彼女のような彼氏

UMI(うみ)

彼女のような彼氏

 とんでもないものを見てしまった。白井小雪(しらい こゆき)は青褪めた。務める会社の開発主任が所謂ラブホから男と出て来るのを目撃してしまったのである。しかも主任と目が合った。間違いなく見てしまったことがばれた。主任はれっきとした男性で田口圭一郎(たぐち けいいちろう)という。明日からどうすればいいのだろうか。小雪は頭を抱えた。

 もし主任がこれを理由に小雪を解雇したりすれば小雪は明日から路頭に迷おうことになる。小雪に身よりはいない。施設育ちに孤児だからだ。どうしても今の会社にしがみ付く他はない。残業になり、しかも真冬の木枯らしの吹く季節。近道しようとラブホや風俗店の並ぶ裏通りを選んで歩いてしまったのを小雪は深く反省した、しかし覆水盆に返らず。どう反省してもどうしようもなかった。

 施設育ちの孤児で高卒。それでも、それなりの会社に入社することが出来た。購買部の下っ端であるが。購買部の事務員といっても半分は倉庫での検品作業に明け暮れる雑用係のようなものである。給料も最低限のかつかつの生活ではある。それでも独り立ち出来たことに小雪は満足していた。それなのにそのたった二年目でこんな目に合うなんて。文字通り小雪は目の前が真っ白になった。

 どうしよう、どうしよう、と思っていても容赦なく明日は来る。小雪は重い足取りで出社した。いつもどおり会社から支給されているジャケットを着て、蒸し暑い倉庫で検品作業をしている時だった。

「白井さん」

 声がかけられて振り向いた。田口主任だった。

「ひゃい!」

 思わず変な声が出た。

「仕事中に悪いんだけど、後で話があるんです。時間、いいですか?」

 柔らかい物腰で田口主任はそう言った。主任は端正な顔立ちで有り体に言って男前である。ふんわりとした髪をこげ茶に染めていてそれが良く似合っている。痩身で背も高くスタイルもいい。性格も温和で仕事も出来る。上からも下からも信任の厚い人物であった。かく言う小雪も田口主任を尊敬していた。

 それが、まさかあんな性癖の持ち主だったなんて。驚いただけで決して軽蔑はしていない。ただ今は自分が首になるかもしれないという恐怖に怯えていた。

「わ、わかりました……」

 主任にそう言われては断る術はない、小雪は覚悟を決めて頷いた。


 主任に指示されたのはミーティング使われる小さな会議室だった。「座って」と促されて小雪はパイプ椅子に腰掛けた。開口一番、田口主任は言った。

「昨夜のあれ、白井さんでしょ」

 小雪は反射的に頭をがばりと下げた。土下座でもしそう勢いである。いや、土下座くらいで首が免れるなら幾らで土下座くらいする。

「すみません!私、誰にも言いませんから!首だけは勘弁して下さい!」

 主任は一瞬、ぽかんとして笑った。

「嫌だなあ、あれぐらいで首にしたりしないよ。白井さんは仕事熱心にだし。私情で私は社員を首にしたりはしませんよ」

 小雪が仕事熱心なのは文字通り生活がかかっているからだ。小雪はほっとした。この様子なら路頭に迷うことはなさそうだ。

「まあ、頭を上げて下さい。話っていうのはね、白井さんと友達になれないかなあと思って。気の置けない女友達がいないのが悩みの種でして」

「はあ?」

 思わず頓狂な声が出た。頭は下げっぱなしである。

「白井さんはいつも一所懸命だし、ボーイッシュで、好ましいと思っていたんです。ばれちゃったし、いい機会かなあと思って。それで今夜空いていますか?よければ飲みにいきませんか?勿論私の驕りです」

 そこまで言われて小雪はようやく頭を上げたのであった。


 主任に連れて来られたのはこじんまりとでもでも雰囲気の良い、昔懐かしいといった風情のスナックだ。そこはかとなく昭和の匂いがする。

「あら、圭ちゃん。女の子を連れてくるなんて初めてじゃないの」

 スナックのママが言った。

「ふーふふふ、友達なの」

 まだ友達になっていない。それに小雪は友達なってもいいとも言っていない。

「好きなものを頼んで」

 言われて小雪はチャップリンというレモンジュースを使ったカクテルを頼んだ。小雪は二十歳になっているのでお酒を飲むことはなにも問題はない。主任はウイスキーをロックで頼んだ。

