏に、過剰に、行き過ぎた感性を持つ者が勇者たり得るのか――?
魔王は、震撼した。
今生の勇者には、勝てないかもしれない――それは直感。
身をひき裂かれるような「痛み」を、魔王は確かに感じた。
「花」に「命」があることを教えたのは誰だ? 私ではない。
勇者、おまえが私に教えた。
花は、そこに落ちていたから拾ったのだと。
花の命を摘み取って私にわたせば、私が悲しむと思った――私を人間として扱った。
なんという衝撃か。
イヴァンは勇者ではあったが、それでもまだ、ようやっと自力で立ち上がり、ヨチヨチと歩き出したばかりだというのに!
魔王に花を贈ろうという考えも稀有だが、それ以上に
あるいはあったのかもしれない。
だからこそ、彼らは私を許さなかった――摘まれた花に命があったことを知らない私だったから?
いや――いや、そんなことはどうでもいい!
イヴァンがこれ以上知恵をつけたら早晩、最終決戦に――突入する。
阻止せねば。
彼の心を勇者のそれから引き離し、人間界の汚泥にまみれさせ、欲得ずくの腐った文化に触れさせ――己の真実から目をそらさせねば。
己の命にも、もっと執着させねば。
ずるがしこく、
でなければイヴァンは私を憎むことだろう――純であるがゆえに、憎まずにいられないだろう。
何も与えず奪うのは勝手だ。
問題は勇者の心がそれを
なんということだ。勇者は命知らずなのではない。
命を惜しむからこそ命をかけて戦っていた――そのことを瞬時に悟らせた、イヴァンは何も知らぬうちからそれができた。
なんと、おそろしい。
この世の謎が一つ解けた。
勇者は勇者なのだ。
何度生まれ変わっても、なにを手に入れようとも、自身の危機を顧みず、人々のすべてを救うため……。
それを
愛と呼ぶのかもしれない。
いいや……。
そこに嘘や欺瞞はありはしないか?
私に散ったばかりの花弁を降らせたように。
心からの行いではなかったのではないのか。
誰かのために何かを犠牲にして、それをただ喜ぶことができない、それが勇者イヴァン、おまえではないのか?
「マオー、こっちにきて」
「ああ……そうですね」
なんと、厄介な感性の持ち主か。たとえ覚醒していなくとも、勇者であれば魔王である私を認知できるはず――今はまだ、隠しているのか。
この私を、子守にかかりきりにさせることで、何の得がある? わからない。
わからない生き物だ。
このとき魔王は失念していた――ほかならぬ自分自身がこの子供に祝福を与えたという事実を。
不本意だが、魔王は勇者の資質をイヴァンにみた。
放棄はいまさらできない。
これからどう育つかわからないのだ。
目を離してはおけない。
ふ、と魔王は目で笑った。
己の指先を握る小さな手を、くすぐったくも、うれしくも思うこの気持ちは――もう、笑うしかないではないか。
「イーヴァ……」
「うん……」
イヴァンはつぶらな
この瞳を、自分は裏切れるのか――? 答えは否。
かわいいかわいい、愛しのイーヴァ。
歌い出したい衝動に魔王はあらがう。
魔王はね、イーヴァがかわいくて、食べちゃいそうだよ?
ああ、私がこんな気持ちにさせられるなんて、滑稽だ。
なんて茶番だ。
泣けてくる。
「そうか……私に、涙があったのか……」
いまさらに、呟く。
なんの。イヴァンが手に入ったときに、己は泣いていたではないか。
「マオー? あそぼう? おすなでおしろをつくるの」
「いいのですか? 魔王がきてお城をつぶしても」
「でっかいでっかいおしろだから、でっかいでっかいやまをつくるの。だからつぶれないよ!」
「はあ……そうですか。そんなに大きなお山を基礎にするのですか、それは偉大なお城なんですね」
「うん!」
「では初めに規模を決めましょう……どれくらい大きな城をつくりますか? 基礎になるのは驚くほどでっかいお山? 呆れるほどおっきなお山? ひっくり返るほど大きなお山?」
「びっくりするおやま!」
「承知いたしました。イヴァン坊ちゃま」
もう、彼をイーヴァとは呼ばない。
魔王なりの、けじめだった。
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