第33話 幕間 とある転移者の末路(転移者視点の異世界転移譚)
ワカバヤシゴウヤは、昨日から風邪気味だった。
仕事が忙しくて病院にも行けない状態である。結果的に体調は悪化し、体温も三十九度を超えていた。
インフルエンザの可能性もあるので「休んだ方がいいのではないか?」と会社に相談したが、ブラックな企業である勤め先にはそんな論理は通用しない。
「たかが風邪だろ? 気合いで治せよ!」
体育会系の上司はそんな返答をする。
仕方がないのでサージカルマスクをして、額には冷却ジェルを貼り、鉛のように重たい身体を無理矢理動かして彼は家を出る。食欲はなかったので途中のコンビニで栄養ドリンクを買い、胃に流し込んだ。
目眩がする。
世界が回っていた。駅の改札を抜けたあたりで、ぐるんぐるんと視界が回転するような感覚に陥る。
目の前には駅の売店が見えた。栄養ドリンクだけでなく、水分もさらに追加で摂らなければまずいなと、そちらに向かおうとしたところで足がもつれて倒れてしまう。
その瞬間、視界が真っ暗になり、感覚が遮断されていった。
(ブラックアウトというのは、こんな感じなのだろうか?)
倒れた途端、まるで底のない落とし穴へと延々と落ちていくような状態が続く。
何秒も、何分も、何時間も落下していく。頭からは血の気が引いていた。
「うわぁぁあああ!!」
このまま地面へと叩きつけられてもいいから「早く止まってくれ!」と彼は願い続ける。
そして意識は喪失した。
彼が再び目覚めると、そこはどこかのベッドの上でもなく、ましてや、あの駅構内でもなかった。
ぼんやりとした曖昧な空間。物体の境界すら見えてこない。
自分の存在すらあやふやになりそうで、これがまだ夢の中であるのだと納得しそうになるのだが――。
「あなたはテキセイシャですね」
「テキセイシャ?」
優しげな女性の声で、彼の意識が引き戻される。
「つらかったでしょう。でも、よく頑張りましたね。あなたは選ばれるべくして選ばれた勇者なのです」
「勇者?」
それは、何かのゲームか、それとも通勤の合間に読み始めたネット小説の内容に影響されているのだろうか? そんな風にワカバヤシは考えてしまう。
「あなたは再び、前の世界での苦しい生活を望みますか?」
彼の脳裏に浮かぶ最悪の日々。虐げられ、奴隷のように働かされ、ただ帰って寝るだけの何も生み出さない人生。
「イヤだ! もうあんな所には戻りたくない」
それは彼の本心だった。
「わかりますよ。もう我慢する必要はありません。あなたは報われるべきなのです」
彼の目の前のぼやけた人物が近づいてくる。女性らしき人だということはわかっていたが、近づくにつれ、それが絶世の美女であることに目だけでなく心も奪われる。
細くしなやかで輝く黒髪。肌はきめやかで白く透き通るようだ。優しげな漆黒の瞳がこちら見つめる。
「あなたは?」
「わたしはビワナの一人。エントワ」
「ビワナ? エントワ?」
「あなたに解りやすく説明するなら、
「女神さまということですか?」
「ええ、そう思ってくれて間違いないわ」
女神さまが彼の右手を両手で優しく包み込む。ふわっと暖かい気持ちが心の底から沸き上がってきた。
「オ、オレは何をすればいいのですか?」
「あなたには前の世界とは別の場所へと行ってもらいます。そこで、あなたの好きなように生きなさい。あなたは幸せになる権利があるのだから」
「別の場所……異世界ってことですか? そこはどんなところなのでしょう?」
「前の世界と違って魔法が存在する場所よ。あなたの世界でいうところの、中世の時代に近いかもしれないわね」
(それはもしかして、オレが夢見たファンタジー異世界なのだろうか?)