「それで、あの主任。友達って……」

「ふふふ。そんな主任になんて他人行儀な呼び方は止めてちょうだいよ。あたしのことは圭ちゃんでいいから」

 口調まですっかり変わっている。一人称も「あたし」だ。

「その、私と友達になりたいって本気なんですか?」

「勿論」

「でもなんで私なんですか?」

「ばれちゃったのがきっかけだけど、前からあなたのことは好ましいと思っていたって言ったでしょ」

「はあ」

「それから小雪さんて名前だったよね。小雪ちゃんて呼んでいい?」

「構いませんが……」

 小雪ちゃんなんて呼ばれるなんて施設以来だ。

「可愛い名前よね。小雪ちゃん」

「はあ、小雪が降る日に捨てられていて……」

「捨てられて!?」

 しまった、と小雪は思ったが、隠しておくほどの過去でもない。

「私、施設育ちの孤児なんです。その孤児院の前に捨てられていて。小雪っていう名前は施設の人が付けてくれた名前なんです。小雪のちらつく日に捨てられていたから小雪なんです」

 小雪が自分の境遇を簡単に話すと、主任、圭一郎はしくしくと泣き始めた。

「そう、苦労、したんだね……」

 小雪は黙ってセールで買った二百五十円のハンカチを差し出した。

「……ありがと」

 そう言って圭一郎は受け取ると、ぽろぽろ零れる涙を拭った。一通り泣いてしまうと落ち着いたのか、くすんと一つ鼻を啜った。

「ハンカチ汚しちゃった。ごめんね、ちゃんと洗って返すからね」

「いえ、安物ですし。気にしないで下さい」

 嘘ではない。

「小雪ちゃん、こんなに苦労したのに。すれていなくて男勝りないい子に育ったんだね」

「はあ」

 男勝りというのは褒め言葉なんだろうか。

「小雪ちゃんみたいな子と友達になるのが夢だったの。嬉しい」

「はあ」

 既に圭一郎の中では小雪は友達認定されているようだった。もはや「はあ」以外の返事が出てこない。

「それにしても、主任、じゃなくて圭ちゃん。友達ってなにをすればいいんですか?」

 小雪にだって数は少ないが友達がいる。しかし誰も同年代である。圭一郎は小雪よりも十歳は上だし、しかもこんな乙女チックな男性と友達付き合いをしたことなどない。あるわけない。

「別に普通の友達付き合いよ。可愛いカフェに行って、美味しいケーキを食べながら恋バナしたり」

 恋バナか。ハードルが高そうだと小雪は思った。小雪は中学、高校と恋には無縁な生活であった。施設を出て一人になったあと、どう自活していけばいいのかそれで頭が一杯だったのだ。

「ウィンドウショッピングしたりとか」

 それもハードルが高そうだ。小雪の来ている服は安さだけが売りの大量生産品である。ちなみに圭一郎の着ているスーツは見るからに高そうなブランド品だ。

「すみません、あまりご期待に沿えそうになくて。私は可愛い女の子とは言い難いと思うんです」

 正直に小雪は言った。

「そんなことないわよ。小雪ちゃんは磨けば可愛い女の子に化けるわよ。あたしが色々教えてあげる」

 そう言って圭一郎はウインクした。そして半ば強引に次に会う約束を取り付けられた。


 圭一郎に指定されたカフェは若い女の子とカップルで溢れ帰っていた。思わず引いてしまった小雪だが、「小雪ちゃん、こっちよー、こっち」と圭一郎に手を振られ逃げらなくなってしまった。

「こ、こんにちは」

「こんにちは小雪ちゃん」

 圭一郎はにっこりと笑った。そして店のメニューを差し出してきた。

「ここのケーキはとっても美味しいのよ」

「そ、そうなんですか」

「あたしはなににしようかしら」

 圭一郎は木苺のタルトを頼み、小雪は無難にチョコレートケーキを頼んだ。ケーキの種類がよくわからなかったのだ。ケーキが運ばれて来る間に圭一郎は紙袋を小雪に渡してきた。

「ハンカチ、ありがと」

「はあ、どうも」

 何故ハンカチ一つ返すのに紙袋なんだろうかと思って中を開けると、洗ってアイロンがかけられたハンカチ以外にもトートバッグが入っていた。空にかかる虹を見つめている女の子の凝った刺しゅうがしてある。かなり手の込んだものだ。

