バーニング・ブラッド

 蝕が近い。

 近年、ただ一度の日蝕が。

 魔王は、息を切らせて、草原を駆け、森を探った。

 ここに、いるはずの、彼は――!?

「イヴァン!」

 感情をあらわにするのはもう慣れた。

 始終フラットではいられない。

 五歳児となると、感情の起伏も大きく、つきあっているこちらは目が回りそうだ。

「――イヴァン!」

 大きくあえいだ。

 人間の正装ではむやみと藪に入るわけにもいかないが、今は構っていられない。

 モーニングの裾が枝にひっかかる。

「ち!……これは、ハシバミ!?」

 持ち主に偉大な知恵を授けるという灌木が、魔王の正装にカギザギをつくろうというのか。

「知恵ならば、魔に属する者の王である私の管轄!」

 魔王はハシバミの枝を二本、折り取った。

 その実はヘイゼルナッツといって、きわめて栄養価の高い稀少なもので、であるが故、森の持ち主に黙って、小枝なりとも折り取って、ダウジングに使うなどと、許されることではなかった。

 ただ、今は緊急事態。

 勇者を、イヴァンを探すのが、先決――そう、そのほかの何をおいておいても、先決だ。

「どこだ!? なぜ気配を消したのだ!? イヴァン!」

 蝕があるからだった。

 共食いし合った魔獣の中から、さらに新たな魔王を輩出する闇の饗宴。

 魔王は今日、魔王でなくなるかもしれない――定めし勇者を失ったなら!

 日蝕のとき、この世に異世界の扉が現れ、新たな勇者が送りこまれてくる。

 そう聞いていた。

 実際には、日蝕のときに己が輩出されたことを火ネズミに教えられた。

 それしか記憶にはない。

 ただ――蝕の日を境に世界は変わり、勇者と魔王は出会うのだ。

 己を喰いあう唯一の敵――失えば、お互い唯一の相手を失ったならば、永遠の闇がおとずれる。

 だから、実は魔王は勇者を失えない。

 幾度転生しようと、魔王を倒すまで勇者は向かってくる。

 魔王が死ねば勇者は転生せず、この世の構成要素として宇宙に散らばる。

 それが唯一、彼と彼らの真実だった。

 が、蝕によって魔王が新たに入れ替われば、勇者も代わる。

 今生の魔王と勇者イヴァンの真実は、露と消えるのだ。

 ハシバミの枝が震えた。

「こちらか!」

 森の泉に咲く白い花を、なににたとえたらよいだろう?

 イヴァンの肢体は泉に横たえられ、下半身を水にひたされていた。

 その水は赤く、紅く。

 彼の丸くて小さな頬には、生気というものがなかった。

 ズズ……。

 重いものを引きずるような鳴動がして、イヴァンはその大木の根に巻かれて遥か上空へとさらわれた。

 髪にほぼ覆われた魔王の瞳が紅く染まり、見開かれる。

「イヴァンッ!」

 ハシバミの枝が、取り乱した魔王の手からぽとりと、泉に落ちる――すると水は見るまにカサを増して、生きとし生けるものをのみこまんとした。

 そのとき、かん高い声を聞いた。

 気配は濃厚――新たな勇者か。

 視線を左右に走らせる。

 声は遠い。地面が盛り上がり、でこぼこと自然の法則を無視して崩れ落ちていく。

 どこの誰だか知らない、華奢な姿が、古木の幹に巻きついていたであろうつたを使ってとびはねてくる。

「あいよ! イーヴァ、来たよ!」

「――リリス!?」

 イヴァンに意識はない。

 だが、リリスは言うだろう。

「イーヴァが呼んだ」と。

「まさか、リリスが……勇者?」

 リリス――もう一人の、魔王の、勇者。

「もう、大丈夫だよ。マオ! 受け取りな!」

 彼のもとへ、蔦に吊り下げられて降りてきたのは、イヴァンの体――どこも失われてはいない。

 あろうことか、魔王は両腕を広げてそれを受け止めた。

 命がないなら、そんなことは無意味であろうに――しかし、魔王のイヴァンは生きていた。

「イヴァン――イヴァン!」

 わけのわからぬ、とは人の言うこと。

 魔王ははっきりと意識していた。

 蝕のおとずれを。

 新たな魔王が誕生したのを。

 そこで初めて魔王と勇者は邂逅するのだ。

 おそらく、リリスとその魔王が喰いあいを定められる。

 それではイヴァンはどうなる!? その命は!?