「あなたには強力な魔法と、不死の能力を与えましょう。わたしができるのはこれまで……これ以上はあなたに干渉できないから、あなたが思うとおりに行動するといいわ」
女神の手が彼から離れていく。そしてまた、視界が黒で覆われていく。
彼は再びブラックアウトした。
**
ワカバヤシの目が覚めると、そこは野外だった。建物どころか人工物のまったく見えない平原が目の前へと広がっている。
辺りは薄暗くなり始めていた。日が沈んだ直後ぐらいの時間だろうか。うっすらと星が見え始めている。
辺りを観察する。すぐにここが、彼の住んでいた場所とは違うことがわかった。道はアスファルトではないし、見慣れない植物も生えている。
もちろん、彼自身がどこかで拉致されて海外へと放り出された可能性も否定できないだろう。だけど、決定的なことが一つあった。
空には薄黄色に光る月が二つ。初めて見るような神秘的な光景。
「ダブルムーンなんて、昔、なにかの創作絵画で見た以来かな」
そんな独り言が思わずこぼれてしまうほど、その風景は幻想的な美しさを持っていた。
同時にそれは、ここが異世界だということを証明している。あとは、ここが夢の中でないことを確かめるだけだ。
頬をつねって痛みがあれば、これは夢ではない。
右手を頬にもっていき、そこ触れようとしたところで、背中に激痛が走る。
「ぐはぁ……っ」
(痛ぃい!!)
胃の中から何か生暖かいものが逆流する。そして痛みが我慢できないほどに、倍増していった。まるで傷口を抉られているかのように。
(痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!!!!!!!!)
彼には状況の確認ができなかった。
(何が起こった? この痛みは背中に何か鋭利なものが突き刺さった感じか? もしかして、異世界に転移してすぐに夜盗か何かに襲われたのだろうか?)
考えても答えはでない。見知らぬ異世界に放り出されて、いきなり襲われたのだ。
(けど、オレは女神さまから強力な魔法と不死の能力をもらったのだ。こんな傷、すぐに治して――)
すぅーっと痛みが治まってくる。背中の激痛は和らいでいき、数秒で痛みを感じなくなった。
「ほらぁ……うっ……ぐふぅっ……」
痛みは引いたのに、彼の口からは鉄の味のする何かが溢れてくる。手で拭うとそれは真っ黒な粉のようなものだった。
だけど、痛みはなくなったのだ。すぐに傷口も治癒するだろう。
(それよりも、オレを刺したのはどんな奴なんだ? あとでオレの攻撃魔法で懲らしめてやらないと……)
振り返ろうとして力が入らずに、彼はそのまま膝をついた。
「ぁれ?」
足に力が入らない。腕も同様だ。
どうしたのだろうと自分の身体を確かめるように、彼は首だけを回して観察する。
腕が黒くなっていた。そして先端部分からぼろぼろと崩れていく。まるで木炭で作った彫像のように。
痛みはないのに身体が動かない。いや、痛みが無いのではない。身体の感覚が麻痺しているのだ。
そのまま視界が反転する。ごろんと頭が地面に叩きつけられた。
今度は身体どころか、首も動かない!? 仕方ないので、彼は眼球だけを動かして状況を確認する。
「!?!!!!!」
視界が捉えたのは、半分以上黒くなって朽ちかけた彼自身の身体だ。どう見ても、首から上がなくなっていた。
彼自身の意識はまだあるのだから「馬鹿げている!」と考えるが、結局のところ何が起こっているのかわからない。意識だけがどんどん遠のいていく。
そんな中、男の声がした。
(オレを刺した奴だろうか?)
「へぇー、まだ生きてるんだ。死ねない身体ってのも不便だね」
(何を言ってる? いや、何を知ってるんだ? 異世界へ転移してきたばかりだというのに、なぜこの男がオレが不死の能力を知っているんだ?)