「ふふふ、ハンカチのお礼。あたしが作ったんだけど、どうかしら」

「これを、圭ちゃんが!凄いですね」

 凄い女子力である。そこらの女子も真っ青のレベルだ。

「気に入ってくれたかしら?」

「え、ええ。とても可愛いです。でももらっていいんですか?」

「勿論。小雪ちゃんのために作ったんだもの」

 ふふふと嬉しそうに圭一郎は笑った。

「今日は小雪ちゃん、時間はある?」

「特になにも予定はないです」

 運ばれてきたケーキを食べながら小雪は答えた。ちなみに圭一郎は大変な甘党らしく、紅茶に砂糖を三杯も入れていた。

「じゃあ、ウィンドウショッピングしましょ」

「構いませんが」

 けれど本当に見るだけで何も買わないだろうなと小雪は思った。

 カフェを出てお大通りをぶらぶら歩いていると、圭一郎が足を止めた。

「このワンピース小雪ちゃんに似合うんじゃないの?春頃には着れるわよ」

 圭一郎はマネキンが着ている花柄のワンピースを指差した。あまり興味はなかったが、どれどれと覗き込む。小雪が見るのはワンピースではなく、お値段である。五万八千円であった。薄給の小雪に手が出る値段ではない。

「か、可愛い過ぎて私にはちょっと……」 

 そんな言い訳をして躱そうとしたが、

「試着くらいはしてみましょ」

 そう言って店の中に入ってしまった。しぶしぶ小雪も後に続く。圭一郎は店員と話をし、小雪は試着室に放り込まれた。ワンピースを恐る恐る着て、試着室を出た。

「可愛い!小雪ちゃん!可愛い!」

 圭一郎は開口一番そう言った。

「そ、そうですかね……」

 小雪は後頭部をぽりぽりと掻いた。

「ね、これにしよ」

 しかしお値段のことを思うととても買えない。小雪は正直にそう言うことにした。

「いや、ちょっと高くて……」

「プレゼントしちゃう」

「え!?」

 圭一郎の思いもかけない言葉に目を見開いた。

「いえ、いくらなんでも。こんな高いモノを」

「お友達になった記念よ」

 そう言って圭一郎はとっとと会計を済ませてしまったのだった。


 その後も圭一郎との不思議な友達付き合いは続いた。圭一郎の女子力はとにかく凄まじかった。

「小雪ちゃんの肌は綺麗なのに、少し乾燥肌よね」

「ええ、少しアレルギーがあって」

 そのせいでほとんど化粧をしていない。

「それならここの化粧品が超お勧めよ」

 そう言って、スマホを見せてくれた。おかげさまで小雪が使っている化粧品は圭一郎のセレクト一色になった。

「小雪ちゃんの髪は綺麗な黒髪だけど、印象が重たいわね。少し染めるといいわよ」

 そう言われて美容院で染めてみたりもした。そのせいで同僚からは「綺麗になったな、彼氏でも出来たのか?」と言われる始末だった。出来たのは自称女友達だとは言えず、適当に笑って誤魔化した。

 料理も完璧だった。ご馳走したいと言われて家に招かれた。圭一郎はタワーマンションに住んでいた。さすが高給取りと小雪は思った。男の一人暮らしの部屋に上がることに若干戸惑いがなかったわけでもないが、なにせ圭一郎の心は完璧なる乙女である。万が一にも間違いなんて起こらないだろう。

「寛いでいてね」

「はあ」

 圭一郎はそう言ってシステムキッチンへと向かった。いい匂いが直ぐにしてきて、小雪の胃袋をくすぐった。

「お待ちどうさま」

 そう言って圭一郎が運んできた料理の数々に小雪はぶっとんだ。オニオンスープから始まり、キッシュ、野菜たっぷりのミートローフ。デザートはくるみとりんごのタルトだった。

「どうぞ召し上がれ」

 促されてどきどきしながらフォークで料理を口に運んだ。

「美味しい……」

「うふ、うんと食べてね」

 どれもこれも絶品だった。小雪は普段インスタントやコンビニ弁当で済ませる。作ってもカレーとチャーハンぐらいである。どこまで女子力が高い乙女なんだと小雪は感心を通り越して感動した。


 いい人だなあと小雪は思う、少し、いや、かなり乙女チック過ぎるけど。ちょっと奇妙な友達関係だけど、悪くはないなと小雪は思い始めていた。

 けれどしばらくすると圭一郎はどうやら彼氏と長続きしないということがわかった。どうしてだろうと思った。裁縫も料理もそして稼ぎも悪くない。容姿もいい。初めから圭一郎と付き合う男だ、男が駄目という理由ではないだろう。圭一郎は振られると例のスナックに小雪を誘い、愚痴るので比較的早く気付いた。