 そそり立つ木々の影から、得体の知れない暗闇が迫ってくる。

 闇よりも黒いペイズリー――うごめいて、世界を埋め尽くそうとする。

 魔王は唾棄した。

 血がざわめいていた。

 ――新たな魔王が生まれたなら――私が……殺す!

「リリス……かまわないだろうな?」

「オーケー。なんでもいいからちゃっちゃとやっちゃってよ」

「おまえの存在意義が――魔王を倒すという、生きる理由が――この世からなくなってもか?」

「めんどい。おどすことないじゃん。この世からあの禍々しい何かが消えてくれるんなら、こしたことないんだし」

「なるほど、勇者だったんだな。おまえは」

「うん……イーヴァとは、すんでのとこでタッチ交代! だったんだけどね」

「魔王の居場所はわかるか?」

「私を誰だと思ってんの? あの、高台の上」

「よし! 手をかそう」

「へ?」

「魔王は勇者にしか、倒せないものだからな」

「へえ? なにそれ、なんかかっこいい! 美学?」

「そんなものだ」

 短いかけ声と共に、二つの影は大樹の陰から飛んだ。

「よし! いける」

 空間をひとっとびに飛んで、高台に立つ。

 リリスがチェックのプリーツスカートをはためかせて銀のナイフを構える。

 魔王は呆れた。

「そんなもので魔王が倒せるものか」

「失礼しちゃう! 形をとる前の魔物なら、この聖なるナイフですっぱりいけちゃうんだから!」

「ボガァアアア!」

 誕生したての魔物が吠えたくった……。

 闇から現れる禍々しい影。

 頭頂部らしき部位には醜い魔物の螺旋らせん角がある。

「はあ!」

 まだ形を保っているだけでやっとの、比較的柔らかいその角を、リリスのナイフが切り裂いた。

「うまいぞ!」

 魔王がその角をキャッチし、その魔物の胸部に打ちこんだ。

 魔王の心臓は複数。

 どこに、いくつあるかわからない――勇者にしか。

 だから、リリスにつぎを譲る。

 ドシュウ!