「……ぁ……ぁ……ぁ」
聞きたいことがあるのに声が出なかった。そんな彼を哀れみの目で見下ろす男が見える。二十代くらいの黒髪で、さして特徴のない顔。
その彼の唇が動いた。
「主人公はおまえじゃないよ」
** →(視点は本来の主人公であるマキトウヤへ変更)
そして、視点は俺、真木桃矢へと戻る。
地面に転がっている生首は、何か言い足そうに口をパクパクとさせていた。
「すげーよなぁ、不死設定って」
俺がそう感心していると、カトゥーが興味なさげに欠伸をする。
「なぁ、カトゥー。こいつって、生きてた場合、何人くらい人間を殺すんだっけ?」
オレの問いかけに、ようやく彼女の重い唇が動いた。
「そうだねぇ。ざっと二億人かなぁ。たぶんこの世界の三分の二くらいの人を死滅させるよ。さすがに、なんだかなぁ、だよねぇ」
柔らかな微笑み(たぶん作り笑い)で、彼女は恐ろしい事をさらりと言う。
「治癒魔法でこいつのインフルエンザを治すって手はなかったのか?」
「治癒魔法はウイルスまで治せないよぉ。この世界の魔法だって、そんなに万能じゃないんだから」
「いや、この世界の魔法じゃなくて、その……神様的に」
「うーん、それは無理かなぁ。だって、
今回の依頼内容は、インフルエンザウイルスキャリアのまま異世界へと転移した者を、早急に駆除すること。そのまま放置しておけば現地人が感染して、治療もできずに死んでいくので、その前に処理するのが俺の仕事だった。
「けど、こいつ、なんも悪いことしてないのになぁ」
俺は哀れみの目で転がっている生首を見る。
「しかたないよぉ。それが仕事だし。この人が人類を死滅させたら世界のバランスが狂っちゃうもの」
「まあ、たしかに人類滅亡なんてシャレにならない話だけど」
「それより、もう一回モラルタで刺した方がいいかもよ。このままだと分解されるまで時間かかっちゃう。わたし、なんか眠くて」
カトゥーが、そのやる気の無い声で、生首をうっとおしげに眺めながらそんな指示を出してくる。
ぐさりと、転移者の額にモラルタを突き刺す。ぶるぶるっと眼球が痙攣し、口が半開きの状態で停止した。きっと脳の内部から粒子化して崩壊しているのだろう。
彼は死ねないまま粒子レベルまで分解され、そして後は特殊な魔法でそれは回収される。
そこまで分解されても死なないというのは、どういう気持ちなのだろうか? いや、もう脳さえも機能していないのだから、痛みどころか思考すらできなくなっている。ただ存在しているだけだ。そう考えると『生』とはなんだろうと、哲学的に考えてしまう。
まあ、そもそも前の世界での身体は消滅して死んでいるのだ。この身体は、いわば亡霊のようなもの。そんな状態を「生きている」と呼ぶのも烏滸がましいかな。
「哀れだね」
俺はひとりごちる。転移者の末路としては最悪な終わり方だ。まだ、魔王にぶっ殺される方が幸せなのかも知れない。
五分ほどで、彼であったものはすべて黒い粒子となった。彼が着ていた服でさえ。
最強のチートアイテム『モラルタ』は、その世界の異物なら、すべて粒子と化してしまう。本来存在すべきでなかった物体は、すべて「無かったこと」にされるのだ。
「後片付けがめんどうなんだよねぇ。マキくんに代わってほしいくらいだよ」
彼女は自分の能力を使うことを面倒がる。それが仕事だという自覚はあるのだろうが、なにぶんにもやる気がないのだ。
適当に呪文のようなものを唱え、適当に手を動かしてその作業を終える。すぐに欠伸。見ているこちらは脱力ものだ。
細かい黒い粒子は、空間にぽっかりと開いた穴に吸い込まれていった。まるで掃除機のようである。
こうしてまた、一人の転移者が闇に葬られる。世界の安定と引き替えに
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