「重いんだって……」

 圭一郎はウォッカを飲みながらぽつりと言った。彼は振られると必ずウォッカを飲む。小雪はレッドアイを飲みながらそれを静かに聞いていた。

「重い、ですか?」

「あたしの愛は重いんだって……」

 親の愛情すら知らない小雪にはその理由がわからない。うんと愛されるのならそれは幸せなことでないだろうか。

「でも、そういう愛し方しか、あたしは出来ない」

切なげに圭一郎は言う。

「それは、圭ちゃんが愛情深いということで……圭ちゃんは悪くないと思います」

小雪は圭一郎を傷つけないように言葉を選んで話した。

「そう、かな……」

「そうです。愛に重過ぎるなんてことないです。圭ちゃんは運命の人に出会えていないだけなんです。圭ちゃんの愛を全て受け止めてくれる人がきっといます」

「運命……」

 その言葉に圭一郎はぱっと目を輝かせた。

「そうよね!いつか出会えるわよね、あたしの運命の人に」

「はい」

 圭一郎は「運命の人」という単語をいたくお気に召したようだった。さすがは乙女である。小雪は感心した。

「よっし!がんばろ。ありがと、小雪ちゃん。やっぱり持つべきものは女友達よね。小雪ちゃんと友達になって本当に良かった」

 圭一郎は無邪気に笑った。小雪も圭一郎と友達になって良かったと自然に思えるようになっていた。


 それから圭一郎は今まで以上に積極的に恋をしているようだった。それでも三か月続けばいい方でやっぱり長く続かなかった。その度に小雪をスナックに連れて圭一郎は愚痴った。小雪はその度に「運命の人」じゃなかったと励ました。

 その繰り返しだったが、なんと圭一郎と半年続く恋人が出来た。小雪と圭一郎が友達になって三年の月日が流れていた。雪が舞い散るあまり好きではない季節に、圭一郎はぜひ恋人を小雪に紹介したいと言い、例のスナックへ呼んだ。寒さに震えながらやって来た小雪を待っていたのは圭一郎とその彼氏だった。圭一郎の恋人は眼鏡をかけた優しくおっとりしたおおらかな雰囲気な男だった。こういう男なら圭一郎の愛も受け止め切れるだろう、きっと。

「小雪ちゃん、こちら加藤新輝彦(かとう てるひこ)さん」

「初めまして、小雪さん。圭一郎からお話は伺っています。加藤輝彦といいます」

「白井小雪です。圭ちゃんの友達です。ええと加藤さん」

「輝彦でいいですよ」

「じゃあ、輝彦さん。ええと、圭ちゃんはとてもいい人なんで。女の私から言うのもなんですか。裁縫、料理、家事全般完璧です。だから、ええと。大事にして下さいね」

「小雪ちゃん!」

 圭一郎は感動してぶるぶる震えている。

「勿論ですよ」

 輝彦は穏やかな笑みを浮かべた。

「圭一郎は愛情深くて、俺惚れ込んでいるんです」

「そうですか」

 今夜はどうやら二人の惚気で終わりそうだなと小雪は思った。

「今度一緒に暮らそうって輝彦さんと話をしているの」

「そうなんですか?」

「ええ。少しでも長く一緒にいたくて」

「素敵ですね」

「うふふ、小雪ちゃん遊びに来てね」

「いいんですか?」

「小雪ちゃんは特別だから」

 そんな風に和やかに会話は進んで行った。ところが、がたんとスナックのドアを乱暴に開ける音がした。冷たい風が吹き込んで、小雪は何事かとそちらを見た。明らかに風体の悪い男が二人ずかずかと入って来た。店内は静まり返った。小雪は思った。絶対にあっち系の人たちだ。運の悪いところに鉢合わせしてしまった。運が悪いはこの店のママの方かもしれないが。

「ママさんはいるかい?」

 作ったような低い声で男は言った。

「私です」

 気丈にもママはすぐさま名乗り出た。真っ赤なドレスが戦闘服のようで頼もしい。

「ママさんのところだけなんだよ。うちのおしぼりを使ってくれないのは」

「お客様からいだいたものがまだ十分に残っていますので必要ありません」

 やくざの常套手段だ。おしぼりを納品させて高額なリース料を取る。

「その言い訳は聞き飽きたんだよ!」

 やくざの男が怒鳴りつけた。だがママは引かない。

「そう言われても、そうとしか言いようがありません」

 参ったなと小雪は思った。見れば圭一郎は輝彦にしがみ付いている。だが肝心の輝彦もかたかた震えて役に立ちそうにない。これだから男って奴は。小雪は覚悟を決めた。そっと男たちの視界に入らないように、カウンターの中に入り込む。そして一本の刺身包丁を握りしめた。そして機会をうかがう。やくざとママの会話はどんどんヒートアップしてくる。

「ええ加減にしろや!」

 男がついに切れた。テーブルにあったビール瓶を掴んで勢いよく叩き割った。残ったビールが飛び散る。

(今だ……!)