 あふれ出た血が沸騰するのが見え、魔物は苦悶に身を折る。

 残る心臓は――。

「左右に一つずつ、背面に一つ!」

 右へ、左へと撹乱かくらんし、リリスが右手のナイフで貫く。

 混乱した魔物の爪が、リリスのスカートの正面を引き裂いた。

 魔王が波動を操り、援護する。

 手加減はできない。

最後おしまいよ!」

 リリスが飛び上がって背後へまわり、さらにスカートをひるがえしたとき、白いものがバア――ッ! となびいた。

 回し蹴りをした瞬間。

 左腕に装着したもう一本のナイフが敵の喉の後ろをやすやすと突いた。

 それでも、もがこうとするので、魔王が気道を潰しにかかった。

 華麗なるコンビネーション。

 はずむ息。

 揺れるリボンに乱れた金髪。

 魔物は、それ以上うめくこともできず、あえかな吐息に枯れ枝のような四肢をもだえさせながら、すえた臭いを発してぐずぐずに腐っていった。

 二人は、世界が鳴動する音を聞いた。

 たとえようもなく、陰鬱いんうつな響きだった。

 星が――砕け散った。

 この世に二つとない凶星同士がぶつかりあい、二体一で新たな魔王は姿をとるより前に倒された。

 後には、息を切らせた魔王とリリス。

 光が戻り始めていた。

 蝕は、終わった。

 二人には永かったようにも、一瞬だったようにも感ぜられたに違いない。

 暗がりから這い出た世界は、青いあおい、雲一つない蒼天。

「やったあ!」

 リリスが瞳をあわせてニコッと笑い、伸び上がって天を仰いだ。

 と――スカートが裂けていたのに気づき、そっと合わせ目をそろえた。

「やったな!」

 二人とも、返り血の跡がべたべたについていた。

「それにしても、やな臭い。泉の精には悪いけれど、水を借りて洗い流しましょ」

 泉で、というのは気をきかせたつもりなのだ、リリスなりの。

「じゃあ、イヴァンのもとへ行こう」

「今生の勇者さまのもとへ、ね!」

 リリスはパチン、と愛らしいウインクをよこした。

 魔王は、意外な――見慣れないものを見たという顔。


 まだあどけないイヴァンは、盛り上がった岩肌の見える大樹の根の狭間で、何事もなかったかのように柔らかな寝息を立てていた。

「大物だな」

「そりゃ、イーヴァも勇者さまだもの。うふっ」

 体を清めた二人のもとで、イヴァンが目を醒ました。

「アッ、ああッ」

 叫んで、肌もあらわな姿を隠そうとするリリスに、イヴァンは一言。

「なに、かくしてんの? ああ、よくねたぁ」

 あくび混じりなので、リリスの恥じらいが馬鹿みたいだ。

「こういうところは、直さないといかんな……」

「もう、デリカシーってもんを教えてやって!」

「見たところ、どこも出てないようだが」

「変態!」

 リリスが叫ぶと、魔王はまんざらでもない表情であごをなでた。

「うまい褒め言葉だ……」

「んもう、いやっ」

 不当にも、理不尽にも――着替えを用意しないリリスが悪い、ということになってしまったのだった。


 疲れ果てていたリリスのために、魔王は即席のかまどを作り、火をたくと、泉の水を沸かして飲ませた。

 魔王は人間ではないが――リリスは、どれだけ強かろうと人間なのだ。

「ところで、リリス、どうしてナベカマ一式持ち歩いていたんだ?」

「え? それは、野宿するためよ」

「家は?」

「ない。私の父は国の事業を大きくするために、商人にたくさん借金をして、かわりに領土における権利をとられてしまったんだ」

「苦労しているんだな」

「別に。そのおかげでイーヴァとも出逢えたし、まだ苦労ってほどの苦労はしてないつもり」

 リリスは、返り血を洗ったスカートのプリーツをほどき、毛布がわりにシュミーズの上から羽織っている。

 裂けた部分は、縫い合わせた。

 非常に多くの布地を使っており、野宿の際にはくるまって眠ることができるらしい。

 子供の知恵とは思い難い。

 おそらく、戦闘訓練を長く積んでいる。

 その身の軽さと、打撃力、急所を突く技術。

 勇者の器か――十歳も離れていないというのに、イヴァンとは大違いだな。

「ねえ、ぼくも入りたいな――」

「いいよ、イーヴァ。こっちへおいでよ」

 魔王は少しの間、己の考えにメリットとデメリットをはじき出し、メリットの方をとることにした。

「リリス。館にこないか? 野宿ばかりでは体に悪そうだ」

「ああ、そうするつもりだよ」

「……できれば、一生」

 リリスはきょとんとしていたが、やがてズルそうな目をした。

「ははん。私にイーヴァのお目付け役をしろっていうんだ?――マオのくせに」

「なにを聞いたらそういう結論になるんだ。イヴァンには仲間が必要だ」

「つまんないの。まあね、そうね、お友達になるのはやぶさかじゃないけれど、一緒に住むのはパスだな」

「そうか……」

「その代わり、毎日でも遊びに行く。イーヴァと、あんたとね」

「いや、私には必要がない。どうか変に気を回さないでくれるか」

「何言ってんだよ。私があんたと遊びたいんだよ」

「子供は苦手なんだよ」

 なにをしでかすか、わからないからな。

「そうかな?」

「なんだ?」

「マオがイヴァンといるとき、とってもそうは見えない。マオは子供好きなんだよ」

「断じてそんなことはない」

「ええ? あるって――」

「ない!」

「ムキになるなよ――うふっ」

 そんな問答をしていたら、日がくれてしまった。

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