 小雪は刺身包丁を握り締め、カウンターを飛び出して、男とママの間に立ち塞がった。

「なんだあ?この小娘」

「とっとと、この店から出て行け!このチンピラ」

「チンピラだと!?われえ、俺らの組を知らねえのか」

 男が割れたビール瓶を小雪に突きつけた。

「小雪ちゃん!」

 ママの悲鳴が背後から聞こえた。

「……三、二、一、だ」

 小雪は言った。

「はあ?」

 男は「なに言っているんだこいつ」と言った顔で小雪を見た。

「三、二、一、でお互い、刺す」

 小雪は刺身包丁を男に向けた。

「いいか、三、二、一、だ」

 男の顔色が一瞬変わった。

「私には失うもんなんてなにもない!てめえにはあるか!」

 さあ、と小雪は宣言した。実際に身寄りのいない孤児だ。そんなものはない。

「三、二、一!」

 男はビール瓶を投げ捨てた。舌打ちして。小雪が本気だとわかったのだろう。

「帰るぞ」

 もう一人の連れに声をかけた。

「しかし、兄貴」

「うるせえ」

 二人は店から立ち去っていった。ママはくたくたとへたり込む。

「ありがと……小雪ちゃん、凄い勇気あるのね」

「あははは、実際のところ少し怖かったです」

 包丁を持った右手を見れば少し震えていた。パチパチと店内から拍手が起きた。小雪は照れ臭くて後頭部をがりがり掻いた。刺身包丁をカウンターに置くと「小雪ちゃん」と声がかけられた。圭一郎だ。だが様子がおかしい。瞳をうるうるさせている。心配をかけてしまったのだろうか。何せ心は乙女なのだ。

「あー、怪我もなかったし」

「惚れたわ!!!」

「は?」

 圭一郎はなにを言っているのか。

「小雪ちゃんに惚れたわ!こんな男らしい人初めてよ!」

 圭一郎は感激に身体を震わせている。

「お願い、あたしの恋人になってちょうだい」

 えええええええ!?と小雪は思う。

「いや、だって。圭ちゃんには輝彦さんが」

 見れば輝彦は白目を剥いてひっくり返っている。

「あんな、なよなよした男だとは思わなかったわ」

 ふんと圭一郎は鼻を鳴らした。もう愛想は尽かしたというふうに。

「あの、でも。圭ちゃんは女には興味なかったんじゃ」

「私は小雪ちゃんのおかげで気付いたの」

 圭一郎は乙女の顔つきで言った。

「あたしが好きなのは男じゃなくて、男らしい人なんだって」

「はあああ!?」

 圭一郎は小雪の手を取った。

「小雪ちゃんがあたしの運命の人だったのね」

 じーんと感極まった様子で圭一郎は言った。

(んなわけあるかい!)

 そう言おうとしたが、店内から拍手が巻き起こった。ヒューヒューと口笛を吹く音まで聞こえる。


「圭ちゃん、おめでとう!」

「小雪ちゃんにも遂に春が来たな」

「幸せにな」


 とても断られる雰囲気ではなくなってしまった。

「あたし小雪ちゃんのために、毎日美味しいお料理を頑張って作るわ」

 それはちょっと魅力的かも。小雪は自分の食い意地の汚さを呪った。

「小雪ちゃんに全身全霊で尽くすわ!!!」

 なるほどと小雪は思った。確かにこれは重い。圭一郎が恋人と長続きしない理由がわかった。でも親の愛情すら知らない小雪にとって愛は重ければ重いほどいい。

「もう一生離さないわ。あたしの運命の人」

 ひしと抱き締められた。

(このまま圭ちゃんの彼女になるのかなあ)

 いや、圭一郎は乙女だから彼女が出来ることになるのか?すると自分が彼氏か?いやいや、そんな馬鹿な。

 歓喜にむせび泣いている圭一郎にぎゅうぎゅうに抱き締められながら小雪はそんなことを思っていた。


 春はすぐそこまで来ている。





 了

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彼女のような彼氏 UMI(うみ) @umilovetyatya

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